1076.鍛錬篇:そして伝説へ
今回は「結末のその先」を決めておくことについてです。
あなたが「結末」を決めると連載小説が書けない方なら、「結末のその先」を決めましょう。
連載小説を歴史の一部にするのです。
そして伝説へ
ストーリーを考えるとき、「結末」は必ず決めましょう。
「結末」を決めずに、書き出し時の設定だけで連載を始めると、早晩エタります(エターナル:永遠に終わらない)。
だから、事前にきちんと「結末」を決める必要があるのです。
しかしそれだけだと収まりが悪いときがあります。
結末のその先へ
「結末」を先に決めると伸び伸びと書けない。だから「結末」は決めないほうがよい。
そう考えてしまう書き手の方も多いのが実情です。
とくに小説投稿サイトでの連載は、いつまでも連載できるため「結末」を決めず自由に書きたい方が多いように見受けられます。
ですが、本当に「結末」を決めずに書いたほうが伸び伸びと書けるものでしょうか。
これは明らかに誤解です。
実際には「結末」を決めて書いたほうが伸び伸びと書けます。
なぜなら物語が帰結するところが明確なため、どんな展開をしても最終的には「結末」に落ち着けるからです。
近しいところでは渡航氏『やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。』が挙げられます。この作品は主人公・比企谷八幡と、雪ノ下雪乃、由比ヶ浜結衣との三角関係で物語を進めてきたのです。物語の「結末」においてどちらとくっつくべきなのかをまったく決めなくても連載できました。しかし最終第14巻で三角関係にピリオドが打たれます。それが書き手にとって当初から想定していたものなのか、まったく想定していなかったものなのか。読み手にはわかりません。ただ、書き手はこの「結末」を書きたかったんだろうな、と察するのです。
そう聞いても、やはり「結末」は決めたくない、という方もいらっしゃるでしょう。
「結末」を決める方にも決めない方にも、ひとつ提案したいことがあります。「結末」のその先を決めましょう。
「結末」のその先とはなにか。歴史の続きのことです。
たとえば織田信長の話を創作で書くとき、「本能寺の変」で明智光秀に焼き殺されて「結末」を迎えます。
しかしその先、つまり歴史の続きを決めておくのです。
主人公・織田信長が焼死したのち、明智光秀が天下を取りますがすぐに羽柴秀吉に誅殺されてしまいます。そして羽柴秀吉が豊臣秀吉と改名して天下を治めることになるのです。
これを小説で言うなら、織田信長はどのような死に方をしてもよいので、その後に「羽柴秀吉が天下を統一する」という歴史を確定させてしまいます。そうすることで、織田信長の退場の仕方にバリエーションが生まれるのです。
たとえば本能寺に火を放たれても人知れず生き延び、一僧侶となって余生を送ってもよい。千利休と名乗って豊臣秀吉と裏で結託してもよい。
どうですか。歴史の続きつまり「結末」のその先を確定しておくと、本当に伸び伸びと書けるような気がしませんか。
「結末」のその先を確定させる優位性
マンガですが堀越耕平氏『僕のヒーローアカデミア』を例に挙げましょう。
この作品はヒーロー養成学校「雄英高校」が舞台です。高校のイベントごとにストーリーが展開されていきます。そしてもうじき主人公たちヒーロー科1年A組が進級するところまでやってきました。この一年間のイベントになにを起こすのかは、まったくの自由です。
ただしタイトルは『僕のヒーローアカデミア』ですから、「雄英高校」を卒業するのが物語の「結末」であることは明らかでしょう。ですがその三年間の中でイベントをどう活用するかは書き手の自由です。「結末」がどうなるかまでは決めなくてもかまいません。
ただし「結末」のその先は確定しています。主人公・緑谷出久の級友たちが一人前のヒーローとなって活動する未来です。もちろん不確定要素もあります。「時を巻き戻す」個性を持つ少女の「個性」により、全人類に宿っている「個性」が完全に失われる、という未来です。
少年少女が一人前のヒーローになるのか、全人類の「個性」が完全に消失するのか。少なくともどちらかの「結末」のその先は決まっているはずです。
だから「雄英高校」卒業まではどんな展開をしてもかまいません。極端な話、主人公が途中で死んでもまったく問題なし。「結末」のその先さえ決まっていれば、どんな展開でも受け入れてしまいます。
読み手としては、イベントごとに起こる出来事で主人公たちがどんな活躍を見せてくれるのか。それが読めれば嬉しいのです。
読み手を楽しませるために「結末」を決めないのはかまいません。
ですが「結末」のその先は決めておきましょう。
先ほどの織田信長の物語でも「羽柴秀吉が天下を統一する」という「結末」のその先を決めておけば、あとはどんな展開をしてもまったく問題ないのです。
第六天魔王として日本中に恐怖を撒き散らそうとする織田信長を、正義の使者・明智光秀が倒す。しかし織田信長の寵愛の厚かった羽柴秀吉が信長の仇を討って天下を統一する。そんな展開も「結末」のその先さえ決まっていれば、信長が「結末」でどうなろうとまったく関係ないのです。
だから伸び伸びと好きなように連載を続けられます。
どうですか。「結末」を先に決めたくない方は、「結末」のその先を決めておきましょう。そうすればどんな展開でも最終的な落としどころは定まるのです。
これならば自由に連載を続けても「エタる」心配はありません。
そろそろ評価もされなくなってきて終わり時だなと感じたら、適当な「結末」で終わればよいのです。それから「結末」のその先へとつなげればよいのです。
結末のその先は書かなくてよい
「結末」と異なり、「結末」のその先は文章として書く必要がありません。
そもそも私にこの発想を抱かせたのは、田中芳樹氏『銀河英雄伝説』です。
『銀河英雄伝説』は元々『銀河のチェスゲーム』という小説の歴史の一部として創作されています。つまり「結末」のその先がすでに確定しているのです。そのうえでの連載ですから、どんな展開でも「結末」さえ帳尻が合えば問題ありません。
おそらく田中芳樹氏は年表を作ってから執筆を始めたはずです。そうすれば「結末」のその先につながるような「結末」が決められますし、おおまかな展開も定まります。
それ以外は完全に自由です。どんな戦い方をしようと、どんな駆け引きがあろうと、書き手である田中芳樹氏の好きに書けます。
そして「結末」のその先はまったく書く必要はないのです。
ですが、田中芳樹氏はサービス精神がありますから、「結末」のその先についていくつか書き及んでいます。「獅子の泉の七元帥」については物語の「結末」のその先についていくつか言及されているのです。これは完全に読者サービスなのか、単に「結末」のその先も決まっているから、それを引用してきただけなのか判断が分かれます。
私は当初「読者サービス」派でした。しかし「結末」のその先をあらかじめ決めておくと考えたら、これは引用してきただけだと気づきました。
本来なら「獅子の泉の七元帥」の設定は、『銀河英雄伝説』という作品の中ではまったく必要のないものです。
小説に必要のないものを書く余地などありません。必要があるから書くのです。
もしかしたら『銀河英雄伝説』の終盤にかかった頃から、田中芳樹氏は「結末」のその先の物語である『銀河のチェスゲーム』を連載できるのではないかと考えていたのではないでしょうか。そうであれば「獅子の泉の七元帥」の設定を書いておけば、スムーズに移行できると想定していたのかもしれません。
だから「結末」のその先について書いておいた、と考えるのが自然でしょう。
「結末」のその先は、書かなくてもかまいません。書いておいたら現作品は「歴史」に組み込まれます。続編も構想しやすいのです。続編を書くつもりがなくても、「歴史」に組み込まれれば物語に深みが出ます。
「結末」のその先を決めておくだけでも、読み手にアピールする大きな効果が期待できるのです。
心が動きませんか。
最後に
今回は「そして伝説へ」について述べました。
サブタイトルは『DRAGON QUEST III そして伝説へ…』と『銀河英雄伝説』のダブルミーニングです。
「結末」のその先を決めておけば、小説の連載は自由を得ます。
いくらでも伸び伸びと好きなように書けるのです。
「結末」を決めたくない書き手の方も、その先を決めておくことで整合性のとれた物語の展開を手に入れられます。
ぜひ「結末」のその先を決めてみましょう。




