私は自分の文章が陳腐に感じる
この文章は前回の『私の限界点』の追記事項である。私の致命的な点をさらにもうひとつ記載しようとしたのだが、私のなかでは分けた方がいいような中身になったが故にここの分離して掲載するものである。
私は文章のなかで、描写、と言うものが全般的に苦手なのである。それが私の文章をスカスカにする主因である。その描写には様々な描写があるが、それを一つ一つ見て行くものとしよう。
第一に心理描写である。これは私が苦手とするなかでは一番苦手なものである。世の中簡単に感動できたり泣けたりする人が多い。サッカーの試合だとかなんだとかで感動するような人である。私はそうではない。皆が別れだとかで泣いていたなか、一人立ち尽くして何も思わなかったのだ。ただただ終わったという感慨を胸に立ち尽くしていた。その感慨も次の日には忘れた。私はそもそも心が鈍い人間なのかもしれないが、その為心理描写と言うものが苦手なのである。感動というものは決して軽々しく扱わない、本当にここぞというときだけと決めているがどうも完全に錆び付いたようにも思わないでもない。その為だろう。
だから、私は文章のなかで常に心理描写を模索して、諦めて省略を繰り返すのである。それが臨場感を削ぐ原因の1つである。
第二が動きの躍動感である。なんだか書き込みを多くすると躍動感が削がれてのったりした感じになるが、少なくしても今度は何がどのように動いているのか判らない。適切に書いたと思ってもなんだか足りない気がして同じことを繰り返す。そうしてなんだか躍動感と言う点に関して物足りないものが出来上がるのである。私は蒸気機関車の話を書いているが、私は蒸気機関車の躍動感の一割も描写出来ていないのだと感じる。独特な振動とか、風を感じながら走るようなところとか、他にも書きたいことはたくさんあるが書けないのだ。その様なことを描写しようとしてもしきれない。そこが常に心残りである。しかしていかんともしがたい。
第三が情景の描写である。これがなぜできないか。それは私が読書量不足と言うこともあり、知識が不足しているからである。私は蒸気機関車に関する知識に偏っているため、他に書かねばならぬ情景に全くの想像力が働かないのである。これは心理描写のところと同じように、経験がないがゆえの想像力が及ばない点である。木目のさわり心地だとかは書いても仕方ないものは浮かんでも、それが風景や風の薫り、そのようなものが全く書けないのである。
そのような描写が世界観を拡張し、実在感を増すのであるが、悲しいかな書けないのだ。だから、私の文章は書き割りと言うか台本じみてくる。肝心の背景が弱いのである。小学校の学芸会でやっている劇の台本のように。
第四が人物像の描写である。これは社会経験の不足が原因である。つまりは会ったことがある人の種類やその背景が限られているからである。
だから私の作品の人物は大抵、実在感を持たせられない。なんとしても持たせたいのだが、それができずに居る。これは今後改善できれば良いのだが、なかなか難しい。特に私は排他的な人間であるから余計に。
最後が終端の描写である。出来ないから諦めよく、大抵ぶったぎる。何分書ける気がしないのだ。だから尻切れとんぼにしかならないのだな、私の文章は。
なので、ここでぶった切っておしまいにしよう。