女場パニック
御堂游斗が学校を終えて総合病院へ到着したのは、日が沈みそうな五時過ぎだった。
突き刺すような西日と、凍えそうな空気。それ以上に鋭く冷たい歌守日向の視線が游斗を責める。
「……なにさ」
「遅いです。私ずーっと待ってたんですけど?」
明らかに不機嫌だった。頬を膨らますなどの仕草は一切なく、ただただ仏頂面で見下ろしてくるだけ。
「歌守さんって、彼氏がデートに遅刻したら一日中拗ねるタイプでしょ」
「そんなに心狭くないです」
「現にこうして拗ねてるのに?」
游斗は正面入り口への階段に足をかける。日向は浮かんだまま平行移動してくる。
「拗ねてないですよ。ただ、女の子待たせたくせにごめんの一つもないのはどうなのかな~って思ってるだけです」
「はいはい、ごめんなさい」
「……もうちょっと誠意とかないんですかね」
「課題が溜まりに溜まりまくってたんだよ。誰かさんが事件を持ち込むせいで」
自動ドアをくぐると、病院独特のにおいが鼻を通りすぎた。
エレベーターで六階まで上がり、受け付けに名前を書く。ポケットから部屋番号が書かれた紙を取り出した。
その紙を横から日向が覗く。
「それ、本当に正しいやつですか?」
「どうして?」
「だって、近衛から渡されたんですよね? 私、あいつのことはどうも好きになれません……なにか企んでそうで」
「それについては僕も同意見。でも下手な騙りをするようなやつでもないと思うよ。病室なんて誤魔化したってすぐわかる」
窓から差し込む西日で白い廊下がオレンジ色に染まっている。
615号室のプレートに名前を見つけると、游斗は引戸を軽くノックした。
「どうぞ」
男の声が聞こえて、游斗は扉を開ける。
病室のベッドには、患者服を着込み漫画を読んでいる男がいた。ピアスやチョーカーはしていないが、濃見新太に違いなかった。
「んだよ、お前かよ」
濃見は漫画を脇の机に放る。
「僕だとご不満だったかな」
「そんなことはねぇけどよ。入院っつったら美人の見舞いが付き物だろ?」
「はいはーい! ここにメチャカワイイ現役JKいますけど!」
でしゃばる日向だが、当然その声も姿も濃見には届かない。
「なんならYJKですけど! ユーレイジョシコーセー!」
游斗は椅子に腰かける。完全無視された日向はへそを曲げて宙に寝転がった。
「具合はどう?」
「悪かったら飯だけ食って寝てるっての」
濃見は高らかに笑う。その様子を見て、游斗はひとつ安心した。
「というか…………聞いたぞ。俺は殺されかけたんだってな」
「うん……でも大丈夫。もう犯人は捕まえたから」
「……まさか、鈴木のやつが俺をな……」
重い溜め息が濃見の口から漏れる。
「……実は今日は、そのことについて聞きに来たんだ」
「鈴木のことを?」
「いいや。正確には、姫永さんのことを聞きたくて」
濃見は両目を丸くしたあと、ニヤリと悪そうな笑みを浮かべた。
「なるほどなぁー? お前やっぱり姫永狙いか」
「そういうわけじゃ──」
「安心しろ。俺は姫永に手出す気はない。ただの屋上仲間だ」
「屋上仲間?」
「俺もあいつもあの場所が気に入っててよく会うんだよ。そこでどうでもいい話をしたり、そういう程度の仲だ」
机の上のバスケットからミカンを取り、意外にも丁寧に皮を剥く。
「彼女と両替をしてた、っていうのは本当なの?」
皮を剥く手が止まる。
「……なんだ、お前の近くには腕のいい情報屋でもいんのかよ?」
「違うよ。姫永さんから直接聞いただけ」
「そうか……」
濃見は剥いたミカンを一房口に運ぶ。
「ま、別に知られて困ることはねぇよ。いつも万札数枚を千円札に崩してやってるだけだ。どうも、姫永がよく行くゲーセンの両替機が古いらしくてな、万札受け入れねぇんだと」
「ゲーセン?」
と疑問の声を上げたのはへそを曲げていた日向だ。
「ゲーセンって?」
改めて游斗が聞くと、濃見は白いカーテンは開けた。遠くに建つ巨大なショッピングモールを指差す。
「エボルタウンだっけ? あそこん中にあるゲーセンだよ。暇さえあれば行ってる感じだったからな。もしかしたら今日も行ってるかもな」
そう言って続けざまにミカンを頬張る。
日向が不思議そうに腕組みした。游斗はさりげなく彼女の耳元へ近づく。
「どうしたの?」
「姫ちゃんがゲーセンっていうのが、ちょっと想像つかないんです。どっちかっていうと、雑誌とかアクセサリーとかにお金を使う子でしたから……」
「ゲーセンが、想像つかない……」
游斗は以前、夜中に姫永と遭遇したことを思い出した。そのとき彼女は、バイト帰りにゲーセンに寄り道していたと言っていた。
「……あの、濃見くん」
「あ?」
「姫永さんがゲーセン通いだしたのって、いつ頃から?」
「さぁな……俺とつるみ始めたときには、もうゲーセンに入り浸ってたっぽいけどな」
「つるみ始めたのは?」
「三月。……てかこれ全然甘くねぇな」
そう言いつつしっかり残さず食べる濃見。ミカンの皮もしっかりゴミ箱に投げ入れた。
「ってことは、姫ちゃんがゲーセンに通いだしたのは一月か二月……」
日向が殺されたのが一月のはじめ。つまり、日向の死後すぐということになる。
「やっぱ私のことのショックが大きすぎたんですかね……」
気丈に振る舞いながらも彼女がまだ日向の死を乗り越えられていないことは游斗も薄々感じていた。日向を太陽だと称したときの姫永の表情は、今も游斗の脳裏に焼きついている。
「あとはもう本人から聞くしかないか……」
「あ? なんの話だ?」
「ううん。こっちの話」
そのとき、コンコンと扉をノックする音が響いた。
「どうぞー」
扉が開いて入ってきたのは、若いナースだった。ワゴンを引いていた。
彼女は游斗に軽く会釈したあと、濃見に怪訝な顔をする。
「濃見さん、また夕食前になにか食べたでしょう?」
「毎回毎回なんで見抜けんだよあんた……エスパーかよ」
「わかりますよ。色んな患者さん見てますからね」
濃見の前にお盆にのった夕食がおかれる。
「じゃあ、僕はそろそろ帰るよ。ご飯の邪魔しちゃ悪いし」
「ちょっとくらい食ってきゃいいのによ」
「そういうわけにはいかないでしょ」
苦笑いする游斗に、濃見は意地悪な微笑みを浮かべた。
「いいんだよ。どうせ俺は完食できないから」
「それは夕食前に濃見さんがなにか食べるからでしょ?」
ナースに睨まれ濃見が「うっ」と押し黙る。見てみるとゴミ箱には先ほどのミカンの皮以外にもいくつかの果物の皮があった。
「……間食もほどほどにしなよ」
「仕方ないだろ? 俺以外誰も食わないんだから」
「はいはい。じゃあお大事にね」
游斗は静かに扉を閉める。それと同時に、窓の外が暗くなった。夕日が完全に沈んだらしい。
来るときとはオレンジ色から一転、真っ白い廊下を歩く。
「ゲーセン……ですか」
日向が神妙な面持ちで呟いた。
「先輩はゲーム詳しいですか?」
「全然。むしろ歌守さんの方が得意そうだけど」
「中学以来行ってないんでさっぱりです。私どっちかっていうとゲームより読書の方が好きだったし」
「人は見かけによらないって、このことかな」
一階に下り、病院を出る。日没した十二月の寒さは伊達ではなく、游斗の手は自然と上着のボタンを留めていた。
「さ、帰ろっか。夕飯でも買って」
「え? ショッピングモール行かないんですか?」
「明日行こう。というか……」
游斗は大きなあくびを溢した。目尻に涙が浮かぶ。
「課題の山が予想以上にハードだったからね。できればこのまま家帰って休ませてもらいたい」
「えー」
とごねる日向の隣に水滴が落ちる。
それからポツポツと雨が降り始めた。最初は天気雨ほどの勢いだったが、瞬く間に雨量は増えていき、すぐに本降りとなった。
「うそっ、天気予報大外れ!」
游斗は慌てて近くのコンビニへ駆け込んだ。雨に打たれたのはわずかな時間だが、思いのほか濡れてしまった。
「……さいっあく」
「わー、凄い降り方してますね」
他人事のように日向は窓の外を眺めている。その身は一滴すら水に濡れてはいない。
「……濡れないって便利だね」
「そんなことないですよ。濡れなくても、暑さ寒さとかは感じるんです。めちゃくちゃ寒いです」
「じゃあご覧の通りの冷たい雨だからさ、今日はもう帰ろうよ」
日向は不満そうに唇を尖らせたが、
「しょうがないですね……」
と、渋々ながら了承した。
游斗は適当な弁当と傘を買ってコンビニを出た。傘を広げて雨粒を受け止めると、その音から改めて雨の激しさがわかる。
「あ、こうするとなんだか相合傘みたいですね」
游斗のとなりにぴったりくっついた日向が言う。
「……あの、歌守さん」
「なんですか?」
「少しだけ離れてくれるかな? 圧迫感で落ち着かない」
「いいじゃないですか。別に狭いわけじゃないでしょー?」
「そういう問題じゃ……」
「あ、それともー?」
ニヤリと、日向がイタズラっぽく微笑む。
「YJKとひとつ傘の下で照れちゃってます?」
「……何を言ってるの?」
「先輩ってこういうの縁なさそうですし。いやぁ、ウブっていいですねぇ」
気持ちが悪いほど破顔させて、身体をくねらせる日向。
瞬間的にイラッときた游斗は一歩左へ踏み出し、クネクネしている日向をどしゃ降りの下に晒した。
「さ、さむっ! ちょっと先輩!?」
「ごめんみずたまりがあったからさー」
わざとらしい棒読みをする游斗のすぐ後ろをトラックが走り去った。跳ね上がる水しぶき。
「え……」
と振り向いた游斗に濁流が襲いかかる。全身びしょ濡れになり、茶髪の先からは水滴が滴り落ちた。
「……あのトラック……!」
「バチが当たったんですよ。私を傘に入れないから」
クックックッと笑う日向に游斗の苛つきが加速する。しかし幽霊相手にまともな仕返しができようわけもなく、游斗は諦めのため息をつくしかなかった。
「……帰ろ。早く風呂入りたい」
「あ、じゃあ私も一緒に──」
「いいわけないでしょ。使用中の風呂場とトイレは立ち入り禁止。破ったら即除霊」
「もういいじゃないですか、そのルール。私別に何も気にしませんって」
「こっちが気にするんだって……」
「ほら、やっぱりウブじゃ──くしゅん!」
雨に打たれている日向からくしゃみが飛び出た。寒そうに体を震わせて游斗の傘に入ってくる。
「あー寒かった……まさか追い出しませんよね?」
「そこまで鬼畜じゃないから。お化けに風邪引かれても困るし」
「もし引いたら温かい布団と温かいスープと面白そうな小説をたくさん用意してくれたら気合いで治します!」
「用意したくないからさっさと帰るよ」
雨足は強くなる一方である。風にあおられた雨粒が、すでにずぶ濡れの游斗を更に濡らす。
体を伝って落ちた水はすべて足元に集約される。歩くたびに靴の中で水がブニブニと音を鳴らし、感触ともども気持ち悪い。早く気持ち悪さから解放されたくて、游斗は意識的に足を早めた。
★ ★ ★
昨夜の大雨が嘘だったかのように、翌朝の空は見事に晴れ渡っていた。
台風一過のような雲一つない清々しい青空を、小鳥が飛んでいく。だと言うのに、それを見上げる日向の表情は曇っていた。
踵を返し寝室へ引っ込む。ベッドの上では、ほんのり顔が赤い游斗が布団を重ねて寝込んでいた。額には冷却シートが乗っかっている。
「昨日私に『風邪引かれたら困る』とか言ってませんでした?」
「本当に面目ない……」
申し訳なさげに謝る游斗の声は、掠れていた。
ピピピっという電子音が布団の中から鳴る。游斗が取り出した体温計には『38.5』のデジタル表記。
「完全に風邪じゃないですかこれ」
「水かぶったのが響いたのかな……」
「というか、たぶん疲労もあると思いますよ。そんなところにバッシャーン、ですからね」
游斗は小さな咳を数回繰り返す。
日向は一際大きいため息を吐き出す。
この体調の游斗を連れ出すわけにはいかない。が、日向としては外出の予定が潰えたのは軽く流せる話ではない。また今度行けばいいと言われればそれまでだが、いま日向の胸には抉りとられたような空虚感が確かに存在する。
両の人差し指を合わせてくよくよする。それから指だけをくるくると回す。
「いーとーまきまき、いーとーまきまき……」
「…………ごめん」
「ひーてひーて、とんとんとん……」
「ごめんってば。それ地味にキツいんだって精神的に」
「いーとーまきまき…………はぁ」
二度目のため息。
「……死にそうです」
「もう死んでるでしょ」
游斗はだるそうな身体を起こし、ペットボトルの水を含んだ。
日向はつまらなそうに指を組み、蛙らしきものを作り上げる。
「死んでるけど、もう一度死にそうピョン……」
「ピョンはウサギじゃないの?」
「…………間違えましたゲコ」
「歌守さんさ、一人でショッピングモール行ってくれば?」
「……え?」
暗かった日向の瞳に光が灯る。
游斗は布団をかけ直しながら続ける。
「姫永さんに接触はできないかもしれないけど、ゲーセンでの行動を観察はできるでしょ?」
「もしかして、尾行とか!?」
「う、うん。それも探偵っぽいよね」
「おお……なんか俄然やる気出てきました……!」
腕をぐるぐる回す日向。游斗はその姿を苦笑いで見上げている。
「あ、でも大丈夫ですか? 私が家にいなくて……」
「安静にしていればすぐよくなるよ。心配いらない」
「でも……」
「それに、歌守さんいても何もできないでしょ?」
むっ、と日向の眉間にしわが寄る。
「失礼な。耳元で子守唄くらい歌えますよ!」
「結構です。もうそんな年でもないし」
「おやおや? 恥ずかしがってます? お顔が──」
「顔が赤いのは風邪だから」
すげなく告げる游斗。日向は頬を膨らました。
「分かりましたよ。私がいなくても大丈夫なら遠慮なく行ってきますよ」
拗ねた調子で背中を向ける。部屋を出ていこうとして、振り返る。
「……もし悪くなったら、すぐに呼んでくださいよ?」
ベッドの上で游斗が微笑む。
「どうやって呼ぶのさ?」
「念じてください。もしかしたら届くかもしれないので」
人差し指でこめかみをつつく仕草をすると、游斗は赤い頬を緩ませた。
「わかった。やるだけやってみるから。いってらっしゃい」
「はい。いってきます」
一つ首肯いて、日向は部屋の壁から外へ出た。
空を泳ぐように街を進む。死して半年──まもなく一年が経つ日向には見慣れた光景だが、空から街を見下ろすというのはやはり心地がいい。鳥に生まれ変わったような錯覚さえ覚える。
「生まれ変わり……」
ふと、日向は難しい顔をした。これまでは幽霊として現世に留まってきたが、もし成仏した場合、どうなるのだろう。
天国で楽しく暮らすのだろうか。それとも輪廻の輪に還り、また別の何者かとして産まれてくるのだろうか。
「というより、あの世とか輪廻転生って実在するのかな……?」
そんな説明、誰からも受けていない。死んだらなんとなく分かるようになるものと思っていたが、実際分かったのは『お化けになれる』ということくらいだった。
「学校で教えてくれたらいいのに、死後の諸々……」
無茶なことを呟きながら泳いでいると、日向の眼下に巨大なショッピングモールが現れた。
エボルタウン塩戸。生前に何度か訪れたことはあったが、幽霊となってからははじめて来る。
屋上駐車場から内部へ侵入する。休日だけあって、混み具合はすごかった。
店内を見て回る。衣服店、靴屋、百円ショップ、大型本屋────買い物自体は游斗にくっついて出掛けることもあったが、前後左右を店に囲まれるこの空気は、日向にとってはかなり懐かしいものだ。
「あ……カレーのにおい……」
フードコートへふらふらと漂っていきそうになり、日向は両頬を叩く。目的は姫永の身辺調査だ。
吹き抜けから階下へ下りる。そのとき、一階ステージ前に小さな人だかりができているのが見えた。ステージには大きな冷蔵庫が一つと調理場が二つ設置されており、辺りには紅葉が描かれたのぼり旗が並んでいる。
何かのイベントだろうか。気になったが、まだイベントは始まっていないようだった。日向はその場を離れる。
幸いにも、ゲームセンターはすぐ近くにあった。
日向は中をのぞく。あちらこちらからゲーム音楽やら電子音やらが大音量で聞こえてきて、外の音はほとんど聞こえなくなった。やはり、あまり落ち着ける場所ではない。
ゲーム機の間を縫うように泳ぎ、姫永を探す。広いのもそうだが、思いのほか死角が多く、中々見つけられない。
「…………あれ?」
ふと、二度見した。クレーンゲームを操作している背中に、見覚えがあったのだ。
決して若くはない────というより、どう見ても高齢の白髪。しかし背中は曲がっていない。日向は回り込んで、その人の顔を見た。
「し、師匠!?」
「ん? なんじゃお前か」
渡村キヨは日向を横目で見ると、すぐにショーケースに視線を戻した。
「どうしたんですか師匠? ゲーセンなんて」
「ちょっと黙っとれ。手元が狂う」
繊細な指使いでレバーが傾けられる。ウサギのようなゴリラのような、微妙なデザインのぬいぐるみの上でクレーンは止まった。
右の人差し指が降下ボタンを押す。クレーンがアームを広げて、ぬいぐるみを包み込んだ。
「おおっ」と日向が声を漏らす。
クレーンは一瞬だけウサギゴリラを持ち上げたが、すぐにアームから離れてしまった。
「ほら言わんこっちゃない」
「え、私のせいですか!?」
何も獲れなかったクレーンが定位置に戻る。
渡村は呆れたように息を吐くと、おもむろにショーケースの中へ手を突っ込んだ。生きている人間にはできない芸当だ。
「師匠?」
「黙っとれと言ったはずじゃ」
渡村はウサギゴリラをつかむと、景品口に近い位置へ移動させる。そして財布から百円玉を取り出した。
日向は訝しげな目で渡村を見る。
「それズルじゃないですか?」
「ズルではない。店員もたまにやっておるじゃろ。ただ、店員を呼ぶより自分で動かした方が早い」
「店員さんがやるのと私たち客がやるのは違いますよ!」
日向の言葉に耳を貸さず、渡村は百円を投入。クレーンゲームから賑やかな音楽が流れ出した。
渡村が真剣な眼差しでクレーンを動かしていく。微調整をして降下ボタンに手をかけたとき、背中に誰かがぶつかった。
「あっ」
クレーンがずれる。アームはむなしく、ウサギゴリラの真横を掬った。
「おい」
渡村が声にドスを効かせて振り返る。シワのきつい目を睨み返したのは、無愛想な若いつり目だった。
「なに?」
ぶっきらぼうに告げる薄い口紅。ポケットに突っ込んだ両手。見るからに機嫌の悪いその女子を見て、日向は「あああっ!!」と大声を上げた。
「組川!!」
それは組川ルカだった。小鳥丘高校の二年生であり、日向の元クラスメートであり、近衛の彼女。
かなり自己中心的な性格をしており、生前より日向とは反りが合わない。そんな彼女は今、渡村とガンを飛ばしあっている。
「なに、ではないじゃろ。ぶつかっておいて何もなしか」
声のトーンが本気だった。楽しげなゲーム音楽の中でも、その鋭利な眼差しは埋もれない。
組川はめんどくさそうに息を吐き出した。
「すみませんでした。……これでいい?」
「いいわけあるか、この醜女が!」
シコメ。意味は分からなかったが、罵る語であることを日向は雰囲気で理解した。同様に組川も理解したらしい。無表情に近かった顔がはじめて歪んだ。
「なんですって……!?」
「何様のつもりじゃ、その態度! 死んでもないのに威勢だけよくなりおって」
「師匠落ち着いて! 人が……」
対峙する二人の周りには、大勢の人間が集まってきていた。これだけ騒げば当然である。
人混みを掻き分けて一人の女性が飛び出してきた。パーマのかかったショートカット。着ている青いシャツにはゲームセンターのロゴが入っている。スタッフらしかった。
「どうかされましたかお客様?」
渡村と組川の間にスタッフが割って入る。
彼女を一瞥した組川は、「別に……」と呟いて人混みの中へと消えていった。
「あっ、逃げた!!」
「勝手にさせろ」
渡村の一言で日向は止められる。
「いいんですか!? 私結構頭にキてるんですけど……」
「去るものは追わずでいい。このまま関わることもないじゃろうしな」
自分はそうじゃないんだけどな、と日向は心の中で呟く。近衛が游斗に突っかかってくる限り、またいつか組川とも遭遇しそうな気がする。
「あの……」
と、横から女性スタッフが渡村の顔を覗いた。
「大丈夫でしょうか?」
「うむ。騒がせて悪かったな」
再び渡村がクレーンゲームに向き直る。集まっていた野次馬も、次第に散り散りになっていっている。
「かしこまりました。何かあればお申し付けください」
「あ、ちと待て」
踵を返しかけたスタッフは、不思議そうな顔をこちら側へ向ける。
渡村はショーケースの中を指差した。
「これ取りたいんじゃが、コツとかあるのか?」
★ ★ ★
「おおぉ~~~!!」
両目をキラキラ輝かせ、小船渡舞夏の細い腕はウサギゴリラを抱え上げた。
長かった銀髪はバッサリ短くなっており、以前より大人っぽさが増している。しかしぬいぐるみを前にして見せる嬉々とした表情は、まだ彼女が小学六年相当の幼年であることを思い出させる。
日向は眉間にシワを寄せながら、ウサギゴリラを360度から見渡した。
「……これ、かわいい?」
「うん! とっても! ゴリラビっていうんだよ!」
「ゴリラビ……」
残念ながら、日向の目にはゴリラビは可愛く映らない。それどころか、どちらかと言えばキモい部類に入ってしまうだろう。
ウサギは可愛い。ゴリラは勇ましい。しかしそれを合わせたゴリラビという謎の生命体は、両者の長所を見事なまでに潰しあっているようにさえ思える。
「これでよいのか、舞夏?」
カレーライスを食べていた渡村が聞く。舞夏は満面の笑みで首を縦に振った。
「うん! ありがとう渡村ばぁば!」
「……食うか?」
「食べる!」
差し出されたスプーンにかぶりつく舞夏。美味そうに頬を緩める姿を見て、日向は唇を尖らせた。
「私も食べたいのに……」
「食えばいいじゃろ。味見の術で」
「そうじゃなくて、普通に食べたいんですよ」
「あと二年は無理じゃろな」
冷たくあしらって渡村はカレーを口に運ぶ。日向の唇の尖りがいっそう鋭くなる。
「それより探偵はどうした? 今日は一緒じゃないのか?」
「あー……それが先輩ってば風邪引いちゃって、家で寝てます」
「えっ? センパイ大丈夫なの?」
「安静にしてるって言ってたし、多分大丈夫。まあ、そのせいで私一人で姫ちゃん探すことになったんですけど──」
無言。無言。無言。
渡村と舞夏の視線が両側から日向を突き刺す。
「…………あ」
完全に忘れていた、という顔である。晒した阿呆面をゲーセンの方向へ向ける。
「知ってはいたが、これでは探偵も苦労が絶えんのう」
「そりゃ風邪も引くよね」
「え、風邪も私のせい!?」
うんうんと頷きあう二人。日向は塩をかけた青菜のようにふにゃふにゃと萎れた。
そのとき、爆音が轟いた。鼓膜を殴られるようなハウリング音に誰もが耳を塞ぐ。
「なっ、何!?」
「向こうからだ!」
客たちは同じ方向を向いた。爆音は吹き抜けから響いてきたらしい。
「何事でしょう……?」
日向が赴く。吹き抜けから下を覗くと、先程の一階ステージにマイクを持った黒髪ストレートの女性が立っていた。
彼女自身、爆音に驚いている様子である。裏方と何か合図を取っていたが、やがてマイクを構え直した。
《先程は失礼いたしました。音響機器のトラブルは無事、解消いたしました》
マイクに乗って女性の声が響く。透き通った声だが、口調は事務的であった。
「さっきの爆音はこれか」
隣に渡村がやってきていた。その真上を浮遊している舞夏が、ステージを興味深げに見下ろしている。
「あの冷蔵庫おっきいね……」
「コウテイペンギンくん、だっけ? あの冷蔵庫。今話題の」
「大きいから皇帝ペンギン……なるほどのう」
先程ちらっとは見たが、改めて見るとかなり大きい。横幅は游斗の家の冷蔵庫の1.5倍はありそうだった。舞夏や日向はもちろん、游斗でさえも中に隠れられそうである。
そんなことを考えていると、スピーカーから女性の声が響いた。
《改めまして只今より、エボルタウン塩戸プレゼンツ、『秋の味覚、料理対決』を開始します》
ギャラリーから沸き上がる微妙な数の拍手。しゃべり方が堅すぎて、拍手すべきかどうか迷ったのだろう。そんな中で一人、一生懸命に手を叩く舞夏。
事務的な進行によってイベントが進む。やがてステージには、料理人風の男二人が登壇した。
「……見ていくか?」
渡村に聞かれて、舞夏はうーんと天井を向いた。
「気にはなるけど、料理はあんまりわかんないし……」
「私はそうですねぇ、出来上がった頃にこっそり味見しに行こうかなぁなんて」
「お前には聞いとらん日向」
「師匠最近私に冷たくないですか?」
「気のせいじゃ」
そう告げて渡村は踵を返す。日向がリスのように頬を膨らます、その瞬間。
金属を擦ったようなハウリング音が日向の鼓膜を貫いた。それは先程の爆音よりもずっと鋭利で、不愉快な音割れも起きている。その音の正体が悲鳴だと気づいたのは、一瞬の後だった。
ギャラリーがざわつき出す。あちこちで青い顔と悲鳴が増える。
日向は耳を塞いだままステージを見下ろした。一番下の冷凍庫が半分ほど開かれている。そこに覗くのは、肌色のなにか。
「どうしたの……?」
下を覗こうとする舞夏の両目を、日向はとっさに塞いだ。
「見ちゃダメ!」
「え、なんで……」
「いいから! 師匠のとこ行ってて!」
舞夏の背中を押す。真剣な眼差しを向けると、舞夏は首をかしげながら離れていった。
ステージはパニックに陥っていた。黒い服を着たスタッフたちが慌ただしく駆け回り、事態を察したギャラリーは蜘蛛の子を散らすように逃げていく。
その中に、呆然と立ち尽くす少女の姿があった。見覚えのあるポニーテール。
「姫ちゃん……!?」
ようやくの、そして最悪のタイミングでの発見だった。しばらく瞠目していた日向は弾かれたようにそこへ向かう。
「……なにあれ」
ボソリと聞こえた声が日向を引き止める。吹き抜けを囲うガラス越しに、組川ルカが冷たい視線を落としていた。
「いい加減にしてほしいんだけど……」
疲れきったような表情で、唾のように台詞を吐き捨てる。
どさくさに紛れて、彼女がガラスを蹴ったのが日向からはよく見えた。
★ ★ ★
「こりゃまた、怪奇な殺し方じゃのう」
ステージに上がり、冷凍庫を覗き込んだ渡村は、カッカッカと渇いた笑い声を上げた。
ステージの周囲には大勢の野次馬が集まっているが、誰も近づく勇気はないらしい。黒い服のスタッフも、渡村を止めるに止めかねているのが見てわかる。
「うわ……これ酷いですね……」
日向は苦虫を噛み潰したような顔をした。冷凍庫の中に膝を抱えた状態で収納されていた男の顔に、いくつもの殴打痕があったのだ。
「殴り殺しですかね?」
日向がそう聞いたとき、遠くからスマホが弾丸のように飛んできた。渡村はそのスマホをノールックのまま受け止める。
「……誰じゃ?」
「それはこっちのセリフだっつーの!」
乱暴な声が吹き抜けに反響する。客席を偉そうに歩きながら寄ってきたのは、紺色の鑑識服を羽織った赤い髪の小柄な女性。
「あ、晒科さん」
「ほう? あれが噂の乱暴鑑識か」
渡村がステージから晒科を見下ろす。
ステージの真ん前で足を止めた晒科は、渡村を睨み上げた。
「現場保存って言葉知らねぇのかババァ?」
「そんなこと素人に言っても仕方ないですよ」
そう言いながら現れたのは吉瀬俊輔巡査だった。心なしか、少々やつれているようにも見える。
その後ろから刑事やら鑑識やら、警察の面々が到着した。すぐに黄色いテープが貼られ、雰囲気が事件現場のそれとなる。
「すみません、御婦人」
と、物腰柔らかに声をかけてきたのは黒島だった。晒科の後だとその丁寧さが一層際立つ。
「これより捜査を行いますので、一般の方はあちらへ──」
「絞殺じゃ」
「へ?」
黒島が固まる。渡村は遺体を一瞥して続ける。
「顔面を何度も殴られた痕があるが、死因は首を絞められたことによる絞死。顔は死んだあとに殴られたと見て間違いないじゃろ」
「え、これ撲殺じゃないんですか?」
これだけ顔を殴られているのだから、日向はすっかりそれが死因だと思い込んでいた。
渡村が顎で冷凍庫中の遺体を示す。
「見てみぃ。首に絞められた痕がある。それと吉川線もきっちり残っておろう」
吉川線。ロープなどで首を絞められた被害者がロープをほどこうとして自分の首を引っ掻いてしまう傷痕だと、以前游斗が説明していたのを日向は思い出した。
冷凍庫の中を見た晒科が舌打ちする。
「まさか、遺体に触ったりしてねぇだろうな?」
「安心せい。眺めとっただけじゃ」
渡村は晒科にスマホを投げ返す。
「死亡推定時刻は今から約十二時間前──深夜零時前後。調べるならその時間帯じゃろうな」
つらつらと述べる渡村に、周囲の刑事たちが絶句する。
晒科が眼を蛇のように鋭く光らせた。
「テメェ、何者だ?」
その問いを、渡村は鼻で笑い飛ばす。
「わしに質問するな。死んでからにせい」
「あ、じゃあ死んでる私は質問していいですか?」
すかさず日向が生徒のように手を上げる。しかし渡村はそれを無視してステージを下りていった。
仏頂面して日向は渡村についていく。
「やっぱり師匠、私に冷たいですよね?」
「気のせいじゃと言ったろう」
いいや、気のせいなんかじゃない。間違いなく自分に対する扱いが以前より悪くなっている。日向には確信があった。
「おい、本当に東だったのかよ!?」
横から怒鳴り声が聞こえて、日向はそちらを振り向いた。
小さな丸テーブルを囲むように五人の男女が集まっていた。そのうち一人は、ステージで司会をしていた黒髪の女性だった。四人の視線を一身に受けて、彼女が小さくうなずく。
「間違いなく……東だった」
卓が驚愕に包まれるのが見てとれた。怒鳴り声の主らしき、赤いエプロンをつけた短髪の男がテーブルを殴りつける。
「なんでしょう、あの人たち……」
日向が隣に問いかけるも、返事は返ってこない。渡村は無言で彼らのところへ歩を進めた。
「あの死んどった男、東というのか?」
藪から棒にそう聞く渡村に、五人は面食らったようだった。
眼鏡をかけた男が渡村を見上げる。
「なんですか、あなた?」
「聞いとるのはこっちじゃ。あの男、東というのか?」
重ねて聞く。渡村の眼力に圧されたのか、五人は顔を見合わせてから頷いた。
「あぁそうだよ。東……東命一郎」
「警察の方……なんですか?」
不安そうに震える声を出したのは、パーマのかかったショートカットの女性。ゲームセンターのロゴが入った青シャツを着ている。
日向は眉を寄せ、それからパンと手を叩いた。
「この人さっきの!」
「ああ……あのときの店員か」
スタッフの方も渡村のことを思い出したようで、控えめに頭を下げた。ネームプレートには【仁良柚希】と書かれている。
「警察……まぁ、そんなもんだと思ってもらって構わん」
「師匠、嘘はダメですよ。警察じゃないんですから」
黙っとれ。渡村の目からはそんなメッセージを感じとることができた。
ますます日向の不機嫌が加速する。
「なんですか、まったくもー……」
「お主らは東の友人か?」
「ええ。大学の」
そう短く答えたのは眼鏡の男性だった。胸元には【三古谷誠】と名前が記されたネームプレートがある。
「大学の友人って言うわりには、集まって遊びに来たって感じじゃなさそうですね」
五人をじろじろ眺め回して日向が言う。
彼らの服装は、どれも私服ではない。皆、何かしらの業務用服を身にまとっていた。
「お主ら。大学の友人と言うわりには、集まって遊びに来たようには見えんが?」
「あ、それ私が言ったんですけど!?」
「いいじゃろ、どうせ聞こえておらんのだから」
「はい?」
黒髪の女性が首をかしげた。渡村は「気にするな」とだけ告げた。
「それよりどうなんじゃ? 遊びに来たのではなかろう?」
「えぇ、まぁ」
岩のように椅子に座っている男が答えた。名前は【藤白龍八】というらしい。
「自分たちは全員、ここの従業員です。と言っても、ご覧の通り勤務してる店はバラバラですが」
「全員エボルタウンに集まるなんて、すげえ偶然があったもんだよな」
赤エプロンの男、【桃原辰吾】が言った。
「六人ということは、東もか?」
「ああ。あそこの家電屋」
桃原が視線を向けた先には、大きく入り口を構えた家電量販店があった。出入りする客が少ないのは事件の影響もあるのだろう。
日向はじっとその方向を見つめた。
「家電屋さん……」
「あの」
黒髪の女性、【王万理沙】が片手を上げた。こんなときでも事務的なしゃべり方は変わらない。
「東は昨日の晩に殺されたって、本当ですか?」
「ああ。零時くらいじゃ」
「……そうですか」
王の表情が翳る。
隣で三古谷が腕時計に目を落とした。眼鏡の奥の瞳が細くなる。
「零時……僕らが集まる少し前ですね」
「集まる?」
「ええ。昨日は偶然、全員が店の鍵閉めで遅くまで残っていたので、久しぶりに食事でも行こうと思いまして。五人で集まったんです」
「本当は……」と、仁良がか細い声を出す。「東くんも一緒に行く約束だったんですけど……」
「時間になっても来なかったというわけか」
渡村の言葉に仁良と三古谷が頷く。他の面子は、沈黙が肯定のようだった。
「あー、ちょっとちょっと!!」
突然、大声が割って入った。一丁前に手帳とペンを持ちながら、吉瀬が卓へ駆け込んでくる。
渡村は盛大に溜め息を吐いた。
「なんじゃ若いの? 用がないならさっさと戻れ」
「あのですねぇ! 私は刑事であなたは一般人なんですよ! 戻るべきはあなたの方です!!」
ビシィッ! と効果音がつきそうな勢いで吉瀬はペン先を突きつける。
ドヤァッ! と文字が浮かびそうなほど、ウザいどや顔を決めてくる。
シーン……と、ゲームのポーズボタンを押したかのようにその場が制止する。
「ペンを向けるな馬鹿者」
ペチッ、と吉瀬の手ごとペンを払う渡村。
おろおろとペンを拾った吉瀬は、痰でも絡んでるかのような派手な咳をした。
「とぉにかく! さっさとあっち行ってください! 私はこれからこの方たちに事情聴取です!」
「わかったわかった。精々がんばれ」
くるりと渡村が体の向きを変える。
「いいんですか師匠? あんなポンコツに任せて」
「よい。人の話を一度聞いて覚えるくらい、ポンコツでもできるじゃろ」
「あの人、前にも先輩にペン向けて怒られてたんですけど」
「…………」
沈黙し、立ち止まる渡村。首だけ回して吉瀬を見る。どうやらボールペンのインク切れを起こしているようだった。
「師匠ぉ~……」
「皆まで言うな。お前の言いたいことは多分、わしの言いたいことでもある」
だとしたらもう救いようがないではないか。日向の心配を現実のものとするように、吉瀬は手帳までもを切らせていた。
「なんかもう……こっちが悲しいです」
「あれでよく警察が務まるの……」
呆れながら渡村が壁に背を凭れる。その足元で、何かがチャリと音を立てた。
渡村が拾い上げたそれはストラップだった。【H.U】の形をしており、ラメがキラキラと輝いている。安物のようだが傷は一切ない。
「落とし物ですかね?」
「そのようじゃな」
目線の高さまで上げて渡村はストラップを観察する。それを横から眺めていた日向は、ふと既視感を覚えた。
「このストラップ……」
「あっ……」
という声がして後ろを見ると、姫永がこちらを見て立っていた。ただし、視線は日向ではなく、渡村が持つストラップへ向いている。
「姫ちゃん……」
呟く日向をすり抜けて、姫永が渡村の前に立つ。
「そのストラップ……」
「なんじゃ? お主のか?」
渡村は姫永の手のひらにストラップをのせた。
それを確認したあと、姫永の表情がパッと明るくなった。
「はい、私のです! ありがとうございます!」
「よいよい。見つかってよかったな」
「はい。とても大事なものなので……」
ストラップを胸元で握りしめる。そんな彼女を見て、日向は胸の奥が重くなるのを感じた。
丁寧にお辞儀して姫永が去っていく。背中をボーッと見送っていた日向の脇を、渡村が肘で小突いた。
「どうした?」
「いえ……あのストラップ、大事にしてるんだなぁって」
「お主の探してた『ヒメチャン』とは、あやつか?」
「はい。姫永涼乃ちゃんっていうんです。だから姫ちゃん。とってもキュートで、愛らしくて、可愛いんですよ」
「どれも同じ意味じゃろうが」
吐き捨てた渡村はその足で姫永を追う。
「師匠?」
「探しておったんじゃろ? 行くぞ。聞きたいことあるならわしが聞いてやる」
渡村がさっさと歩を進めていく。
止まっているはずの日向の心臓が、ドクンと脈打った気がした。
「……なんだか……少女漫画の主人公になった気分です」
「意味がわからん」
エスカレーターで二階へ上がる。遠くを歩く姫永は、ゲームセンターの方向へ向かっているようだった。
「やっぱりゲーセンに入り浸ってるんでしょうか?」
「さぁな」
渡村が答えた瞬間、柱の影から人影が現れた。ぶつかりそうになった渡村が足を止める。
現れたのは組川だった。渡村を見て驚いた顔をしている。
「なんじゃ、またお主か。当たり屋か?」
「……そんなわけないでしょ。あんたにも興味なんかないし」
組川はそそくさとゲーセンの方角へ行く。その横につけるように渡村も歩いた。
「……なに」
「行く方向が同じだけじゃ」
「あっそ」
速度を早めた組川が一足先にゲーセンの喧騒に踏み込んだ。
渡村は中には入らず、入り口の前で立ち止まる。
「あぁ……そうか」
「どうかしましたか?」
「いや、あの当たり屋もヒメチャンも見覚えあると思っとったが、そうか……小鳥丘のラーメン騒ぎのときの……」
「そうですよ」と日向は頷いた。「一年の時から同じクラスなんです。あ、ちなみに私もですけどね~?」
正面に回り、両頬に人差し指をつけるポーズをする。そんな日向に対する渡村の反応は、究極の無だった。
「……なんか言ってくれてもいいじゃないですか。日向ちゃんは超絶可愛いなぁ、とか」
「日向ちゃんは超絶痛いのう」
人指し指で挟んだ表情が憮然とする。その日向の足元から、ひょっこりと頭が現れた。
短い銀髪を揺らし、舞夏は二人を見上げる。
「あれ? けんか?」
「違うから気にするでない。それより舞夏、どこに行っておった?」
訊ねる渡村は表情こそ変わらないが、声色が確かに温かみを帯びていた。まるで孫と話すおばあちゃんである。
舞夏は瞳を一番星のように輝かせ、爪先が出るまで浮かび上がった。
「あのね! さっきおじちゃんを見つけたんだ! 事件のことで聞き込み? 自動チャーシュー?」
「……事情聴取か?」
「それ! ジジョーチョーシュしてるのをそばから眺めてた……!」
「そうか。それはよかったなぁ」
渡村の頬が綻ぶ。舞夏は叔父である黒島のことが本当に好きらしい。
日向は吹き抜けから下を見た。野次馬は少なくなりつつあるが、人だかりが消えたとはまだ言いがたい。やはり昼間のショッピングモール、それも観衆の目を集めた場所で起こっただけあって、自動チャーシューされている人間もかなりの数がいた。
「聞いたよ。冷蔵庫の中で男の人が殺されてたんだってね」
舞夏が日向の横に並ぶ。
「でもなんで冷蔵庫?」
「それは……死体を隠したかったからとか?」
「隠したいだけなら他に場所がいくらでもあるじゃろうが」
後ろから渡村の声。
「むしろ、イベントに使う冷蔵庫にわざわざ死体を入れるなど、本当に隠す気があったかどうかも怪しい」
「どういうことですか?」
「わからんか?」
休憩用に置かれていた低いベンチに腰を落とし、渡村は首を回した。
「殺人犯は、大衆の目の前で死体を露見させたかったかもしれん」
「それって……ドラマでよくある、警察への挑戦みたいな?」
えっ、と舞夏が不安そうな顔をする。
「それってドラマだと、警察が悪口言われちゃうよね? ムノーとか、セキニンとれーとか」
「大変だ……無能って言われても仕方ない人が一人いる!」
一階から誰かのくしゃみが聞こえた気がした。
「あああどうしましょう……! 無能っていうかポンコツだから悪口言われても全部事実になりそうだし、世間から叩かれる前にどうにか……!」
それがすでに悪口であることにも気づかず、日向はあわてふためき飛び回る。
「落ち着け」
そんな日向の襟首をわしづかみ、真下方向へ投げる渡村。
あうぅと情けない声を出したあと、日向は床から半分だけ顔を出した。さながら水面から地上の様子をうかがう蛙のように。
「警察への挑戦なんて、そんなもんドラマだけの話じゃ。今回のあれは恐らく、ただの自己顕示欲」
「ジコケンジヨク?」
日向と舞夏がそろって首を傾げる。
「自分のしたことを大勢にアピールしたいだけ。巻き込まれた方はさぞ迷惑じゃろな」
「目立ちたがりやさんってこと?」
「概ね間違っとらん」
「それって、目立ちたいから殺したってことですか?」
蛙のまま、日向は目だけ動かして渡村を見上げた。
「だとしたら、犯人は相当なサイコパスじゃな」
「サイコパス……」
「もしくは、あの東という男によほどの恨みがあったか……」
おもむろに渡村はベンチから腰を上げた。尺の長くない胴体を一度反り返らせる。
「まぁ、その辺は警察の捜査に期待するとしようかの」
「任せて! おじちゃんが絶対にサイコパス捕まえるから!」
なぜか舞夏が強く意気込む。両手を腰に当てた格好は、溢れんばかりの自信がみなぎっているように見えた。
★ ★ ★
「ずいぶんと長い時間おるんじゃな」
ゲーセンから出てきた姫永に渡村は声をかけた。
姫永が出てくるのは、実に五時間ぶりのことだった。時計の針は午後六時過ぎ。長すぎて飽きたのか、舞夏は四時間半ほど前に黒島のもとへ行ってしまった。
渡村は暇をもて余して編んでいた手袋をベンチに放ると姫永に歩み寄った。
「あっ、先程の……」
姫永は笑顔で頭を下げた。
「先程はありがとうございました。このストラップ、代えがきかない大事なものなので……」
「ヒメチャン、だったか?」
瞬間、姫永の笑顔が引きつった。口角が下がり、目元の筋肉が緊張する。
「…………その呼び方…………日向ちゃんの…………」
「……すまん。生前、あやつがお主をそう呼んでおったから。辛いことを思い出させてしまったか?」
姫永はしばらく固まっていたが、やがてゆっくり首を左右に振った。
「いえ……もう一年近く前のことですから。大丈夫です」
「……そうか」
「日向ちゃんのお祖母様ですか?」
「いや、ちと違うが……それと似たような者じゃな」
渡村は自分の真横にいる日向にそっと目配せした。
日向はじれったく、髪をわしゃわしゃと掻いた。外跳ねしていた毛先が曲がる。
何を聞きたい? 渡村の目はそう日向に問いかけた。
「……ゲーセンに、はまったのは、どうして?」
「…………お主は、ゲーセンが好きなのか?」
大きな看板を見上げながら渡村は訊ねた。
店内から溢れてくるゲーム音の中、姫永は頬だけで笑った。
「はい。このちょっと騒がしい感じが心地よくて」
「どのゲームが好きじゃ?」
「断然、メダルゲームですね。メダルを枯らさない限り何時まででも遊べるので」
「そうか……ここはメダルゲームに年齢制限がかかってないのか」
耳を済ませば、奥からジャラジャラという音が聞こえてくる気がした。しかしそれも他の喧騒に飲み込まれ、定かには聞こえない。
「……なぜゲーセンに来るようになった?」
さりげなく、しかし鋭い一言だった。姫永の動きが一瞬止まる。
きっと無意識のうちだろう。姫永の頬も、笑うことをやめた。
「……ちょっとした気まぐれです。たまたま来てみたら面白くて、はまっちゃった。よくある、つまらない話ですよ」
「……おかしいよ姫ちゃん。ゲーセンに何万注ぎ込んでるの……?」
日向の呟きは姫永には聞こえない。聞こえているはずの渡村も、口は開かない。
「知ってるんだよ? 昨日濃見から聞いたから。姫ちゃんゲームなんて興味なかったじゃん? お金遣いも激しくなかったじゃん? どうして……? 私が知らない間に何があったの? それとも私が死──」
「すいません……もういいですか?」
聞こえていないはずの日向の言葉を遮るように、姫永は告げた。
漏れてくる喧騒の中で、ハッキリと何かのゲームオーバー音がした。
「……うむ。引き止めて悪かったな」
「いえ……失礼します」
笑顔を貼り付け姫永が歩いてゆく。遠くなっていくポニーテールを、日向はただ眺めることしかできなかった。
「お主は」
渡村は声をやや張った。
「そこで何をしておる?」
「……別になにも」
ゲーム機の筐体の陰から姿を見せたのは組川だった。
相変わらずの不機嫌そうな態度で、彼女は筐体に体を預ける。
「何もしとらんわけはなかろう? ここはゲーセンなのじゃから」
「どれもこれもつまらないものばかりよ。こんな場所に通う奴の神経がわからない」
本当につまらないのだろう。組川はスマホを操作し始めた。
日向は奥歯を噛み締めた。組川は姫永を貶すような口振りだが、姫永の思考が読めないのは日向も同じである。
「恋にせよ趣味にせよ、人が何かを好むのは、自分に欠けている部分を満たそうとするからじゃ」
「……は?」
唐突に語った渡村に、組川の指が止まる。
「お主の欠如はゲームでは満たされないようじゃな」
「意味不明なこと言うのやめてくれる?」
つり目が更に吊り上がった。筐体から背中を離し、渡村を睨み下ろす。
「あんたさっきからなんなの? 私に恨みでもあるわけ?」
「あるにはあるのう。最初にぶつかったとき手元が狂った」
「はぁ? あんなのたった百円でしょ? ケチくさ」
「百円を笑う者は?」
「千円で大爆笑です!」
自信満々に日向が答えると同時、組川がスマホを床へ叩きつけた。
「そういうのがウザいって言ってんの! なんで名前も知らないババァにウダウダ言われなきゃいけないわけ!? あんた何様!?」
ヒステリックに組川は叫び散らした。普段と全く違う、頭にキンキン響く声。
組川がブーツでスマホを蹴りつけた。床を滑っていったスマホはスニーカーの爪先に当たる。
「あのぅ……」
消え入りそうなほど小さな声だった。ゲーセンスタッフ、仁良だった。
彼女は細い腕で丁寧にスマホを拾い上げると、生気のない微笑みを作った。
「どうかされましたか?」
「だから、別になにもないって」
組川がスマホをひったくる。呼吸を整えながら渡村を睨むと、どこかへ去っていってしまった。
「お主も大変よのう」
そう言った渡村に仁良が振り返る。向けてきた笑顔はやはり、どこかやつれていた。
「いえ、これが私の仕事ですから……仕事は全うしなくちゃいけないですし」
「何があっても、か?」
そう訊くと仁良は黙りこんだ。答えが出る前に渡村が言葉を次ぐ。
「悪い。答えにくいことを聞いたな」
「……いえ」
「聞きたいんじゃが、あのさっきの女はよくここに来るのか?」
「いいえ。私は今日はじめてお見かけした方で……少なくとも常連さんではないかと」
「そうか……では、ポニーテールの女は?」
「ポニーテール……?」
「このくらいの背の高校生」
渡村は腕を上げて160センチほどを表した。
仁良は少し悩んだが、すぐに頷いた。
「あー、姫永さんですか?」
「そう、姫永。あやつはよく来るのか?」
「はい。私たちが名前を覚えてしまうほどには、頻繁に。閉店ギリギリまでいらっしゃることもあるくらいで」
「閉店ギリギリ……」
呟き、日向は姫永が去っていった方角を見やる。
「また、戻ってくるかもしれんな」
「待つんですか?」
渡村は答えず、その代わりゲーセンに一歩足を踏み入れた。
☆ ☆ ☆
「……伝わってんのかなこれ?」
こめかみに指をあて、游斗は再度うーんと唸った。
脳内で文章を形成し、日向を思い浮かべて送念。知らず知らずのうちに表情が固くなるのは、五回目くらいから自覚できていた。
やっていることはメールと変わらない。しかし送信エラーが起こっているのか、はたまたこちらがうまく受信できていないのか、待てど暮らせど返信は来ない。
すでに二十二時を回っている。エボルタウンそのものが閉まる時間だ。
「……やっぱ無理だこれ」
試行回数が二桁に突入する前に游斗は踏ん切りをつけた。
咳が出る。心なしか体温も上がっているような気がした。
棚を開けて救急箱を探す。すぐに見つかったが、お目当ての風邪薬は生憎様切れていた。
「薬局やってるかなぁ……」
厚手の上着を取ると、重い体を玄関まで向かわせる。
外気に触れた途端、全身の筋肉が収縮していった。十二月の夜なのだから当然だ。すぐさま上着を羽織る。
夜と言えど、まだ街は明るかった。街灯や、建物から漏れる光のおかげもあるが、一番明るいのはイルミネーションである。
きたる二十五日に向けて、街中に賑やかな装飾が張り巡らされていた。耳を済ませば、これまた底無しに明るい音楽が溢れかえっている。
しかし今の游斗はそれを楽しめる状態にない。まっすぐ薬局へと向かう。
だがその道中、視界がぐらついた。足がもつれバランスを崩す。そんな游斗の腕が誰かに引っ張られた。
「大丈夫ですか!?」
赤らんだ顔を上げると、姫永がいた。游斗は少し驚いたが、それ以上に姫永の方が驚いているようだった。
「どうしたんですか御堂先輩……!?」
「ちょっと風邪引いちゃって……風邪薬買おうと」
「そんな状態で無理しないでください。悪化しちゃいますよ」
「でも一人暮らしだし、自分で動くしかないからさ……」
正確には一人暮らしではないが、呼び掛けが繋がらないのなら意味がない。繋がったところで、日向一人では何もできないが。
そんなことを思った矢先、横から日向の顔が現れた。その表情はどこか怒っている。
「先輩……何かあったら呼んでって言いましたよね?」
呼んだわ。
そう突っ込みたかったが姫永の前である。いや、それ以前に気力的にも体力的にもキツかった。
「風邪薬なら私が買ってきますから。安静にしててください」
「そんな、悪いよ……って言いたいところなんだけど、そうしてくれると助かる」
「ここで待っててくださいね」
姫永は游斗を適当な場所に座らせると、薬局の方向へと走っていった。
「朝より体調悪くなってません?」
心配げな顔をして、日向が手のひらを游斗の額に重ねた。
「安静にしてたはずなんだけどね……」
「もしかしたら風邪じゃないのかもしれませんよ? インフルエンザとか」
「それはちょっとやめてほしいかな……」
游斗は再び咳き込んだ。
「それより、歌守さんの方はどうだった? 姫永さんについて何かわかった?」
「……それがですね」
今日一日エボルタウンで起きたことを、游斗は順番に聞かされた。
渡村と出会ったこと。
組川を発見したこと。
舞夏が渡村にぬいぐるみを取ってもらって、喜んでいたこと。
姫永が落としたストラップを、渡村が拾ったこと。
姫永と組川が、五時間もゲーセンに入り浸っていたこと。
そして、ゲーセンでゴリラビを乱獲しているうちに、姫永が戻ってきたこと。
「──で、さっき師匠と舞夏ちゃんと別れてきたところなんですけど」
「そうなんだ……」
聞く限り、かなり平和な一日だったらしい。組川と渡村が喧嘩したらしいが、それはもう互いの性格的に仕方ないのかもしれない、と游斗は思った。
「御堂先輩!」
姫永が息を切らせて戻ってきた。左手には小さなレジ袋を、右手には薬局のものではない膨れたレジ袋を提げている。
「ありがとう姫永さん──」
小さい方のレジ袋を受け取ろうとした游斗だが、姫永の手は引っ込んだ。
「……姫永さん?」
「これから御堂先輩のお宅にお邪魔します」
「……へ!?」
大声を出して驚いたのは日向だ。目をまん丸く見開いている。
「こういうときは薬も大事ですけど、栄養あるご飯をしっかり食べないと」
大きな方のレジ袋を見せてくる。そこには近くのスーパーの──ウェザーズのロゴが入っていた。
「え……でもそれはさすがに」
「大丈夫です。料理には自信があるので」
「そういう問題じゃないよ。それに、そんなことしてたら帰るのが遅くなっちゃう」
下手をすれば十二時を回ってしまう。しかし姫永はさして気にしていないように「大丈夫です」と言った。
「うち、門限ないですから」
「そうじゃなくて、女の子の夜道の一人歩きは危ない」
「……じゃあ泊めてください」
游斗は開いた口が塞がらなかった。
何を言っているんだこの子は。まるで危機感というものがない。
「ダメです! ダメダメ! それだけはダメーッ!!」
両手で大きくバツを作りながら、日向が喚き散らした。
「先輩絶対ダメですよ! 姫ちゃんJKなの分かってますよね!? 一晩過ごすとか犯罪ですから! ハンザイですから!! 殺しますよ!?」
「うっ……頭に響く……」
ハッ、と日向が口を塞ぐ。
「すいません先輩! 大丈夫ですか……」
「大丈夫ですか? 大音量で流れてますもんね、クリスマスソング……」
姫永は屈みこみ、游斗と同じ目線になった。
「早く帰りましょう。ここにいると悪化するばかりです」
ナチュラルにお邪魔しようとしているのは気になったが、游斗としても体力が限界だ。
「わかった……ただ、親御さんには連絡すること」
「はい。後でしておきます」
「今。ここで。じゃないと許可できない」
「…………わかりました」
渋々といった様子で姫永はスマホを取り出した。
「あれ?」
ポケットをまさぐる姫永。だんだんと表情が変わる。
「どうしたの?」
「ストラップがないんです……大事なストラップが」
「えっ?」
日向が言っていた【H.U】のストラップであることは想像がついた。
「また落としたのかな……?」
「探そうか?」
「ダメです、その体で。それに、落としたとしたらたぶんエボルタウンなんで、もう閉まっちゃってます……」
「そっか……」
「また明日行って探しますから」
笑うと、姫永はスマホで電話をかけた。その周りを、せわしなく日向が動いている。
「……何してるの」
「この辺に落ちてないかなぁって」
「……見た感じなさそうだけどね」
比較的きれいな道だ。ストラップが落ちていれば気づきそうなものである。
「お待たせしました」
電話を終えた姫永が游斗の手を取って起こす。軽く支えながら歩き出したときだった。
いつもなら並走してくるであろう日向が、その様子を全く見せない。
「……」
「御堂先輩? どうかしましたか?」
「いや……」
游斗の疑念を感じ取ったのか、日向はニッパリ笑って言った。
「先帰っててください。私、エボルタウンまで戻ってストラップ探してきます」
「……」
「あ、触れないから意味ないって顔。分かってませんねぇ先輩。そういう問題じゃないんですよ」
踵を返して十二月の夜を泳ぎ出す日向。
「あ! 私がいないからって姫ちゃんに変なことしたら許しませんからね! 一生かけて呪いますから!」
最後にそう釘を刺してから、日向は建物の壁へ消えていった。
「……ごめん。帰ろっか」
「はい」
姫永の肩につかまりながら、游斗はゆっくりと歩を進めた。
★ ★ ★
体を半分地面に埋めながら、妖怪のように動線中を探し回ったが、ストラップは見つけられなかった。
辿り着く先はエボルタウン。地面から浮かんだ日向は、太くそびえる巨大な建物を見上げる。
「やっぱここか~……」
広大だ。ここの全部を探していたら冗談抜きで夜が明けてしまう。ありそうな場所を優先して探すしかないが、それでもかなりかかりそうだ。
「……よしっ」
両頬を叩いて気合いを入れると、鍵のかかった扉から堂々と中へ入った。
中はまだ明かりがついているところが多かった。恐らく閉店後も仕事があるのだろう。
まず最初に向かったのは静まり返ったゲームセンターだ。何時間も入り浸っていたのだから、ここで失くした可能性が一番高い。
通路はもちろん、ゲーム機の下、ゲーム機の裏までくまなく探した。しかしストラップは見当たらない。
落とし物として拾われているかもと思い、日向はスタッフルームにお邪魔した。残っているスタッフは仁良一人だった。
「すいません店員さん。ストラップの落とし物とかきてません?」
当然ながら聞こえていない。スマホをじっと見つめたままだ。
「あのですね、HとUの形をしたストラップなんですけどね、ちょっとラメが入っ──」
と、スマホを覗いた日向は言葉を失った。
映っていたのは数人の男女だった。そのどれもが見覚えのある顔。今より少し若い仁良と、同じく若い友人たちだ。殺された東の姿もある。大学時代だろうか。皆、青い空をバックに楽しそうに笑っていた。
「……あれ?」
画面を見ていた日向はふと違和感に襲われた。
笑顔で映る学友たちの中に、一人だけ知らない顔があったのだ。帽子を逆向きにかぶった金髪の男性である。
「まさか、こんなことになるなんて……」
「こんなこと……?」
気になった日向だったが、それからは仁良は静かに涙を流すのみで、それ以上の言葉は溢さなかった。
消化不良感を残しながらも、日向はストラップ探しを再開した。勝手に棚の中まで拝見して、ここにはないと判断。
「失礼しました~」
職員室から退がるように、お辞儀して出ていく日向。
次に向かったのは一階ステージ。ここで一度落としているのだからもしかしたら、と思った日向だったが、当ては外れたようだった。
それからも日向は心当たりのある場所を順番に当たっていったが、姫永のストラップを見つけることはできなかった。
トイレの捜索中にエボルタウン全体の照明が落ちた。いつの間にか十二時を越えたらしい。
「これじゃ暗くて探せないじゃないですかぁ!」
天井に向かって文句を垂れる。そんな日向の訴えとは裏腹に、点々と残っていた各店舗の明かりも徐々に消えていく。
「お化けさんには優しくしなさいって、教わりませんでしたかね?」
グチグチ言いながら暗くなったショッピングモールを泳ぐ。
店舗の明かりが一つ消えるごとに、全体の明るさが少しずつ失われていく。このままではストラップ探しどころか、自分の居場所さえも分からなくなりそうである。
「そろそろ潮時かなぁ……姫ちゃんと先輩も心配だし」
渋々帰ろうとしたところで、最後まで明かりがついている店が見えた。ゲームセンターだ。
「店員さんまだ残ってるのかな……?」
なんにせよ、明かりが残っているのは日向にとって好都合だった。最後にもう一度、ゲーセン内を徹底的に探せる。
止まったゲーム機が立ち並ぶ景色は、退廃的ななにかを連想させた。色使いだけがカラフルで、人も音もなくなった空間は異常なほどの虚無感がある。
さっき訪れたときとなんら変わっていない、閉店後のゲームセンター。そのはずなのに、何かが違う。空気の流れともいうべきなにかの変化を、日向の第六感は敏感に感じ取っていた。
「店員さーん?」
聞こえるはずもないのに呼びかける。当然、返事はない。
クレーンゲームの通りに差しかかったとき、日向は息をすることを一瞬忘れた。
一番右奥の筐体。その中に、明らかに大きすぎる人形が入っているのだ。
日向はゆっくりと近づいていく。近づくにつれ人形の細部がはっきりしていき、そしてそれが人形ではないことに気づいた瞬間、日向は絶句した。
青いシャツに入ったゲームセンターのロゴマーク。
パーマのかかった、ゆるふわショートカット。
首元に残る引っ掻き傷と、赤いなにかがついた爪。
殴られた痕が痛々しく残る小さな顔。
狭いショーケースの中、膝を折り畳む格好で仁良柚希は果てていた。
「店員……さん……」
無音のゲームセンターが、絶命を彩る。
死体を取り囲むぬいぐるみたちが、彼女を天へと召しているようだった。