辛心ファミリー
真夜中だというのに、游斗は部屋の電気をつけなかった。
暗い部屋で一人、ただ黙って椅子に腰かけている。フードをかぶり、組んだ両手をただじっと見つめるばかり。
ほどなくして、寝室の扉から日向が現れた。彼女は暗闇の中の游斗を認めると、小さく笑んだ。
「……舞夏ちゃん、いま眠りました」
「……そう」
両手から目を離さずに游斗は呟いた。
「よかったんですか? 詳しく話を聞かないまま寝かせちゃって」
「僕の経験上、十分間黙ってた人は一時間経っても口を開けない」
「そうですか……」
「それに小船渡さん自身、かなりやつれてた。気持ちの整理も兼ねて寝てもらうのが一番いい」
言っている最中も、游斗は一ミリも視線を外さなかった。
日向がそっと隣へ寄ってくる。
「……先輩」
「なに」
「先輩は、どう考えてるんですか?」
「どうって?」
「こっち向いてください」
わずかばかり強い口調だった。游斗が首を上げると、日向が不安そうな面持ちでいた。
「先輩って、考え事するときフード被りますよね……高校のときからそうでした」
「……そうだったっけ」
そう言いながらフードを脱ぐ。癖のある茶髪が跳ねた。
「そうですよ。……ずっと考えてたんでしょ? 誰が竜胆を殺したのか」
「…………」
静寂。游斗の目の前に日向が詰め寄った。
「どうなんですか? 誰が殺したんですか?」
「…………わからない」
日向が驚愕の表情を浮かべた。
「わからない……??」
「情報が少なすぎる。分かってるのは凶器は刃物ってことだけ。これで犯人特定しろって方が無理な話だよ」
椅子から離れ、冷蔵庫を開ける。近くのペットボトルへ手を伸ばした。
「……情報ならもう一つあるじゃないですか」
伸ばした手が止まる。日向の鬱々とした声は続く。
「黒島刑事です。あの人、音信不通らしいじゃないですか」
「……だから?」
「っ……もしかしたら、私たちの前に出てこれない理由があるのかもしれませんよ」
「…………そういえば、もう一つだけ手がかりあったね」
游斗は冷蔵庫から振り返り、日向に手のひらを向けた。
「小船渡さんの手に付着してた血痕」
「先輩っ!」
珍しく日向が声を荒らげた。それに対し、游斗は真剣な眼差しで彼女を見る。
「だってそういうことだよね? 幽霊は出血しない。じゃああの血はなんなのさ?」
何か言い返そうとする日向だが、うまく言葉が出てこないらしい。やがて真っ赤になり、殴れもしない拳で壁を殴りつけた。当然、すり抜けて空回る。
「……気持ちは分からないでもないけどさ、現状は受け入れようよ。小船渡さんが両手を血で濡らしてたことは、紛れもない事実だ」
「だからって……納得できないですよ」
震えた声で日向が呟いた。
「なんで舞夏ちゃんが、竜胆を殺さなくちゃいけないんですか……!」
やり場のない怒りが見え隠れしていた。開けすぎていた冷蔵庫からアラームが鳴る。
「そこなんだよね」
「……え?」
天然水を取り出し、冷蔵庫を閉めた。
「竜胆を殺す理由が見当たらないんだ。自分を轢き殺した添山ならまだしも、なぜわざわざ竜胆を手にかける必要がある?」
「……そ、そうです。そうですよ!」
機嫌を取り戻し、日向の目に輝きが甦る。
「舞夏ちゃんには動機がありません! 舞夏ちゃんが竜胆を殺すわけないですよ!」
「歌守さん」
游斗は人差し指を自らの口許に立て、寝室の方を見やった。
「うるさいから少し静かに」
日向は慌てて手で口を塞いだあと、二回ほど深呼吸を繰り返した。それから勝手に天然水を吸いこみ、ようやく落ち着く。
「ふぅ……とにかく、舞夏ちゃんは犯人じゃないってことですよね」
「あくまで今のところはね。動機が見つかれば状況は変わるし」
途端に日向の顔が歪み、瞳が潤む。
「そんなぁ……」
「というか、両手べったり血まみれにして現場に立ってた時点で、本当なら問答無用で逮捕されるレベルなんだよ。幽霊だからそんなことにはならなかったけど」
キャップを開け、水を口に運ぶ。喉を下る冷たさが心地よい。
それからしばらく、游斗の視点はペットボトル一点に集中していた。透明な天然水越しに自分の手のひらが歪んで見える。
穴が開くほどその一点だけを、飽きるほど見つめていた。
「……先輩?」
日向が游斗の顔を覗く。
「小船渡さんの両手には、べったり血が付着してたんだよね……?」
目をそらさずして游斗は呟いた。日向が複雑そうに口許を歪める。
「はい、そうですよ……先輩だって、しっかり見たじゃないですか……」
「そうだよね……べったりと……」
ペットボトルを置き、キャップを玩ぶ。反対の手はフードをつかんでいた。
勢い余って手の中からキャップが飛び出た。床を転がり、玄関で止まる。
「…………いまいち綺麗に噛み合わないんだよな」
惜し気にフードから手が離れる。
天然水を口に含み、游斗は玄関までキャップを拾いにいった。
☆ ☆ ☆
翌朝、日向や舞夏が目を覚ますより早く、游斗は一人で家を出た。
まだ日が昇りきっていないせいもあって、空気はかなり冷たい。コートなしでは間違いなく風邪を引くであろう。
しかし幸いなことに、この時間の車の通りは少ない。肌を切り裂く突風がないだけでもかなり楽に思えた。
車が少ないのは、小船渡舞夏が没した交差点も同じだった。
来てみて分かったが、決して見晴らしが悪い場所ではない。死角も少なく、道幅も十分にある。車を運転しない游斗でも、さほど危険な道路とは思えなかった。
交差点から市民プールまで歩いてみる。こちらも複雑な道筋ではない。游斗の足で三分ほどかかったのだから、八歳だった舞夏が歩いても五分かからないだろう。
交差点に戻り、腕組みをして考える。舞夏が横断できなかった横断歩道を何度も往復して。
バイクがやってきたという方向を眺め、走り去った方向を眺め、歩き飽きそうな白黒ボーダー柄の地面をまた渡る。何度も何度も繰り返すうち、游斗はそこから離れた地点で不意に立ち止まった。
道路の遥か遠く向こうに大きな建物が見えた。遠近法でかなり小さく見えたが、じっくり観察するまでもなくそれは銀行だった。
「銀行…………」
游斗が使う銀行ではないが、どこか記憶に引っかかる。やがて昨日見たネット記事が脳裏に蘇った。
銀行強盗を起こしたはいいが、現金が重くて逃走できず、現金を路上に捨てていったという間抜けな事件。それが起こった銀行が、今游斗に見えている銀行だった。
游斗はすぐにスマホでその記事を探し出す。注意深く読んでいくと、事件の日にちは八月七日となっていた。
続けて舞夏の記事も出す。こちらも八月七日。
カチ、と小さな音が脳内で鳴る。二つの歯車の一片がパズルのピースのようにぴったり重なった。
游斗はフードをかぶる。冷たい風に吹かれながらまぶたを閉じようとしたそのとき、手の中でスマホが震えた。
着信画面だった。だが不思議なことに、相手の名前が表示されない。非通知でも番号だけは表示されるはずだが、今の画面はそれすら空白になっている。
まさかと思いつつ、游斗は応答ボタンに指を触れた。と同時にスマホから飛び出てくる聞きなれた大声。
『先輩っ!! こんな時間からどこ行ってるんですかっ!?』
閑静な朝の街に広がっていくのは、まごうことなき歌守日向の声である。テンションが高いというよりは、機嫌が悪いと言った方が的確か。
通話音量を下げ、スマホを耳に当てる。
「おはよ歌守さん。どうやって電話してきたの?」
『そんなことどうだっていいです!! いつものあれですよあれ!!』
そうか、いつものあれか。それで納得できてしまう自分に游斗は呆れ返る。
『それよりも先輩!!』
日向の声が怒りから焦りに切り替わる。
『そこに舞夏ちゃんはいますか!?』
「小船渡さん?」
不意に游斗は嫌な予感を覚える。
「いないけど、まさか……」
『こっちにもいないんです! さっき起きたらベッドがもぬけの殻で……』
嫌な予感が的中し、游斗は唸る。
画面を見ると、時刻はまもなく七時を回る。街も徐々に目覚めつつあった。
『早く探した方がいいですよね!? 私家のまわり見てきます!』
「歌守さん待って!」
と呼び止めるが、返ってきたのは通話終了を告げる非情な電子音のみだった。
リダイヤルを探すが見つからない。思わず舌打ちが漏れる。
家に帰りかけた足を止め、振り返って点滅している信号を駆け抜ける。スマホをポケットに押し込み、冷たい空気を突っ切って走る。
目指した先は警察署。息を切らして自動ドアへ飛び込んだ。
朝早いせいか、ロビーに人の姿は少ない。呼吸を整えながら辺りを見回していると吉瀬が通りかかった。脇に書類の束を抱え眠たそうに欠伸をしている。
「黒島さんは!?」
挨拶もなしに吉瀬の肩につかみかかった。彼は「ぎゃん!?」などという奇声を上げ、游斗の腕を振り払った。書類が散らばる。
「お、驚かさないでくださいよ!! ましてや私が、徹夜明けで疲労困憊のときに!!」
ふらふら後退する吉瀬は書類を踏みつけ、派手に転倒した。後頭部が床を叩いた鈍い音に、つい游斗まで表情を歪めてしまう。
「……大丈夫ですか?」
サナギのようにうずくまる吉瀬は首を振る。相当痛かったのだろう、目に涙が浮かんでいる。
游斗は吉瀬が踏んづけた書類を拾った。人物資料のようで、左目付近に傷のある男の顔写真に靴跡が刻み込まれている。
「海東極……?」
折り目を伸ばしながら名前を読み上げる。下に伸びる職歴欄を追っていくと、游斗の目がそこに釘付けにされた。
直後、吉瀬の手が書類をひったくる。
「勝手に読まないでください! 人が徹夜でまとめあげた資料を……!」
「吉瀬ちょっと!」
ひったくられたものをすぐにひったくり返す。職歴欄には確かに『竜胆商事』の名前があった。
「これって……!?」
「……竜胆商事に関わった人間をピックアップしただけですよ、私が睡眠を返上して」
未だ涙目の吉瀬が呆れ気味にこぼす。
游斗は散らばる書類を見回した。軽く見積もって五十枚はある。
「もしかして、これ全部ですか?」
「全部です。現在勤めている人間、過去に勤めていた人間、被害にあったという人間……調べ出したらきりがなくて」
「それは、お疲れさまでした……」
大きな欠伸をする吉瀬。目の下のくまが彼の苦労を物語っている。
「それはそうと御堂さん、さっき私のこと呼び捨てにしませんでした?」
「…………気のせいですよ」
目をそらす。くまのある吉瀬がぐぐいと游斗に迫った。
「本当に?」
「幻聴ですよ吉瀬サン早く寝た方がいいです」
早口に告げて距離を取ったとき、游斗の後ろで自動ドアが開いた。振り返ってみると、黒島が入ってくるところだった。
「黒島さん……!?」
「おや、御堂さん……おはようございます。吉瀬くんも」
普通の挨拶だった。普通すぎて、こちらがおかしかったのではと思ってしまうほどに。
「何やってたんですか黒島さん!!」
書類を撒き散らし吉瀬が立ち上がった。数枚が靴底に押し潰される。
「電話には出ないし、メールも返ってこないし! 言っときますけどね! あなた指名手配寸前だったんですよ!?」
「そうでしたか……それはご迷惑をおかけしました」
「謝ってすんだら警察いりませんよ!!」
「吉瀬さん落ち着いて!」
つかみかかりそうな勢いの吉瀬を取り押さえる。だが現役の警察官だけあってパワーは半端ではなかった。游斗が咄嗟に足を払う。吉瀬の身体は簡単に床に沈んだ。風圧で書類が飛ぶ。
「あ……えと、すいません……」
覗きこんだ吉瀬は深呼吸をしていた。游斗を見るでも黒島を睨むでもなく、まっすぐ天井を見つめている。
「これは……?」
黒島が飛ばされた書類の一枚を拾うと、すぐに顔をしかめた。
「竜胆商事……?」
「関係者を徹夜で調べたそうです、吉瀬さんが」
手に持つしわくちゃの資料を見せる。途端に黒島の顔色が変わった。游斗の手から資料を取ると、しわを伸ばして海東という男の顔に見入る。
「この男……っ!!」
ロビーを飛び出そうとする黒島の腕を游斗はつかんで止めた。
「どこ行くんですか黒島さん?」
「……竜胆殺しの犯人を捕まえに行くだけです。離してください」
「そういうわけにはいきません……っ!」
「…………そうですか」
黒島は前を向いたまま口を閉ざした。静寂が訪れる。
「……すみません、御堂さん」
黒島が呟いたと同時に、游斗はバランスを崩した。足を払われたのだと気づく間もなく、床に頭を強打する。
こだまする痛み。予想以上の衝撃に游斗は芋虫のように縮こまった。
見上げると、黒島の申し訳なさそうな顔。彼は書類を握りしめて踵を返した。
「──止まれ迷惑警部」
自動ドアが開いて姿を見せたのは、女性鑑識官晒科だった。赤い髪をなびかせ、黒島の前に仁王立ちする。
「警部補です。……そこをどいていただけませんか」
「一晩中音沙汰なしだったやつを行かせるバカがどこにいる」
侍が剣先を向けるかのごとく、晒科がファイルの角を黒島に差し向けた。銀角が鈍く光る。
「なんなら力ずくで通ってみるか? あ?」
小柄ながらもその風体は不良そのものだ。黒島を睨む鋭い眼光、それだけでも小さな虫程度なら殺せるのではなかろうか。
黒島はしばらく難しい顔を見せた後、観念したように息をついた。
☆ ☆ ☆
人はまれに、意味不明な行動をするときがある。
二階廊下のベンチに腰かけ、炭酸缶をシャカシャカ振り続ける。理由もなく振り続ける。
游斗の視線は手元ではなく床へ向いていた。なにもないその一点をじっと見つめ、さかんに手だけを動かしている。
「いつまで振ってるつもりだよ」
壁によりかかる晒科が同じものを仰いだ。喉ごしの良さそうな息が漏れる。
「……残ってましたか」
振るのをやめてポツリと呟く。晒科がこちらを見下ろした。
「何が?」
「痕跡です。黒島さんが現場に訪れた痕跡、ありませんでした?」
「なんでそんなこと聞く?」
「……黒島さんが、竜胆が殺されたことを知ってたから」
炭酸を傾ける晒科の手が止まる。
「連絡が取れなかった黒島さんが、どこでそのことを知ったのか……もしかしたら、現場をその目で直接見たんじゃないか。そんな考えに至ったんです」
「……ああ、残ってたよ。指紋も髪の毛も」
炭酸を飲み干した晒科が、ファイルのページを開く。
「だが、これだけじゃまだ決めつけられねぇよ。警部は昼間も、竜胆商事に行ってたんだろ?」
晒科からファイルを受け取る。それを見る限り、黒島の指紋はドアノブや奥部屋のテーブルなど、昼間に触ったであろう位置にしか残っていない。
「竜胆の遺体に指紋は……?」
「次のページ」
めくると、遺体の状況が写真つきで詳細に記されていた。
死因は刃物で心臓を刺されたことによる失血死。外傷は致命傷であるその傷のみ。衣服に不自然な乱れ、汚れはなく、指紋も被害者及び竜胆商事の人間のもののみが検出されている。つまり、黒島の指紋はなかったということだ。
「それだけじゃ、警部が現場にいたことの証明にはならないだろうな」
空の炭酸缶をベコベコ鳴らす晒科。やがて飽きたのか、それを游斗へ投げて寄越した。
「じゃあ、凶器の方は?」
「まだ見つかってねぇよ。ただ、果物ナイフみたいな形状の刃物ってことだけだ」
「果物ナイフ……」
「会社のナイフは一本も減ってないんだと。多分犯人が持ち込んだんだろうな」
晒科は近くの自販機に小銭を投入した。そのときに、階段から誰かが下りてくる足音。
姿を見せたのは吉瀬だった。彼は游斗を見つけ、晒科を見つけ、片手を上げた。
「私お茶で」
「買うわけねぇだろポンコツ」
同じ炭酸をもう一つ買うと、晒科は自販機にもたれかかった。
「で、どうだった」
「案外すんなりと話してくれました。やっぱり黒島さんは犯人じゃありません」
「お前の意見は聞いてない。警部から聞けたこと全部話せ」
吉瀬はわずかに視線を宙に迷わせると、肩の力を落とした。游斗の隣に腰を下ろし、手帳を開く。
「順を追って説明しますと――――黒島さんは昨日の十五時頃、竜胆商事を訪れました」
「それは間違いないです。僕も遭遇しましたから」
「はい。問題はその後です」
吉瀬は手帳のページをめくった。
「十七時になって、黒島さんは再び竜胆商事へ向かいました。その際、階段で不審な男とすれ違ったそうです」
「不審な男?」
晒科が眉を歪めた。
「フードを被った痩せ型の男で、目のそばに傷があった……らしいです。そのときはなんとも思わなかったが、竜胆商事を訪ねてみたら……」
「竜胆が死んでた、ってわけか」
吉瀬がうなずく。
「黒島さんは瞬時に思ったそうです。さっきの不審な男がやったのではないかと。それでその男を尾行した」
「尾行するのはいい。問題は、なんで私らに連絡がなかったかだ」
「それは……」
口ごもり、手帳を閉じる。
「……携帯を落とした、らしいです。本人も結構落ち込んでましたし……」
「なんで一晩中戻らなかった」
「男の素性が分からなかったからだと……せめて男の住所だけでもと辛抱強く尾行し続けたものの、朝方とうとう見失ってしまったそうで……」
「……ふぅん。そうかよ」
晒科は二本目の炭酸を開け、歩き出した。
「晒科さん? どこ行くんですか?」
「帰る。私は夜勤明けなんだ」
それだけ言い残して行ってしまう。くまをこすりながら「それを言うなら私もです……」と吉瀬が愚痴った。
游斗はポケットからくしゃくしゃになった海東極の資料を取り出した。
「黒島さんが見た不審な男って、きっとこいつですよね」
「でしょうね。それを見たときの反応からしても、それは間違いないと思います」
吉瀬が大きなあくびをすると同時に、游斗のポケットの中でスマホが震えた。
「すいません、ちょっと」
「ああ、どうぞ。お気になさらず」
吉瀬から離れ、角を曲がり、人気の少ない場所で画面を確認する。案の定、空白表記だった。
「もしもし。どうし――――」
『舞夏ちゃんが見つからないんです!! そっちはどうですか!? 見つかってませんか!?』
遠慮なく鼓膜をつんざく声が飛び出てくる。通話音量を最小限まで下げ、且つ耳から距離を置いた。
「生憎だけど、こっちにもいないよ……」
『そんな……っ! どうすればいいんですか!?』
「歌守さん、一旦落ち着こう」
『できたらとっくに落ち着いてます! 無茶言わないでください!』
「いいからっ! 僕の真似して。吸ってー、吐いてー、吸ってー、吐いてー」
『すってー、はいてー……すってー、はいてー……』
電話口がだんだん寡黙になる。やがて日向の深呼吸音だけになった。
「……どう?」
『……少し落ち着きました……』
「よし」ボリュームをもとに戻し、耳に構える。「じゃあその落ち着いた状態のまま話して」
『はい……私、舞夏ちゃんの行きそうなところを片っ端から回ったんですけど、どこにもいなくって……私、どうすればいいか分からなくなって……』
「小船渡さんの行きそうなところって、具体的にはどこ行ったの?」
『師匠の家とか、お気に入りの丘とか、通ってた小学校とか――――とにかく思い当たるところは全部……』
「んー……」
游斗は顎に手を添える。日向にも思いつかないような場所にいるのか、それとも見つからないようにうまく逃げているのか――――。
『…………私、少し不安なんです』
消え入りそうな、しかしはっきりとした声だった。
『昨日はあんなこと言いましたけど……私、不安なんです。というか、分かってるんです。動機こそないけど、一番怪しいのは舞夏ちゃんだって……』
「歌守さん……」
『現にこうして舞夏ちゃんの行方が分からなくなって……こんなの、先輩からしたら疑うなって方が無理ですよね』
日向の声が沈む。語尾がわずかに涙ぐんでいたのを游斗は聞き逃さない。
「……これから竜胆商事に行こうと思う。そこで合流したい」
『竜胆商事……? どうしてですか』
「ちょっと気になることがあるんだ」
☆ ☆ ☆
竜胆商事がある雑居ビルに游斗が到着したのは、正午を少し過ぎた頃だった。
ビルの内部は閑散としていた。もともと人気のない場所で、さらに殺人事件が発生したのだ。人など寄りつくわけがない。
竜胆商事の扉には黄色いテープが貼ってあるだけで、見張りの警官はいなかった。好都合だ。游斗はテープを潜って勝手に侵入する。
竜胆が倒れていた場所は、白いテープで縁取られていた。心臓の周囲に残った血痕が生々しい。
「先輩…………」
壁から日向が姿を現した。不安そうな面持ちである。
「気になることって、なんですか?」
「ここで小船渡さんを見つけたとき、彼女の手には竜胆の血痕がついてたよね」
「……はい。だから、舞夏ちゃんが竜胆を殺したんじゃないかと……」
「僕もそう思ってた。だけど、よくよく考えたらおかしいんだ」
「おかしい?」
游斗は床のテープの前に屈んだ。
「竜胆は心臓を刺されて殺されてた。出血もかなりあっただろうけど、犯人の手のひらに血がつくとは思えない」
「……ナイフを握ってたから!?」
「当たり」
日向に人差し指を向ける。それからパッと手のひらを開いた。
「手の甲ならまだしも、手のひらが真っ赤になるなんて普通はあり得ない。小船渡さんの場合、両手が真っ赤だったよね?」
「そりゃもうべっとりでした! 手形取れるんじゃないかってくらい!」
激しく首を縦に振る日向。しかし、途中で「あれ?」と首を傾げた。
「じゃあなんであんなに血がついてたんですか? ていうかそもそも、手にあれだけの血がつくことってあるんですかね……?」
「ないだろうね」
さらっと答えて、游斗は立ち上がる。
日向はますます訳がわからなそうな顔をした。
「じゃあなんで……?」
「自然につくことはない。だったら、小船渡さん本人が故意につけたとしか考えられない」
「……わざと、ってことですか?」
游斗は頷く。日向は手を振って否定した。
「いやいや、それこそあり得ないですって。そんなことする必要ないじゃないですか」
「それはどうだろうね?」
「……どういうことですか?」
日向の顔は明らかに不満げだ。構わず游斗は続ける。
「小船渡さんは昨日、僕と黒島さんの会話を盗み聞いてたかもしれない。もしそうなら、自分をひき殺した犯人が殺されたことも、その事件を黒島さんが血眼になって追っていることも、小船渡さんは知っていることになる」
「知ってたら、どうなるんです?」
「……ここからは推理と言うより、想像の域なんだけど」
そう前置きして、游斗は告げる。
「身をやつす黒島さんに、小船渡さんは漠然とした不安を感じたんだと思う。そんな矢先、竜胆商事から飛び出してくる黒島さんと、竜胆の死体を見つけた……」
「ちょ、ちょっと待ってください!」
日向が垂直に手のひらを向けてくる。
「ってことは……舞夏ちゃんは黒島警部を庇いたくて、自分の手を血まみれにしたってことですか!?」
「あり得ない話じゃ……いや、むしろこの可能性が一番高いと思う」
「じゃあ、舞夏ちゃんが私たちの前からいなくなったのは……」
「自分の疑惑を濃くするためだろうね。実際、僕も歌守さんも小船渡さんを疑ってしまった」
日向は目をまん丸くしていた。鳩が豆鉄砲とはまさにこのことだろう。
「え……じゃあやっぱり、竜胆を殺したのは黒島警部……?」
「いや、それも違うと思うよ」
游斗はソファーに腰かけた。予想以上のふわふわ具合に体が沈みこむ。
「さっき警察署に黒島さんが戻ってきた。なんでも昨日、このビルでこの男とすれ違ったらしい」
くしゃくしゃの海東の資料を日向に見せる。
「うわっ、悪そうな顔……じゃあこいつが犯人ですか?」
「十中八九そうだろうね。警察が本気で捜査を始めれば、逮捕は時間の問題だと思う。だからもう心配いらないよ、小船渡さん」
「え、舞夏ちゃん?」
日向が周囲をキョロキョロと見回す。そんな彼女の足元から舞夏は顔を見せた。
「きゃっ、びっくりした! 心臓止まるかと思った……」
「とっくに止まってるでしょ」
「……ほんとうに?」
と、舞夏が呟いた。日向が正面に回り込む。
「そりゃもちろん。私たち死んでるし」
「そうじゃなくて!」
舞夏が声を張り上げた。日向を退かして游斗と向き合う。
「おじちゃん、犯人じゃないの?」
「うん。まあ、多少のお咎めはあるだろうけどね」
「本当に?」
「嘘ついてるように見える?」
「わからない」
「そこは嘘でも『見えない』って言おうよ……」
游斗は思わず失笑した。
舞夏の目は涙ぐんでいた。游斗はその頭を優しく撫でる。氷のように冷たい感触だった。
その様子を横から羨ましそうに日向が見ていた。
「……触れない人は無理だよ」
「まだ何も言ってないですー」
膨れ上がる日向の頬。游斗はわずかに微笑んで、
「あと二年半? 頑張って」
「二年でものにします」
「一応だけ、期待はしとく」
游斗はハンカチで、舞夏の瞳からこぼれた涙をすくった。
「……センパイ」
「なに?」
「ごめんなさい」
「……気にしてないよ」
真っ赤な瞳の彼女の頭を、游斗はもう一度だけゆっくり撫でた。
☆ ☆ ☆
その日の夜、游斗はコンビニ袋を携えて人気のない公園のブランコに腰かけていた。
秋も過ぎ去りもうすぐ冬が訪れようかというこの時期、夜の冷え込みは日に日に増してきていた。游斗は厚手のジャンパーのポケットからスマホを取り出した。着信はない。
ギィ、と隣のブランコが揺れた。さっきまで誰もいなかったその場所に、シワと白髪の目立つ老婆が座っていた。日向の師匠であり、舞夏の親代わりである渡村キヨだ。
游斗はレジ袋からペットボトルのお茶を取って差し出した。
「飲みますか?」
「……どうやってわしのケータイにメールを入れた」
お茶を受け取らず、渡村はスマホを游斗に見せた。
「簡単ですよ。小船渡さんが渡村さんのメアドを知っていた。あとは歌守さんがうちのパソコン使って送信しただけです」
「『電波接触の術』か……」
渡村は游斗の手からお茶を取り、一口飲んだ。
「で、用事はなんじゃ?」
「僕の推理を聞いてもらいたくて。添山の白骨死体がどうしてあの館にあったのか、まだ解決してませんでしたから」
「……舞夏からはどこまで聞いた」
「だいたいは。館に招かれた最初の日は優しかったのに、次の日起きたら出てけと言われた、とか。死体のあった部屋にはいつも結界が張ってあって入れなかった、とか」
コンビニ袋からもう一本、お茶を取り出す。
「……渡村さん。あなたは小船渡さんと添山の死体を対峙させたくなかったんじゃないですか?」
「当然じゃ。死体など、死人と言えど子供に見せるものじゃなかろう」
「理由はそれだけですか?」
游斗が渡村に視線を向ける。渡村のブランコが軋んだ。
「……お主の推理とやらでは、他にどんな理由がある?」
「小船渡さんを轢き殺した犯人は添山です。そのことをあなたが知ってたとすれば、なんとしてでも見せたくないですよね?」
渡村は黙る。游斗はコンビニで買ったチョコレートの箱を開けた。
「食べます?」
無言のまま渡村の手がチョコを取る。游斗も一つを口に運んだ。
「昨日、竜胆商事という会社の社長が殺される事件が起きました。そして今日つい先程、竜胆商事の元従業員だった海東という男が逮捕されました」
「それがどうした?」
游斗はスマホのニュース記事を開いた。『四年前の銀行強盗事件、決着か』と書いてある。
「四年前の八月七日に起きた銀行強盗事件です。海東の証言で、この強盗事件は竜胆商事が起こしたものだと判明しました」
「ほう?」
渡村は二つ目のチョコに手を伸ばす。しかし、游斗はチョコレートを遠ざけた。
「大事なのはここからです。海東は、銀行強盗の主犯は添山だったと供述したそうです」
「…………ほう」
「驚かないんですね……知ってましたか?」
「どっちでもよかろう」
腕を伸ばして渡村はチョコを二粒かっさらった。
「添山は大金を奪うことには成功したものの、その重さに困り、最終的には金を全部捨てたそうです。そして予め近くに隠しておいた自分のバイクで逃走した」
「その最中に舞夏は跳ねられた、と。そう言いたいんじゃな?」
「強盗に失敗したことと、幼い子供を轢いたことで添山は精神的に追い詰められ、自首すると言い出した。だけど──」
ガリッ、と渡村がチョコを奥歯で噛み砕いた。
「そんなこと、竜胆が許すはずもない……か」
「だから殺されたんです。人気のないあの館に連れていかれて」
游斗と渡村は同じタイミングでお茶を飲んだ。
「ただ偶然にも、添山が殺害された夜、館には小船渡さんがいた。渡村さんは驚いたんじゃないですか? 朝起きたら、男の死体があったんですから」
「なるほどのう……」
「あなたがこの時点ですでに添山のことを知っていたのか、それとも後日どこかで知ったのかは分かりません。ただそのときは、子供に見せるべきではないそれをどうするか頭を悩ませた。悩んだ結果、死体を隠し部屋に隠し、小船渡さんを館から追い出そうとした」
「……のう、探偵」
「はい?」
「舞夏の涙目、知っておるか?」
「知ってます」
「あれで迫られて、なお出てけと言える人間をわしは見てみたいわ」
自嘲っぽい笑みだった。半分ほど減ったペットボトルの蓋を閉めている。
「じゃあ僕の推理、だいたい当たってるんですね」
「だいたいどころか、ほとんど全部じゃ。あれのお陰で、四六時中結界を張る羽目になるとは思わんかった」
渡村はブランコから立ち上がると、はじめて游斗の方を向いた。
「……舞夏はどうしてる?」
「今ごろ警察署で、黒島さんの始末書を応援してると思いますよ」
「……そうか。朝までには帰ってこいと伝えておいとくれ」
立ち去ろうとする渡村に、游斗はレジ袋を差し出した。
「よかったら持ってってください。お酒のつまみくらいなら入ってますから」
「……肝心の酒は?」
「僕まだ十九ですよ? 買えませんでした」
「フッ……そうじゃったか」
レジ袋の中身をあさりながら、渡村は暗闇の中に姿を消した。
游斗は手元のお茶を飲み干すと、近くのゴミ箱へ投擲した。ペットボトルは惜しくも縁に嫌われて地面を転がる。
「……入った試しがないんだよなぁこれ」
拾おうと游斗はブランコを立つ。だが游斗より先に、別の手がペットボトルを拾い上げた。
「あっ、すいませ──」
相手の顔を見て、游斗は目を見開いた。
「あれ? 御堂先輩じゃないっすか? 奇遇っすね」
白いメッシュと崩れた敬語。近衛勝馬は手の代わりにペットボトルを振ってきた。
「……近衛くん」
游斗はわずかに後ずさった。どうもこの男の笑顔は胡散臭い。
「どうしたんすかこんな時間に? 夜中の散歩は風邪引くっすよ?」
「そっちこそ。こんな人気のない公園に、なんの用事?」
距離を保ったまま近衛を睨み付ける。近衛は「おーこわ」と身を震わせた。
「そんな怖い顔しないで。俺はただ、落とし物を拾っただけっすから」
「……落とし物?」
「これっすよ、これ」
近衛はポケットから携帯電話を取り出した。折り畳み式の、ガラケーと呼ばれる機種だ。
「今時ガラケーなんて珍しいっすよね。多分おじさんかおばさんのものだと思うんすけど」
「……交番にでも届けたら?」
そう言うと、近衛はバカにしたような笑顔を浮かべた。
「やだなぁ先輩。近頃は汚職警官も増えてるって言うじゃないっすか。そんなところに預けらんないっすよ」
「ドラマの見すぎだと思うけど」
「ほんとにそうっすかねぇ?」
近衛は手首のスナップでガラケーを開く。
「ところで御堂先輩は、これ誰のか見覚えないっすか?」
「さぁね」
ぶっきらぼうに告げると、近衛は馴れ馴れしく肩を組んできた。
「よく見てくださいよ? ほら、この待受画面とか」
「知らないって」
「じゃあこれは?」
画面が電話帳に切り替わる。個人情報の羅列の中に、『吉瀬俊輔』と『晒科朱莉』の名前があった。
「これ……!?」
「お? もしかして、知り合いの名前でもあったっすか?」
近衛からガラケーをひったくる。着信履歴を確認すると、昨日の夕方から今朝にかけてメールや電話がいくつも届いていた。
これが紛失した黒島の携帯であることは間違いなかった。
「どうしてこれを君が……!?」
「だから、たまたま拾ったんすよ」
「いつ? どこで!?」
「んー、一週間くらい前っすかね?」
「そんなわけないだろっ!」
夜の公園に游斗の声が響く。近衛はなおも飄々な態度で「どうどうどう」とふざけた反応をした。
「俺も最近忙しくて、記憶が確かじゃないんすよ。その辺は勘弁してほしいっす」
申し訳なさそうなのは言葉だけだ。相変わらずの人を見下した表情で近衛はヘラヘラ笑う。
「まー、それの持ち主知ってるんなら届けてあげてください。きっと今ごろ困ってるっすから」
近衛はペットボトルをゴミ箱に放り込むと、踵を返した。
「あ、そうそう」
近衛は振り返る。
「あいつ、目が覚めたらしいっすよ」
「あいつ?」
「濃見新太。姫永ちゃんからカツアゲしてた疑惑のある三年生様っすよ」
そう言って游斗の手に紙切れを握らせる。病院名と部屋番号が記されていた。
「お見舞いでも行ってあげたらどうっすか?」
「……君は行かないの?」
「ハハ、気が向いたら」
背中を向けて、今度こそ近衛は夜の中に去っていった。
一人残った游斗は舌打ちし、自分のスマホから吉瀬に電話をかける。
『……ぁい、もしもし?』
眠そうな吉瀬の声がした。