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騒捜ゴースト  作者: 時計座
2/6

毒独ディテクティブ

 初雪は早かった。

 年が明けてからわずか九日。未だお正月気分が抜けない町に真っ白な雪が降りしきり、新年早々大人たちは困った表情を並べている。

 御堂(みどう)游斗(ゆうと)も雪は好きな方ではない。高校への通学路が凍っていることに眉をひそめながらも、傘を差しながら、転ばぬよう着実に踏みしめて歩いている。

 専門学校への進学も決まっている游斗には比較的気楽な三年三学期となるだろう。もちろんすべきことは多いが、それでも肩の荷は一つでも少ない方がいい。

 最後の高校生活。小説部の活動に力を入れていこうと意気込みながら、游斗は青になった信号を渡る。マフラーを軽く巻き直し、白い息を吐き出した。

 小鳥丘(ことりおか)高校へ近づいていく。やがて眺めに入った校門には、生徒や大人が入り交じった不可解な人だかりができていた。

 まるで合格発表のときのような人数である。だが当然ながら入学試験はまだ行われておらず、現状の人だかりも、合否に一喜一憂するそれとは似ても似つかなかった。

 ざわめきの中から聞こえてくるのは大人のどよめき。時たま女子の悲鳴も漏れて、非常事態であることは瞬時に判断がついた。

 人だかりの中へ游斗が駆け込む。後方の野次馬たちを掻き分けて校門を潜ると、中は青い顔をした生徒で溢れかえっていた。

 誰の視線も同じ方向を見上げている。つられるようにして游斗もその方向を向いた瞬間、頭を殴られたような錯覚に瞳が大きく揺れた。

「……え……?」

 校舎の三階教室の窓から、少女が首を吊っていたのだ。

 冷たい風に吹かれてもピクリとも動かない。その光景が、じっくりと游斗の脳裏に焼きつき始まっていた。

「……あれって、小説部の子じゃないか……?」

 誰かが呟いた言葉で游斗がハッとなる。首を吊っている少女をよく見てみれば、游斗もよく知る後輩だった。

歌守(うたもり)さん……!?」

 目を見開き、游斗が反射的に駆け出す。靴も脱がずに校内へ飛び込むと階段を二段飛ばしで駆け上がり、三階の教室の前までたどり着く。

 そこには既に数人の教師がおり、うち何人かの男性教師が扉に体当たりをしていた。

「くそっ! 鍵はまだかっ!」

「今小泉(こいずみ)先生が取りに行ってます!」

 怒鳴る男性教師に女性教師が叫び返す。扉を蹴破ろうとする音だけが何度も繰り返され、誰の顔にも恐怖と焦燥の色が浮かんでいた。

「鍵持ってきました!」

 現れた小泉に全員の視線が注がれる。慌てた手つきで鍵が鍵穴に差し込まれると、直後解錠音がした。

 乱暴に扉が開け放たれる。教室の中では、机や椅子がバリケードのようになって入り口を塞いでいた。

「早くどかせ!」

 男性教師の怒号が飛んだ。

 男が中心となって一心不乱にバリケードを崩していく。机同士がぶつかる音や椅子が落ちる音が絶え間なく轟く中、出来た僅かな隙間に游斗が無理やり身体を捩じ込んだ。

 転げるようにして入室に成功する。未だ廊下からバリケードを崩している教師たちを一瞥もせず、游斗は一目散に窓へと駆けた。

「歌守さんっ!」

 窓際の手すりに繋がれたロープの先、窓の外にぶら下がる小柄な体躯。勢いよく身を乗り出した游斗が見たのは、まるで眠っているかのように穏やかな歌守日向(ひなた)の死に顔だった。


 ☆ ☆ ☆


「へぇー、そんなことがあったんですか……」

 他人事のように呟いた歌守日向が、廊下で男子生徒をすり抜ける。毎度のことながらその奇妙な体質の後輩幽霊に、游斗は呆れた視線を向けた。

「まさか、自分が死んだ状況を何も知らなかったとはね」

「しょうがないじゃないですか。誰かに学校に呼び出されたのは覚えてるんですけど、殺された瞬間のことは記憶がこんがらがってて上手く思い出せないんです。幽霊として気がついたときにはもう私のお葬式とか色々終わった後だったし……」

「……それで、自分が自殺で処理されてたこともついこの前知ったと」

「そういうことです!」

 自信満々に向けられたピースサインをスルーし、游斗は気力的に重くなった身体で喧騒の中を歩く。

 あちらこちらで上がる客寄せの声。コスプレをした生徒が看板やメニューらしきものを掲げ、他の生徒や父兄たちはパンフレットを片手に游斗とすれ違う。日向はすり抜ける。

「やっぱ小鳥丘高校の文化祭って、人多いですね」

「まあ、そもそもからして学校が大きいからね」

 並ぶ模擬店を眺めながら游斗と一つの教室の前で立ち止まった。

 壁にはでかでかとラーメンのプリントが張り出されており、一目でそのクラスはラーメン屋をしていると分かる。中から流れてくるスープの香りに、日向が犬のように鼻を動かした。

「歌守さん、匂い分かるの?」

「……とんこつ!」

「ほんとに?」

 半信半疑のまま游斗は、山王軒(さんのうけん)と書かれた暖簾(のれん)を潜り、店内に足を踏み入れる。よりはっきりとスープの香りを感じると共に、すぐそこで見知った顔と目が合った。

「御堂先輩!」

 嬉しそうな表情を浮かべた姫永(ひめなが)涼乃(すずの)が、頭のバンダナを直して游斗の前へ出た。

「来てくれたんですね!」

「そりゃ誘われたからね。母校っていうのもあるけど」

 店内を見回す游斗。教室隅が厨房になっているようで、赤いバンダナを巻いた生徒たちが一生懸命ラーメンを作っている。他にも赤いバンダナの生徒が教室内にちらほらとおり、こちらは手にメモとペンを携えて注文を記録しているようだった。

「見ての通り、二年一組はラーメン屋です。結構売れてます。三階だから換気もしやすくて」

 頬を緩めて喋る姫永。それから思い出したように游斗を厨房目の前の、いわばカウンター席に案内した。

「メニューそれです」

 そう言って姫永が手書きのメニューを指し示す。店員らしく一つお辞儀をすると、離れた席の客のもとへ去っていった。

 ふわりと日向が游斗の横に来る。それを気にせず、游斗は目の前にいる背の高い店員生徒に醤油ラーメンを注文した。

「……この教室、なんですよね」

 不意に日向が窓の方を見て呟いた。游斗もつられて窓を見る。

「この教室で、私は殺されたんですね」

「……そうだよ」

「あの手すりから首を吊って」

「うん」

「皮肉ですね」

 日向は顔の向きを窓から姫永へ変える。

「私が死んだ場所で姫ちゃんが出し物するなんて」

 日向の言葉に游斗は何も言えない。事実、現実は皮肉染みていた。姫永は楽しそうにしているが、その表情の裏側も笑っている保証はない。むしろ痩せ我慢なのではないかという疑いが游斗の本心だ。

「……そうだね」

 注文を取る姫永の背中を眺める。横の日向の顔も珍しくすぼんでいた。

「なんだ、気になる子でもいんのかお前?」

 心臓に冷水を浴びせられたかのようなショックに、游斗の腰が椅子から跳ねる。机を蹴り上げた膝に痛みを感じながら、游斗は隣の席へ顔を向けた。

 制服をだらしなく着崩し、派手なピアスとチョーカーが異様に目立つ男。男は游斗が見ていた方向へ目だけ動かすと、理解したように口元を三日月型に歪めた。

「なぁるほどぉ、姫永か。可愛いもんなあいつ。恋なら応援するぜ?」

「……君、誰?」

 たまらず游斗が尋ねると、男は狭い椅子の上で強引に身体の向きを変えた。

濃見(のうみ)新太(あらた)小鳥丘高校(ここ)の三年生様だ」

「三年生様……?」

 聞き慣れない言い方に游斗が眉を下げる。その耳元で日向が囁いた。

「ほら、去年いたじゃないですか。素行不良の塊みたいな二年生」

「そうだっけ……あんまり覚えてない」

 そっと小声で返してから、游斗はもう一度濃見を見やる。その派手な格好を眺めていると、当然ながら濃見が怪訝そうに睨みを利かせた。

「なんだよ、人をジロジロ見やがって……」

「ちょっと……意外だなって思って」

「はぁ?」

「あ、いや……」

 しまった、と思った游斗は焦り混じりの身ぶり手振りを加えて弁解する。

「君みたいな不良、じゃないや、えーっと、こう……我が道を行く、みたいな生徒は、文化祭とかそういう行事はサボタージュするものだと思ってたから……」

 初対面の相手に何を言っているんだ。失礼もいいところだろう。そんな游斗の自律心も功をなさず、口からは次々と失言が矢のように飛んでいく。

 もう手遅れ。そう思われたが、意外にも濃見は「あー……」とそっぽを向き、「ま、本当ならそうするつもりだったんだがよ」と愚痴を溢した。

 そのとき、ドン、と游斗の前にラーメンが置かれる。

「おまちどうさま、醤油ラーメンです。五百円になります」

 つり目の女子生徒が厨房から告げる。ぎこちない手つきで游斗がお金を渡すと、愛想なくすぐに背中を向けた。

 その背中に濃見が舌打ちする。

「ったく……うちのラーメン出してんだから、もうちょっと愛想よくしろってんだ」

「うちのラーメン?」

「俺ん家、海王軒(かいおうけん)っていうラーメン屋でよ。こいつらが文化祭のためにラーメン教えてほしいって言ってきたら、親父喜んじまって。こいつらもこいつらで、ラーメン再現したから俺にもぜひ食いに来てほしいってよ」

 合点がいった游斗は目の前のラーメンと向き合う。醤油の香りが湯気に乗って游斗の鼻腔をくすぐった。

「わぁぁぁ! おいしそうなラーメンですね!」

 目を大きく開いてラーメンに歓喜した日向は、傍で口を開けると精一杯息を吸い込んだ。それから咀嚼のように口を動かすと、

「先輩! これ本当おいしいですよ!」

「え……歌守さん、もの食べれたっけ?」

 食べた、というより何かしらのエネルギーを吸収したという方が的確である。

 少し面食らいながら游斗が問うと、日向は自慢げに鼻を鳴らした。

「最近会得した新しい技です。その名も『味見の術』!」

 すごいでしょ、と言わんばかりに胸を張る日向を適当にあしらい、そこで游斗は箸もレンゲもないことに気がついた。

 ダン、と音をたてて濃見が箸入れを差し出す。

「ほらよ」

「あ、ありがとう……」

 割り箸を一膳取り出そうと手を伸ばす。そのときに、割り箸のトゲが游斗の指にチクリと刺さった。

「いって……!」

 人指し指の腹に滲んだ血が滴って割り箸を染める。それを見て、濃見が小馬鹿にするように鼻で笑った。

「おいおい気を付けろよ?」

「そうですよ。血で割り箸汚したことも、ちゃんと後で謝るんですよ?」

 反対隣から日向も言ってくる。

 少しばかり憮然として、游斗は人指し指の血を親指で練り消した。今度はトゲに気を付けて割り箸を一膳抜き取る。

 タイミング良く濃見のラーメンも出来上がり、游斗は静かに箸入れを濃見へ返した。

「どうもレンゲはねぇみたいだな」

「そう……みたいだね」

 割り箸を割って、游斗は麺をほぐしてから口へ運ぶ。出来立ての熱さと醤油の風味が舌の上で躍り、自然と頷けていた。

「確かに美味しい。よほど懸命に学んだんだね」

 游斗が素直な感想を述べると、厨房で三人の生徒がはにかんだ。

「ま、本家の方が旨いけどな」

 濃見も游斗と同じようにして麺を箸でつまみ上げる。豪快に(すす)ると案の定スープが飛び散った。

「んー、悪くねぇな」

 噛みながら喋る濃見。それを日向が嫌悪の視線で見ていた。

「行儀悪すぎですよ。机が汚れるじゃないですか」

「まあまあ、後で拭けばいいでしょ?」

「先輩の服にも飛び散るかもしれませんよ」

「そうなったときに注意するから」

 日向は憮然とした表情で游斗を見ると、「あのですね!」と声を張った。

 次の瞬間、箸が落ちる乾いた音が日向の口を止めた。

「……ぅっ!?」

 突然呻き声を上げた濃見が苦しそうに喉をかきむしる。酸素を求める金魚のように口をパクパクさせ、机と椅子が乱暴に音を鳴らす。

 游斗の表情が凍りつく。游斗だけではない。客も店員も、廊下を歩く通行人さえ、目の前の非日常に言葉を失い始めた。

 濃見が派手に椅子から転げ落ちる。床を激しく転がった後、痙攣しながら少しずつ弱っていく。まるで、陸に落ちた金魚のように。

「濃見さんっ!?」

 裏返った声を発した姫永が、いち早く血相を変えて彼にしがみついた。衰弱する身体を細い腕で強く揺さぶる。

「……きゅ、救急車!!」

 游斗が反射的に叫ぶ。姫永を退け、彼女の代わりに濃見の肩を乱暴に掴んだ。その行動が合ってるかどうかなど思考する余裕はなく、ただ非常事態の警笛を鳴らす脳に脊髄反射で従う。

「救急車だって! 誰でもいいから早く!!」

 二度目のそれには苛立ちが含まれていた。ざわめく群衆の中心で、游斗は意味なく舌打ちをする。

「濃見さん!! 濃見さんっ!!」

 泣きそうな顔で姫永が何度も彼の名を呼ぶ。そこに冷静さは片鱗もなく、もはや恐怖の絶叫に近かった。

 机の上でこぼれたラーメンだけが、時間をゆっくり堪能していた。


 ☆ ☆ ☆


「被害者は濃見新太さん十八歳。この学校の三年生です」

 黄色い規制線が貼られた教室の中で、吉瀬(きちせ)俊輔(しゅんすけ)が手帳を片手に読み上げる。

「二年二組の模擬店でラーメンを食べたところいきなり苦しみ出し、近くにいた生徒が119番通報。通報が早かったため一命は取り留めましたが、意識は戻っていません」

 それを聞いていた黒島(くろしま)昌樹(まさき)が難しい顔をする。現在鑑識が眺め回している濃見のラーメンを遠目にちらと見ると、次に真反対に視線を向けた。

 椅子に座って待機している游斗と目が合う。

「……この間はどうも、刑事さん」

 ぎこちなく游斗が挨拶を交わす。黒島も僅か頭を下げ、対して吉瀬は仏頂面だった。

 刑事二人の眼差しは奇異のものだった。そこに嫌悪や敵視があるわけではないが、游斗に若干のやりづらさを滲ませている。

 無理もない。それだけのことを起こしたのだ。起こしたのは游斗でなく、日向だが。

 その日向は游斗と刑事を交互に見やる。

「…なんですか? この気まずい感じ」

 君のせいだろ、と游斗が日向を睨む。それが伝わらなかったのか日向は首をかしげた。

「今度こそ……」

 静かに吉瀬が呟いた。

「今度こそあなたが犯人ですね御堂さんっ!」

「またそれですか……」

 呆れた游斗が溜め息を溢す。周囲がざわつくのを無視して游斗は一応聞いてみる。

「根拠は?」

「被害者の隣に座っていたからですよ! 隙を見て毒物を混入し、濃見さんを殺害するのも容易かったはず!」

「一命は取り留めたはずでは?」

「と、とにかく! あなたが犯人だって、ネタは上がってるんですよ!」

 明らかに言ってみたかっただけだろうセリフを吐いて、吉瀬は満足げに笑む。その隣で、中年の刑事が眉を曲げて言った。

「その前に、厨房にいた人間を疑うべきだろ。ラーメン作ってる最中なら怪しまれずに異物を混入できるかもしれないんだから」

 そして視線が窓際のテーブル席へ向く。そこに座っていたのは四人の男女だった。

 游斗が最初に醤油ラーメンを注文した背の高い男子生徒。その向かい側には髪の長い女子生徒と、眼鏡をかけた大人しそうな男子生徒。そして、游斗にラーメンを出したつり目の女子生徒が足を組んで無愛想に座っていた。

「あの……もしかして俺ら、ヨウギシャってやつっすか?」

 背の高い男子生徒が不安げな顔を覗かせる。それに煽られたように、眼鏡の男子生徒が腰を浮かせた。

「そ、そんな! 僕じゃないですよ!?」

「落ち着いて陣内(じんない)くん。誰も君だなんて言ってないから」

 髪の長い女子生徒に諭され、眼鏡の男子生徒――陣内が椅子に戻る。それを見届けてから、女子生徒は刑事の方へ体を捻った。

「で、何が聞きたいんですか?」

「ああ、えっと……」

 中年の刑事がペラペラと手帳をめくる。そしてペンを構えたタイミングで、吉瀬が邪魔するかのように前にしゃしゃり出た。

「みなさんはぁ!」

 ビシッと指を差しつけ、さながら舞台役者並の目力を放つ吉瀬。

「それぞれ! ぬぁんの! 仕事を! していたんですかっ!」

「なんですかあれ……」

 姫永が呆れた顔をする。フォローのしようがない游斗はなんとなく苦笑いを返した。

「そこの君は!?」

 吉瀬が陣内を指差す。陣内は確認するように自分で自分を指した後、ちょっと気まずそうに口を開いた。

「えっと……僕はラーメンのスープを任されてました……合ってるよね鈴木(すずき)さん?」

 自信なさげに陣内が髪の長い女子生徒に聞くと、彼女は少しはにかんだ。

「合ってるも何も、そういう役割分担に決めたでしょ? 陣内くんがスープ担当で、朝辺(あさべ)くんが麺。私と組川(くみかわ)さんが具の盛り付けで、姫永さんは注文係」

 女子生徒――鈴木が述べると、朝辺という背の高い男子生徒が肯定するように頷く。足を組んで座る組川は相変わらず無愛想なままだ。

「それにしても、今思うと結構すんなり決まったよな」

 朝辺が腕を組ながら告げた。

「最初に陣内がスープやりたいって言ってから、とんとん拍子でよ」

「それ私も思った。正直、スープ係って最後まで決まらないと思ってたのに」

 鈴木が同意する。陣内が少し照れ臭そうに頭を掻いた。

「ちょっと興味があって。それに、僕は他の面で楽してるからいいよ。朝辺くんや鈴木さんみたいに、食器を任されたわけでもないし」

「あー、ラーメン(どんぶり)持ってくるの結構大変だったんだぜ? 予想以上に重いしよ。その点、鈴木は楽でいいよなぁ、割り箸とか」

「うん、軽かったわ」

「それ嫌味?」

「ゴホンッ!」

 と、大きな咳払いが三人のトークを止めた。

「ゴホッ、ゴホッ! やべっ変な咳払いしちゃ……ゴホンッ!!」

 みっともない姿を見せる吉瀬に、三人の冷たい視線が突き刺さる。吉瀬は水を一杯飲んで咳を止めると、組川を含めた四人の顔を順に眺めていった。

 そして、いきなり件のラーメンを指差した。

「あのラーメンを作ったのは誰ですか!?」

 まるで格好がつかない。やりずらい雰囲気が流れた後、朝辺がつたなく答えた。

「しっかりとは覚えてねぇけど、陣内がスープ入れたやつを俺が受け取って、麺入れて、えーと……具の盛り付けは組川か鈴木のどっちかじゃないですかね?」

 朝辺が女子二人に「どっちがやったか覚えてる?」と問うと、すかさず鈴木が手を上げた。

「私だったと思う。具を盛り付けて濃見さんに出したから……組川さんは、あのラーメンには関わっていないはずだよ」

「つまり……」

 吉瀬がこれ見よがしに人差し指を眉間に当てる。

「被害者のラーメンに毒を仕込む機会があったのは、陣内くん、朝辺くん、鈴木さんの三人と……」

 クルリと美しいターンを決め、吉瀬が游斗へ真っ直ぐ人差し指を突きつけた。

「あなたということになります御堂さん!」

「だからなんでですか……」

 そんなに怪しく見えるだろうか自分、と游斗はつい自問してしまう。相手が吉瀬なのだから答えなどあるわけもないのに。

「というわけで、早速持ち物検査を――――」

 と意気込んだ吉瀬の肩を鑑識の男性が叩く。振り返った吉瀬に、鑑識は耳打ちした。

「被害者が食べたラーメンを調べましたが、毒物は検出されませんでした」

「……はぁ?」

 吉瀬の口があんぐり開く。差し出された報告書をひったくると、舐めるように隅から隅までを読み詰めた。

「……本当に? 本当に毒物なかったの?」

「なかったですね」

 あっさり答えた鑑識の男は立ち尽くす吉瀬を置いて持ち場へ戻っていく。

「え、うそ? 毒で殺したんじゃないの? どうなってんですか御堂さん?」

「だから知りませんってば」

 と返すものの、游斗も今の報告には少なからず疑問を抱いていた。游斗も、濃見は毒を盛られたものだと思っていたからだ。

 毒はなかった。ならば濃見が苦しんだ理由とはなんだ。

 思考する游斗を他所に、窓際から鋭い言葉が通り過ぎる。

「ひょっとすると、自殺した歌守日向さんの呪いだったりして」

 ピタリと空気が固まる。教室中の視線を一斉に集めた組川は、なんでもなさそうに口元で笑んだ。

「ほら、アパートとかでもワケアリ物件ってあるじゃない? そういうところにはお化けが出るって相場が決まってるでしょ?」

「組川!」

 朝辺が怒鳴り付ける。組川は面白くなさそうに足を組み替えた。

「冗談。お化けなんていてたまるもんですか」

 明らかに浮いた発言だった。人が倒れた現場で、ましてやお化け本人の前で言っていいことではない。いたたまれなくなった游斗は日向に目を向ける。が、彼女は案外ケロッとした顔をしていた。

「私、結構打たれ強いんですよ?」

 ウインクした日向。游斗の肩から一つ力が抜けたときに、視界の隅の震える人物に気がついた。

「お……おおお、おおお化けなんているわけないじゃなないですかぁっ!?」

 吉瀬である。スマホのバイブレーション顔負けの繊細な振動と、額から流れる冷や汗、泳ぎまくる瞳。

 誰がどう見ても動揺だった。みるみる青ざめていく顔で、吉瀬はなおも叫ぶ。

「しょんな非科学的なことあるるるるわけないでしょう!?」

「……もしかして、お化けが怖いとか?」

「こここ怖くなんてありません! 存在しないものに恐れを抱くほど私は愚かではありませぇんっ!」

 声を裏返す吉瀬に説得力はない。彼が退いた拍子に日向と接触したことは、游斗はそっと胸のうちにしまった。

 とはいえ、お化けが犯人などあり得ない、という点に関しては游斗も同じ考えだ。科学的どうこうではなく、日向がそんなことをするとは思えないという人格的な考え方だが。

 そんなことを思っていると、不意に小さな声が游斗の耳をかすめた。

「でもさ、やっぱり歌守さんの仕業じゃないかって考えちゃうよね」

 思わず振り向く。後方で女子生徒が二人、声を潜めて話していた。

「確かに。濃見先輩みたいな人、歌守さん嫌いそうだしね」

「相性悪そうだよね。生きてたらきっと、食べ方が汚いとか言って突っかかってたと思う」

 それを聞いて游斗はふと思い出す。スープを散らして食べる濃見に、行儀が悪いと言って日向が立腹していたことを。

 自然と目線が日向へ戻る。その目に少なからず疑いが籠っていると気づくと、日向はブンブンと激しく首を振った。

「そ、そんなわけないじゃないですか!」

 だが日向の否定も虚しく、その疑惑は波紋のように広がっていった。はじめは教室の生徒の間に、そして瞬く間に教室外の野次馬までもが日向のことを口にしだす。

 組川が綺麗に口角を上げた。

「ただの冗談だったのに……思ったよりウケてる」

 その瞬間、游斗の耳元で何かが切れた音がした。思考が吹き飛び、肺に空気が送られる。

「ふざけないでください!!!」

 その怒声で辺りはしんと静まり返った。游斗はぶちまけることのなかった肺の空気を静かに吐き出しながら、自らを遮った声の方角へ首を回す。

 組川も日向も刑事たちも、声の主を見て唖然とした表情を浮かべていた。

「なんなんですか、さっきから日向ちゃんを悪者みたいに…………」

 今にも溢れそうな涙で瞳を潤し、姫永はきつく周囲を睨み付けた。

「日向ちゃんのこと何も知らないくせに、勝手なこと言わないでください! ちょっと変わってたけど、絶対にそんなことする子じゃないです!」

「……姫永さん、あなた面白いこと言うのね」

 組川が姫永を煽るように微笑む。

「お化けなんているわけないじゃない。冗談だって言ったのにムキになっちゃって」

「っ!!」

 姫永の腕が組川の胸ぐらを掴み上げる。静まっていた教室に一気にどよめきが走った。

「姫永さん!?」

 慌てて游斗が姫永を引き剥がす。だが姫永は四肢を出鱈目に振り回し組川へ叫ぶ。

「あなたはいつもそう! 人をバカにしてそんなに楽しいですか!?」

「姫永さん落ち着いて!」

「落ち着けるわけないでしょう!」

 游斗を振りほどいた姫永は、涙と憎悪にまみれた眼を差し向けた。

「日向ちゃんが何したっていうんですか! どうして死んだ後もこんな扱いを受けなきゃならないんですか!?」

 誰もが押し黙る。游斗以外には見えていない日向は、少し気まずそうに顔を伏せた。

「……先輩は、そんなこと思ってないですよね」

「え?」

 聞き返した游斗に、姫永は静かに言い加えた。

「日向ちゃんの呪いだなんて、そんなこと思ってないですよね」

「え……えっと……」

 答えに詰まった游斗は無意識のうちに日向を一瞥する。渦中の幽霊の不安そうな表情を捉えると、再び視線を姫永へ戻した。

「もちろん、僕はそんなこと――――」

「嘘だっ!!」

 游斗が息を飲む。しまった、と思ったときにはもう遅かった。

「どうしてそうなんですか……そんなに日向ちゃんが嫌いですか……?」

 姫永の瞳から大粒の涙が溢れ始める。一粒、二粒。頬を滑って落ちていく。

「もういいです…………」

 僅かに聞き取れるくらいの声量の後、姫永は教室を飛び出した。

「姫永さん……っ!」

「姫ちゃん!」

 游斗が床を蹴るのとほぼ同時に、日向も壁をすり抜けて廊下へ出ていた。

 廊下は野次馬でごった返していた。すいすいと泳ぐように進む日向とは対照的に、游斗は野次馬を掻き分けて進むしかない。追いかけていた姫永はやがて、人混みの中に消えていった。

「どこに……」

 独り言を溢しフロアを駆ける。気づけば日向もいなくなっていた。

「先輩っ!」

 不意に呼ぶ声に游斗が顔を上げる。見れば、日向が天井から逆さまに顔だけ出していた。

「上です!」

 弾かれたように最寄りの階段を駆け上がる。屋上が近づいたところで、再び姫永の背中が游斗の視界に入った。

 二段飛ばしに切り替えて屋上へ駆け込む。姫永は一足早く青空の下へ飛び出していた。

「姫永さんっ!」

 追って飛び出した游斗が姫永の腕を掴む。その手は即座に振り払われ、姫永の充血した目が游斗を睨み付けた。

 游斗は何も言えない。その目だけで、彼女の辛さが分かってしまう。

 姫永の肩が小さく震え、僅かに、本当に僅かに口が動いた。

「なんで…………なんでですか……」

 涙声で俯く姫永。滴が屋上に二滴、落ちた。

「なんで……なんで日向ちゃん、死んじゃったんですか……」

 苦しい嗚咽の音に、游斗は言葉を詰まらせる。足元で顔だけ覗かせる日向も、悲しそうな表情を浮かべていた。

「…………私にとって、日向ちゃんは太陽なんです」

 煌めくものを手で拭って、姫永がポツリと呟いた。

「小さい頃から、あの子は怖いもの知らずだったんです。高い木の上にも平気で上るし、夜の学校に忍び込んだこともありました」

 そうなのか、と游斗は足元の日向を見る。返ってきたのは控えめな誤魔化し笑いだった。

「日向ちゃん、一人で行かずに私を誘ったんですね。一人よりも二人がいい、って言って聞かなくて、私も渋々ついていって。当然先生にバレて、二人揃ってこっぴどく叱られて……」

 再び姫永の瞳から涙が姿を見せる。しかし今度は拭うことはせず、頬を真っ直ぐ綺麗に伝って落ちた。

「あのときは、日向ちゃんを恨んだりもしました。でも……不思議と後悔とかなくて……むしろ今じゃ『やってよかった』って思うことばっかりで……」

「姫永さん…………」

「ずっと、導いてくれていたんです。引っ込み思案だった私を照らしてくれた、太陽みたいな子…………だったのに…………」

 游斗から顔を背けると、姫永は制服の袖を目元に擦り付ける。

 深い沈黙が出来上がる。ただ日向と視線を交わすことしかできない游斗は、一人気まずさを飲み込んだ。

「あの、姫永さん――――」

「ごめんなさい」

 振り返った姫永の双眸に、潤んだ游斗が映り込んだ。

「ちょっと一人になってきます……」

 震える声でそれだけ呟くと、姫永は決して早くない足取りで扉の中へ消えていった。

 日向が床から浮かび上がる。静かに閉まった扉を眺めて表情を曇らせると、その不安げな瞳を游斗へ向けた。

「あの……先輩。私、姫ちゃんを……」

 游斗は何も返さない。その無反応を受けて日向がおもむろに床へ沈む。一人残った游斗は意味もなく首を上げた。非常に空が青い。

「太陽、か……確かにそうかもなぁ」

 時折雲に隠れる太陽の温度を身体で感じながら、游斗は目を細める。それは、決して眩しいからではなかった。

「太陽を失うって……どういうことなんだろう……」

「目ぇ焼けるぞ」

 游斗が背中から震え上がる。反射的に距離を取りながら反転すると、さっきまで誰もいなかったその場所に見知らぬ老婆が立っていた。

「太陽を(じか)に見ちゃいかん。子供んころ習わんかったか?」

「あ……はい、すいません……」

「よろしい」と答えると老婆は「まあ、ワシに言わせればお主もまだまだ子供じゃがな」と掠れた笑い声を上げた。

 老婆は白髪とシワがとてもよく目立っている。パッと見でも八十歳を超えているだろうなと目測はつくが、それとは裏腹に、腰や背中は一切曲がっていなかった。

 健康的な姿勢のまま、老婆は游斗へ一歩詰め寄る。

「太陽がどうとか言っとったな?」

「え、ええ、まぁ……?」

 歯切れの悪い返事を返す游斗。困惑の視線を向けてみても、老婆は意に介さず游斗の顔を下から覗き込んだ。

 老婆の眼光が突き刺さる。游斗の喉で唾が音を立てた。

「……ちょっと頼りない気もせんではないな」

「はい?」

 唐突にそう述べた老婆は、ポカンと口を開ける游斗のおでこに指を当てた。

「あんまり(ここ)で考えるでないぞ。考えるなら」

 と、老婆は指を游斗の左胸に移動させると、

「ここで、じゃな」

「……はぁ」

「いいか若いの」

 老婆は一度そこで区切ると、真剣な顔をして游斗と真正面から向き合った。

「現実は、お主が思うよりずっと単純にできておる。頭で考えるより、(こっち)で考えた方が色んなものが見えてくる」

「え、ええと……?」

「ま、すぐにわかるとも思っとらん。頼りないしの」

 さらりと言い放つと、老婆はさて、と背伸びをしながら踵を返す。去り行くその背中に游斗は問いかけた。

「あの……今更なんですけど、どなたですか?」

 老婆が歩を止める。そして半分だけ振り返ると、意味ありげに口角を上げた。

「ワシに質問など早すぎるわ。死んでからにせい」

 老婆はそのまま扉を開け、校舎内へ入っていった。

 再び屋上には游斗一人が立ち尽くす。

「なんだったんだ……」

 昭和の頃は他人の家の子供も容赦なく怒っていたというが、それともまた別物に思える。

 謎の老婆が残した言葉を脳内で繰り返す。頭ではなく、心。

 頼りないと言われながらも、游斗は游斗なりに考えてみる。心で考えられているかは分からないが。

「考えるな、感じろ……ってこと……?」

 屋上には游斗だけだ。当然、独り言に返ってくる返事などない。それ以前に、自身でもピンときていない。

 募るむず痒さに困り果て、体重を手摺にもたれかける。見かけよりずっと頑丈にできているらしく、軋音の一つも立たなかった。

「……ん」

 そのとき、手摺の向こう側に日の光を反射させる小さななにかが落ちていることに気がついた。

 柵の隙間から手を伸ばしてそれを取る。

「ピアス……?」

 それは派手なピアスだった。控えめな人は、少なくとも游斗はつけたいとは思わない、ずいぶん責めたデザインのピアス。

 誰かの落とし物だろう。そう思った游斗がピアスをポケットにしまったとき、扉の中から黒島が現れた。游斗の姿を認めると、少しだけ周辺を見回し、

「……姫永さんは?」

「……一人にさせてほしい、と」

「そうですか……では、今はそうさせてあげましょう」

 と言うと、すぐに足を校内へ向けた。游斗もこれ以上屋上に残る理由はない。黒島の後ろについて行く。

「それにしても、お化けに呪いですか……」

 階段を降りる黒島が溢した。

「若い子は中々に飛躍した発想をするのですね」

「あ、あはは……」

 言葉を返しにくい游斗は笑って誤魔化す。飛躍も何も、実際に存在するのだから仕方ない。少なくとも、お化けの方は。

「吉瀬刑事は、ああいう話が苦手なんですか?」

 三階まで降り、前を行く黒島に問いかけると、「うーむ」と唸る声が返ってきた。

「実は私も今日初めて知りました。吉瀬くんと組んでから、まだ日は浅いんです」

「そうなんですか?」

「ええ、そうなんです……」

 黒島は恥ずかしそうに鼻の頭を掻くと、不意に廊下の真ん中で足を止めた。

「……黒島刑事?」

 背中から游斗が声をかけてみるも反応はない。

「黒島刑事」

 まだ反応はない。黒島の頭が俯き始める。

「黒島刑事ってば」

 游斗が肩を叩く。それでようやく気がついたのか、黒島は振り返ってばつが悪そうな顔をした。

「すみません……ちょっとぼーっとしてしまいました」

「いえ……どうかされました?」

 心配になって游斗が聞く。しかし黒島は、今度は苦笑いをして、

「最近、寝不足気味でして……」

 とだけ弁解すると、再び廊下を歩き始めた。少し気になりながらも游斗は後を追う。

 現場の教室の前には、もう野次馬はほとんどいなくなっていた。先刻のような雑踏に溺れることもなく、黒島と游斗はすんなりと教室に足を踏み入れる。

 そのときだった。

「ふっ、ふざけないでください! 誰がそんなこと認めるものですか!」

 教室の中央でそう怒鳴り声を上げたのは吉瀬だった。彼が睨む先では、髪に白いメッシュを入れた男子生徒が行儀悪く机に腰かけている。先程まではいなかった生徒だ。

 彼は軽い態度で笑うと、煽るように両手を広げた。

「認めるとか認めないとかじゃなくて、そうとしか考えられないじゃないっすか。だってラーメンに毒は入ってなかったんすよね? なら、死んだ歌守ちゃんの怨霊が、あいつを呪い殺そうとしたんすよ」

「バカ言わないでください! お化けなんているわけ――――」

「絶対いない、と証明できるっすか?」

 押し黙る吉瀬の顔が徐々に青ざめていく。

 まだやっているのか、と游斗は落胆の色を隠さず表に出す。周囲の聴衆にも微妙な空気が流れており、間違っても姫永には聞かせられない会話だった。

 一言言ってやろうと游斗が一歩踏み出したとき、行く手を遮るように黒島が手で制した。

 黒島は游斗に一つ頷いてから、余裕綽々といった様子の男子生徒に向く。

「確かにあなたの言う通り、お化けがいないことの証明は難しいかもしれませんね」

 黒島の声で教室中の視線が集まる。その中でも特に、男子生徒は興味の目を黒島に向けていた。

「そっちの刑事さんは話がわかる人っすね。だったら――――」

「ですが」

 黒島は彼が何か言おうとするのを遮って、告げた。

「我々警察の仕事は、科学的・心理的に事件を解決することです。お化けがいるいないに関わらず、私たちはあくまでも現実的な目で捜査をしなければなりません」

「く、黒島さん……!」

 吉瀬が恍惚とした表情で黒島を見上げた。ひざまづいて手まで組み、まるで神様でも崇めているようである。

「そっすか……まあいいっすけど」

 男子生徒は面白くなさそうに机から下りる。そこへ、組川が険しい表情で近づいた。

「ねえ」

「ん?」

「ん、じゃない。お化けがいるなんて本気で思ってるわけ?」

 その声は不機嫌以外の何物でもなかった。男子生徒を鋭く睨み上げる。

 それを受けた男子生徒は「べつにー」と飄々とした態度を取った。

「ちょっとからかってみただけだよ。あの刑事さん、遊び甲斐がありそうだったし。それに、ルカだって同じことして遊んだんでしょ?」

「……変なことしないで。私と勝馬(しょうま)じゃ意味が違うの。勝馬が何かすれば、彼女である私に疑いがかかるかもしれないのよ?」

「大丈夫。だってルカはもう容疑者から外れてるんでしょ?」

「っ、そういう問題じゃ――――」

 と、組川が目を吊り上げたとき、勝馬と呼ばれた男子生徒と游斗の目がばっちり合った。

「お」

 彼は組川をそっちのけに、ニコニコと張り付けたような笑顔を浮かべて游斗の前に立った。

「元小説部部長の、御堂游斗先輩っすよね?」

「……うん、そうだけど」

 困惑と警戒が混ざった表情を返す游斗。自然と肩に力が入る。

 そんなこと知る由もないだろう男子生徒は、無神経にも游斗の手を握りしめた。

「はじめまして。三年の近衛(このえ)勝馬っていいます。俺、先輩のファンなんすよ」

「……ファン?」

 游斗はオウム返しする。近衛は瞳を輝かせた。

「ほら小説部って、文化祭とかで自分たちで書いた小説売ってるじゃないっすか。それで去年、先輩の作品に衝撃を受けたんすよ」

「ああ、そうだね……僕もいくつか売りに出してたけど、どの作品が一番良かった?」

「そっすねぇ……」と近衛は一度虚空を見上げた。「一番はあれっすかね。『猫の骸と白い傘』。レンとマナミの悲しい想いが胸を打つんすよ。相思相愛のはずなのに全然報われなくて、切なくて、健気で、泣けるんすよねぇ」

 頷きながら近衛はより一層強く游斗の手を握る。かなり強い握力である。游斗はほんの少しだけ(まぶた)を歪めた。

「あの……そろそろ離してくれるかな?」

 游斗がそれとなく言うと、近衛は素直に従った。しかし失礼の自覚がないのか、ごめんの一つもなく、手を離してからも基本的な態度は変わらなかった。

 ニコニコ嘘臭い笑顔の近衛の背後から、組川の鋭い視線が突き刺さる。

「……そんな怖い顔しなくてもいいじゃんか」

 笑顔をやめ、振り向きもせずに近衛は声をかける。それが気にくわなかったのか、組川は無言で教室を出ていった。

「……いいの? 彼女なんでしょ?」

 游斗が尋ねると、近衛は再び笑顔を張り付けた。

「いいんすよ。女子と佐々木小次郎は待たせてナンボっすから」

「意味が分からないんだけど」

 唯一わかることは、この近衛勝馬という生徒は胡散臭いということだ。吉瀬や組川との態度の相違が、游斗になんとも言いづらい気持ち悪さを与えていた。

 それを振り払うように手首をスナップさせる。無意識にやったことだったが、まだ手にジンジンとした痛みが残っていたことにはすぐに気がついた。

「力、強いんだね」

 なんとなく聞いてみると、近衛は自らの腕を擦りながら答えた。

「俺、昔っから木登りとか好きでよくやってたんす。登っては落ちて、登っては落ちての繰り返しで……だからかは分からないけど、身体は結構丈夫なんすよ」

「そうなんだ……」

 そうなんすよー、と近衛は適当な椅子に腰かけると、懐かしむように天井を見た。

「子供の頃はしょっちゅう怒られたもんすよ。毎日のように泥だらけになって帰ってくるもんだから、母さんもカンカンで……二人揃ってゲンコツ喰らったこともあったっすね」

「……二人揃って?」

 游斗の方眉がピクリと動く。すると近衛は、待ってましたとばかりに前傾姿勢になった。

「濃見新太。幼馴染みなんすよね、あいつとは」

「お、おさ……!?」

「そ、幼馴染み。だからあいつのこと、結構知ってるっすよ? たとえば……」

 近衛は朝辺、鈴木、陣内の三人を指差す。

 そこではじめて、近衛は笑顔(えがお)を消して、代わりに嗤顔(えがお)を見せた。

「あの三人から金を揺すりとった、とか」

 ピシリ、と空間にヒビが入った。教室が押し黙り、疑惑の視線が一斉に三人に集まった。

「……それは、事実ですか」

 怖い顔をした吉瀬が三人に問いかける。誰も頷きはしなかったが、悔しくもそれが無言の肯定を告げていた。

「……事実なんですね」

「で、でもっ!」

 焦ったような表情で朝辺が叫んだ。

「ほんの少しですよ! 確かに金銭のやり取りはありましたけど、それこそ数百円とかそのくらいで!」

「僕もです。濃見先輩に貸したのは本当に小額で……」

 陣内が弁護するように続ける。横から黒島が問いただした。

「なぜ、そのことを始めに言わなかったのですか?」

「言うほどのことでもないかなと思ったんです。というより、私はお金を貸したことすら忘れてました……それとも」

 鈴木はそこで一度区切ると、逆に疑いの目を刑事に向けた。

「まさか数百円で人を殺すとでも?」

「数百円じゃ殺意は抱かないかもしれないっすねー」

 教室全体に響かせるような、そんな声で近衛が横槍を入れた。集まった耳目にニヒルに笑むと、「でもおかしいなぁ」とわざとらしく三人を向いた。

「あいつ、諭吉を何枚も持ってたんだけどなぁ。本当に数百円程度のやり取りだったんすかねぇ?」

 近衛がそう煽りを入れた瞬間、明らかに三人の顔に動揺が走った。

「本当は、あいつに何万円も搾り取られたんじゃないの?」

「ち、違います!」

 ガタンと椅子が音を立てる。立ち上がった陣内は両手を強く握りしめていた。

「濃見先輩はそんなに悪い人じゃないです! お金は僕がしっかり納得した上で、少しだけ貸したんです! 本当なんです!」

「いーや、あいつはただの不良っすよ。幼馴染みの俺が言うんだから間違いないと思うけど」

「違う! 違うんです!!」

「落ち着けって陣内!」

 今にも暴れだしそうな陣内を、身体の大きな朝辺が押さえ込む。力ずくで椅子に座らせるが、それでも陣内の興奮状態は終わらなかった。

 先程までの大人しそうなイメージからは想像できない、激しい荒くれぶりだった。身体こそ朝辺に押さえられ動かないが、近衛に向けて吐き出される言葉からは彼の必死さが滲み出ていた。

 近衛は困ったなぁ、とでも言いたげに両手を広げると、

「あれじゃないっすか? 被害者が加害者に同情しちゃう……なんとか症候群ってやつ」

 堂々と挑発してみせた。椅子の上で陣内が吼える。

「そんなんじゃないです!! だって先輩は――――!」

「どうしたん、ですか?」

 はたと静まり返る教室。突然現れた声の主、姫永涼乃は、入口で赤い目を以てこちらを見ていた。

「姫永さん……もう、大丈夫なの?」

 游斗が聞く。姫永は僅かに微笑んだ。

「はい。ご心配をお掛けしました」

 一つお辞儀をした姫永は足早に游斗の隣へ座る。

 後からやってきた日向が、浮かない顔をして游斗に近づく……のかと思いきや、中途半端な距離で止まってしまった。

 らしくない。そう感じた游斗がさりげなく目線を送るが、日向からリアクションが来ない。普段の活発さの面影もなかった。

「……どうしたんだろ」

 無意識に口に出る。姫永がおもむろに不思議そうな顔をした。

「何がですか?」

「あ、いや……なんでもない」

 誤魔化しつつも、恐らく原因は姫永にあるのだろうと游斗は薄々気づいていた。一人で大泣きしている姿を傍で見ていれば、日向の気持ちが落ち込むのも無理はない。

「失礼。もう大丈夫なのですか?」

 黒島が静かに姫永へ問いかける。姫永は少し縮こまりながら頷いた。

「そうですか。あまり無理はしないで下さいね」

 穏和にそう述べ、黒島は中年刑事のもとへ行く。その背中を目で追っていた姫永が呟いた。

「なんだか……紳士的な刑事さんですね」

「そうだよね……近くにあんなのがいるから、余計にそう見えるよ」

 声を潜めて游斗が指差したのは吉瀬である。紳士の欠片さえないような刑事は、前触れなく突然游斗を睨み付けた。

「今、私の悪口言いました!?」

「うわっ地獄耳……じゃなかった、ナンノコトですか?」

「とぼけようったって、そうはいきませんよ!」

 どうやら面倒なスイッチを入れてしまったらしい。こっちに突っかかってないで仕事しろ、という游斗の願いなど伝わるはずもなく、吉瀬は游斗にペン先を差し向けた。

「私のことをあんなの呼ばわりしましたね! 確かに黒島さんが紳士なのは認めますが、それとこれとは――――」

「声でかいんですって。あとペン危ない」

「話をそらさない! いいですか、あんなのって言いますけどね、高校時代は結構――――」

「だからペン危ないってば。下ろして」

 游斗が吉瀬の腕を叩くようにして下ろさせる。当然火に油である。

「人の腕叩かないでくださいよ! 常識ないんですか!?」

「……人にペン向けてた人のセリフとは思えない……」

「聞いてますかぁぁぁ!」

「だからうるさいんですってば! もうちょっとボリュームを――――」

 これを『不毛』だとか『無意味』だとか言うのだろう。相も変わらずストレスが溜まるやり取りの中、游斗はふとイタズラ心から(くう)を指差した。

「あ、お化け」

「ひゃいいい!?」

 面白い悲鳴を上げて吉瀬が飛び退く。昭和のギャグ漫画みたいなポージングと見事な顔芸に、游斗は思わず吹き出した。

「だ……騙しましたねぇ!? 偽証罪ですよギショウザイ!!」

 吉瀬が顔を真っ赤にして唾を飛ばす。游斗は今度はその足元に指を差し向けた。

「あ、ゾンビ」

「ぎゃあああぁぁぁ!?」

「ぷっ……くくく……」

 下を向いて姫永が笑いを堪えている。

 勢いづいた游斗は、その指を天井に向けた。

「あ」

「ぬわぁぁぁぁ!?」

 顔面蒼白で腰を抜かした吉瀬に、游斗は精一杯普通に告げた。

「天井がありますね」

「…………御堂さぁぁぁぁぁんっ!!」

 激昂したように叫んだ吉瀬が游斗へ詰め寄る。呼吸は荒く、目の端には水滴が溜まっていた。

「私がっ! お化けっ! 怖いのをっ! 知っててっ! わざとっ! やってるでしょう!」

 所々声を裏返しながら必死に訴えてくる。游斗はにやけつつ、その足元を指差した。

「そこ、お化けいますよ」

「もう騙されるもんですか! 私だって学習するんですよ!」

 屈んで床を叩く吉瀬。だがその場所では、日向が腹を抱えて笑い転げていた。

「あははははっ! あーおっかしい……! 本物がここにいるのに、全然信じてない……あー涙出る……あははは!」

 バンバンと手を叩き、いささか笑いすぎじゃないかというほどに日向は笑い声を響かせている。

「あははは……先輩! もし本当にお化けがいたらどうするか、聞いてみてくださいよ!」

「もしお化けが本当にいたら、どうします?」

 日向の質問をそのまま吉瀬にぶつけると、吉瀬は得意そうに胸を張った。

「そんなの、塩ふって退治するに決まってるじゃないですか!」

 高らかにそう告げると、まだ鑑識班が作業をしている厨房へと踏み入れ、奥にあった塩の小瓶を手に取った。おもむろにその蓋を開ける。

「ちょっと……吉瀬刑事?」

「べ、別にお化けを信じるわけではありませんが……万が一ということもありますもんね! ありますもんね!?」

 誰にしているのか分からない言い訳を叫び散らし、蓋が開いた小瓶を握りしめて大きく振りかぶる。日向が反射的に半身を床に沈めた。

 そして、吉瀬から塩がぶちまけられる瞬間、

「おい」

 その腕を、横から細い腕が掴み止めた。

 若い女性の鑑識官である。髪を真っ赤に染めている小柄な彼女は、もう片方の手で吉瀬のネクタイを掴んで引き寄せた。

「なんのつもりだ? 現場保存は基本だ、知ってんだろ」

「き、基本だけどもし万が一に――――」

「荒らすなっつってんだよ。私の邪魔すんじゃねぇ」

「い、いや、別に晒科(さらしな)さんの邪魔をしようとかそんなつもりじゃ――――」

「あぁん!?」

 弁解しようとした吉瀬が彼女の一睨みで急に口を閉ざす。

「さっきからうるせぇんだよ! 大人しくしてろ!」

 吉瀬から小瓶をひったくると、女性鑑識官――晒科は彼を乱暴に厨房から蹴り出した。

「二度と来んじゃねぇ、ド素人が!」

 そう言い、手近なファイルを投げつける。吉瀬の顔面に当たって跳ね返ったファイルはあらぬ方向へと飛翔した。

「うぐっ……晒科さん、怖い……」

 顔を押さえてうわ言のように呟き、吉瀬はよろよろとした足取りで歩き出す。少し右往左往したかと思うと、吸い込まれるように開け放たれた窓へ上体を乗り出した。

「ちょ、ちょっと!?」

 今にも地上のゴミかごへ落下しそうな吉瀬を、游斗と姫永と他数人で引き戻す。だらんとした吉瀬の身体はとても重かった。

 力業で教室の中に引っ張り込むと、吉瀬を乱暴に床へ放り投げた。決して悪意があってのことではない。丁寧に寝かせるための余力がなかっただけだ。

「ちょっと……大丈夫、ですか……!?」

 放り投げた相手に、息を切らせながら姫永が這い寄る。游斗もヘロヘロになりながらその阿呆面を拝む。

「こ……こわい……さらしなさん……」

 落ちかけて尚、同じうわ言を繰り返す吉瀬に游斗は呆れる。

「怖かったのはこっちですよ……あなたあやうく、ゴミかごに頭から突っ込むところだったんですよ……?」

「あ、でもそういう漫画って面白そうですよね」

「姫永さん、それ今どうでもいい」

 ひどく心臓に悪かった。寿命縮んだかな、でも吉瀬のせいで縮むなんて癪だな、なんてことを思いながら游斗は胸を押さえて息を吐き出す。それを日向が、歯の隙間に何かが詰まったような顔で見下ろしていた。

「……なにさ」

 少しぶっきらぼうに尋ねる。日向は「別に姫ちゃんを否定するつもりはないんですけど……」と前置きした。

「私は……漫画よりアニメの方が好きです!」

 もう少しで「どうでもいいわ!」と大声が游斗の口から吐き出されるところだった。込み上がったツッコミを無理矢理飲み込んで、日向から顔を背ける。

「な、なんで無視するんですか!?」

「突っ込めるわけないでしょ。僕が変な人になる」

「突っ込み? 私なにかボケました!?」

 鬱陶しく視界をうろつく日向を極力見ないようにしていると、足が何かを蹴った。

「ん?」

 見てみるとそれはファイルだった。先程晒科が怒りを込めて吉瀬にヒットさせたものである。感情に任せて投げてしまった感はあるが、きっと大事なものなのだろうということは素人目にも分かる。

「先輩、なんですかそれ?」

「多分そこそこ大事なファイル」

 游斗は|落とし物《多分そこそこ大事なファイル》を拾い、適当なページを開いた。日向と共に紙面を確認する。

 どうやらそれは、ラーメンの検査結果らしかった。ラーメンの具材や材料のリストが並び、どれも『毒物反応なし』となっている。

「先輩、もしかしてこれって……」

「うん。濃見くんが食べたラーメンの、毒物検査の結果……だと思う」

「いえ、濃見さんのだけではありませんよ」

 急に語りかけてきた黒島に、游斗は心臓が飛び出そうな錯覚を覚えた。

 日向との会話――――もとい端から見れば独り言――――を聞かれたかもしれない。そんな心配が頭を過るが、黒島はそれについては何も口にせず、代わりに游斗が持つファイルを横から覗き込んだ。

「濃見さんのラーメンの他に、御堂さんが食べたラーメンの検査結果も書いてあります。もっとも、どちらも異常はありませんでしたが」

「僕の?」

 なぜ、という游斗の疑問が伝わったのか、黒島は游斗と濃見がラーメンを食べていたカウンター席を示した。

「あそこにあったラーメンが二杯ともこぼれていまして。念のため、両方とも調べてもらったんです」

「え、こぼれてました?」

「はい。結構こぼれてましたよ」

 確かにカウンター席には、ひっくり返った丼が二つ見える。しかし游斗には自分のラーメンをこぼした記憶がなかった。

 日向に目で問いかける。すると彼女は、「え!?」と信じられないといった顔をした。

「覚えてないんですか!? 濃見が倒れたとき、色々あってこぼしちゃったじゃないですか!」

「色々って……あまり覚えてないけど……」

「まあ私もパニクってて記憶が曖昧なんですけど……でも、そのとき先輩がラーメンこぼしたのは覚えてます。ほら、その袖」

 と、日向が游斗の袖口を指差す。パッと見ではわからないが、凝視してみると小さなシミが一つついていた。

「多分、ラーメンをこぼしたときについたものじゃないですかね? 比較的、新しそうですし」

「……言われてみれば、そんな気もしてくる」

 指の腹でシミを撫でつつ、游斗は再びファイルへ目を落とした。

 どうやら濃見が注文したものも醤油ラーメンだったらしい。濃見のラーメンと游斗のラーメンに、成分的な相違は見られなかった。もちろん、毒物の有無も含めて。

「ちょっといいっすか?」

 と、突然覗いてきた近衛が、游斗の手からファイルを奪い取った。

「あ、ちょっと……!」

 反射的に腕を伸ばした游斗をひらりとかわし、近衛はそれっぽく数度頷いた。

「なるほど、ホントに毒はなかったんすねぇ」

「ちょっと返してよ……!」

 またしても近衛はなんなく游斗をかわす。だが、ファイルを見て「ん?」と眉を曲げると、何を考えたか素直に游斗にファイルを差し出した。

「これ、ちょっとおかしいっすよ」

「え?」

 一瞬戸惑った表情を見せる游斗。近衛はファイルの一部分を指した。

「ここ。蕎麦粉(そばこ)の成分が書かれてるけど、それっておかしいんすよ」

「どうして? 蕎麦粉を使ったラーメンだったってだけじゃ――――」

「使ってないはずなんすよ、本来なら」

「使ってない? 本来なら?」

 二つのオウム返しを決める游斗。意味のわからなさに首をかしげたとき、ハッとした。

「……もしかして」

 游斗は近衛からファイルを受けとると、それを持って陣内ら容疑者三名のもとへ行った。

「あの、ちょっといいかな?」

「……なんでしょうか」

 浮かない顔で返事をしてくれたのは鈴木だった。陣内は朝辺の隣で俯いており、朝辺も先程に比べて多少暗くなっていた。

「確かこのクラスって、濃見くん家のラーメン屋でラーメン教わったんだよね? で、そこのラーメンを再現したって」

「……ええ、そっすよ。海王軒はこの辺じゃ一番のラーメン屋ですから。具材から何から、あそこの親父さんに教わった通りにやってます」

「じゃあ聞きたいんだけどさ」

 游斗は一度ファイルに目を落としてから、尋ねた。

「ラーメンに、蕎麦粉って使ってる?」

「……そばこ?」

 朝辺はキョトンとする。鈴木と顔を見合わせると、二人ははっきりと首を横に振った。

「いやいや、使うわけないじゃないっすか。そもそも海王軒ですら使ってないのに」

「そうなの?」

「そうですよ。濃見さん蕎麦アレルギーだから店でも使わないんだって、濃見さんのお父さんが言ってました」

 鈴木がそう述べた途端、刑事たちの目が一斉にこちらへ集約した。

「す、鈴木さん……今なんと?」

 刑事の一人が恐る恐るといった様子で尋ねる。鈴木はそれに恐縮しながらも、今一度ゆっくりと喋り始めた。

「だから……濃見さんが蕎麦アレルギーだから、店でも――――」

「ぁんでそれを早く言わなかった!?」

 厨房から響く怒鳴り声に鈴木の肩が跳ねる。

 見れば、晒科が無理矢理カウンター席を乗り越え、鬼の形相でこちらへ迫ってきているところだった。

 彼女は游斗の手からファイルをひったくると、それを鈴木の眼前へ突きつけた。鈴木から小さな悲鳴が漏れる。

「じゃあなんだ? 私らはありもしない毒探してラーメン調べてたってのかよ!? あぁ!?」

「ちょちょちょ、落ち着いて!」

 慌てて游斗が晒科を引き剥がしにかかる。放っておけば鈴木も吉瀬の二の舞になりそうな、そんな恐ろしい剣幕だった。

 だが、小さな身体のどこに力を隠していたのか、晒科は軽々と游斗を振り払ってしまう。そして盛大に音を立てて、ファイルを机に叩きつけた。

「おい……被害者のやつが蕎麦アレルギーだってことは、全員知ってんのか」

 威圧するような問いかけに、三人は無言で頷いた。

「だったら、あのラーメンに蕎麦粉入れたやつ素直に手ェ上げろ」

「蕎麦粉を……入れた?」

「テメーらが作ったラーメンから蕎麦粉が検出されてんだよ。つまり、被害者が倒れたのは毒じゃなくて、蕎麦粉によるアレルギー反応、アナフィラキシーショックが原因だ」

 朝辺も鈴木も、言葉を忘れたかのように押し黙る。濃見が蕎麦を摂取することの危険性を、その反応が物語っていた。

 ファイルをめくりながら晒科は舌打ちする。

「誰だよ最初に毒とかほざいたやつ」

 そっと、全員の視線が一ヵ所に向く。教室の一角で、未だに気絶したままの吉瀬が、未だに姫永に揺さぶられていた。

「んんぅ……ケーキが爆発したぁ……」

「何言ってるんですか。しっかりしてくださいよ」

 姫永が頬をペチペチと叩く。意味不明な寝言を繰り返す吉瀬に、游斗は深いため息が出た。

「……あれ?」

 そこで游斗は、日向がいないことに気がついた。先程まですぐ近くにいて、視界にちらちらと映り込んでいたはずの日向が、どこにも見えないのだ。

 御手洗い、とも考えたがそんなわけはない。死人である日向にトイレの必要はなく、しばらく同居している游斗もそんな場面は見たことがなかった。あってもそれはそれで問題だが。

 どこへ行ったかは分からないが、元々気紛れ気質の日向である。気にしたところで仕方ない。それよりも、と游斗は改めてファイルに目を向けた。

「つまり、僕のラーメンにも濃見くんのラーメンにも、両方ともに蕎麦粉が混入されていたわけですね?」

「そう書いてあんだろうが」

 晒科が不機嫌そうに机に腰かける。眼前に座られた朝辺は少し身を引いた。

「で、その蕎麦粉を入れやがったのがどのガキかってことだよ」

 晒科が三人を順番に睨む。

「誰が入れた? 正直に答えろ。今なら半殺しで許してやる」

「半殺しは認められませんが、私からもお願いします。正直に名乗り出てください。厨房から蕎麦粉が発見されれば、その容器や袋から指紋も取れるはずです」

 重ねて黒島が語りかける。しかし、手をあげる者はいなかった。

 その代わり、横から口を挟む者はいた。

「ちょっといいっすか?」

 近衛が堂々としゃしゃり出る。度胸があるのか、それとも『度胸』という概念がない本物の怖いもの知らずか。どちらにせよ、晒科の気分を害したことは確かなようだった。

「関係ねえガキは引っ込んでろ。業務妨害でしょっぴくぞ」

「それは勘弁っすけど、でも一つ確認したいことがあるんすよ。それだけしたら大人しくしてますから」

 そう言って晒科をかわすと、近衛は両手を合わせて器のような形を作った。それを陣内へ向ける。

「まず陣内くんがスープを入れてから」

 次に手を朝辺へ差し向けた。

「朝辺くんが麺を入れる。そして最後に鈴木さんが具材の盛り付け」

 差し出された手の器に、鈴木は控えめにエアーで盛り付けをして見せる。

 出来上がった(てい)のラーメンを、近衛は游斗の前に置いた。

「で、この蕎麦粉入りラーメンを食べて、濃見新太はポックリ逝ってしまった、と。そういうわけっすよね?」

「だから死んでないってば……」

 游斗は吉瀬に向けるのと同じ顔をする。その後で、

「で、これで合ってるの?」

 と、三人へ向けて問いかけた。

 朝辺と鈴木が一瞬だけアイコンタクトを交わす。そして、「大体合ってます」と二人で頷いた。

「だったら、この時点で容疑者は二人っすね」

 ピッと二本指を立てる近衛。

 はぁ? と晒科が口を動かした。

「どうしてそんなこと言えるんだよ」

「御堂先輩のラーメンにも蕎麦粉が入ってたからっすよ」

 近衛は腕をまっすぐ伸ばして游斗を指差した。

「こいつのラーメンに蕎麦粉が入ってたからなんだってんだよ」

 晒科も腕をまっすぐ伸ばし、游斗を指差した。

「あの……二人して指差すのやめてもらっていいですか?」

 二人は游斗を一瞥すると、渋々といった様子で腕を下げた。なぜ仕方なさげなのか、游斗にはいささか解せない。

 気を取り直して、と近衛が一つ手を叩く。

「犯人からすれば、御堂先輩のラーメンに蕎麦粉を仕込む必要はないはずっす。そうっすよね?」

「……まあ、確かに僕のラーメンにまで蕎麦粉を入れるメリットはないかな」

 游斗が同意する。その隣で黒島が異論を唱えた。

「しかし、全てのラーメンに蕎麦粉が仕込まれていたとしたら? それなら、百パーセントの確率で濃見さんにアナフィラキシーショックを起こせるはずです」

「作るラーメン全部にいちいち蕎麦粉を入れるのは流石に手間っすよ。丼とか割り箸に(あらかじ)め仕込まれてたなら話は別っすけど」

 近衛はチラリと朝辺に目をやる。意思が伝わったらしい朝辺は、左右に首を振った。

「丼に何か仕込むのは難しいと思いますよ。開店の直前に一度洗ってるんで、蕎麦粉なんて余裕で洗い流される。箸の方は分かりませんけど」

「割り箸の可能性もねーよ」

 一枚の書類を煽らせながら、晒科が吐き捨てるように言った。

「被害者が取った箸入れの割り箸は全部調べたが、何も異常はなかった。もちろん他の箸入れも全部調べたが、結果は同じだ。というか、異常があったらすぐに報告してるっての」

 晒科が書類をダルそうに近衛へ渡す。それを見た近衛はニヤリと笑みを浮かべた。

「丼にも箸にも蕎麦粉は仕込まれていない。つまり蕎麦粉が入れられたのは、厨房で彼のラーメンが作られていたときっす。で、この事実ともう一つの事実を合わせると、自ずと容疑者は二人まで絞れるんすよ」

「それって……私たち三人のうち、誰か一人の疑いが晴れるってことですか?」

 鈴木が尋ねると、近衛はパチンと指を鳴らして彼女を指差した。

「そっす。そして、それは君っすよ鈴木さん」

「わ、わたし?」

 自分を指して意外そうな顔をする鈴木。あれ、嬉しくないっすか? と近衛は不思議そうに首を傾げた。

「いえ、ちょっと意外で……何で私なんですか?」

 聞かれた近衛は、立てた指をおもむろに天井へ向けた。

「考えてもみてください。蕎麦粉は濃見のラーメンだけじゃなくて、御堂先輩のラーメンにも入ってたんすよ?」

「あっ」

 と、思わず游斗は声を漏らした。近衛の顔がいやらしく笑む。

「分かったっすか?」

「犯人は、作っていた二つのラーメン両方ともに蕎麦粉を入れた。それは、犯人はどっちのラーメンが濃見くんに渡されるかわからなかったから。鈴木さんは、濃見くんのラーメンに蕎麦粉を仕込むことはできたけど、僕のラーメンに蕎麦粉を仕込むチャンスはなかったんだ」

「ビンゴ! 流石っすね。というわけで」

 近衛は朝辺と陣内にぐいっと顔を近づけた。いやらしい笑みのまま、目だけが異様な輝きを見せていた。

「犯人は君たちのうちのどっちか。早く吐いた方が楽になるっすよ?」

 まるで蛇に睨まれた蛙。陣内はもとより、朝辺も近衛の視線から逃げるように黙り込んでしまう。

 時おり互いを覗き見合う二人。その二人を、面白いものでも見るかのように観察する近衛。悪趣味だ、と游斗は胸の底で思う。

「黙っててもいいことないと思うっすよ? そのうち決定的な証拠も見つかるだろうし」

「……僕じゃ、ないです」

 長いこと口を閉ざしていた陣内が、しばらくぶりに言葉を発した。

「僕は……濃見先輩を殺そうとしたりしません」

「じゃあ犯人は朝辺くんっすね」

 さらりと近衛は告げてしまう。当然、朝辺は全力で否定した。

 このまま否定合戦を繰り返しても、議論は平行線を極めるのみ。どちらが犯人かなど、現状で分かるはずもなかった。

 游斗は頭を抱える。何か新たな証拠でも出れば事態が動くかもしれないと、そんな淡い期待を込めて厨房に目を送った瞬間だった。

 件のカウンター席がガンッと音を立て、箸入れが倒れて机の上に割り箸が散らかった。

「おいっ!!」

 反射の速度で晒科の怒号が飛ぶ。うるさく足音を鳴らした晒科は、席の近くにいた明らかに年上の刑事たちを睨み上げた。

「現場の保存は基本だっつってんだろ! テメーらそれでもプロかよ!?」

「いや、今のは誰も触ってなくて――――」

「触ってないのにあんな音がするわけねぇだろ、タコが!」

 游斗には分からない。

 晒科は若い。恐らくまだルーキーだ。そのルーキーが、目上の者を罵倒し、説教垂れるなどあり得るのか。首は飛ばないのか。

 それとなく黒島に尋ねてみると、

「口の悪さは一級品ですが、鑑識の腕も一級品なんですよ」

 とのことだった。いやいやそれにしても、とは游斗も思うが、実際に現場に呼ばれ、仕事もできてしまっているので仕方ない。

「いたたた……」

 そのとき、音がした机の下から声がする。不審に思った游斗が確かめるよりも早く、声の正体は足元からふわりと浮き上がってきた。

「いやー、久しぶりの痛みです! 懐かしいなぁ……」

 頭にハッキリとたんこぶを作り、恍惚な表情を浮かべる歌守日向を見て、游斗は目を見張った。

「……歌守さん?」

「はいなんでしょー?」

「そのたんこぶ、どうしたの?」

 これのことですか? と日向は自分の頭を指差す。游斗がのっそりと首を二回動かすと、彼女は笑いながら答えた。

「下の教室から上がってきたんですけど……色々と間違えちゃったみたいで、そこの机に真下から激突しちゃいました」

「激突、って……でも君は――――」

「御堂先輩? 誰と話してるんすか?」

 ハッとなって游斗は口をつぐむ。視界の端で不思議そうな顔をする近衛に、瞬時に作り笑いを向けた。

「ううん、なんでもないよ」

「なんかありそうな言い方っすけど?」

「本当になんでもない。ただの独り言だから」

 演技もへったくれもない、ただの取り繕いである。近衛の表情には疑いの色ばかりが増えていく。作り笑いのぎこちなさも、それに比例して増していた。

 二人の視線が均衡する。身長差ゆえに見下ろしていた近衛は、ふとした瞬間にさりげなく肩の力を抜いた。

「ま、別にいいっすけど。天才は変人が多いって言いますもんね」

 誉めてるのか貶してるのか――――恐らく後者ではないかという游斗の予想をよそに、近衛は机の上でファイルをめくった。

「それより、問題は蕎麦粉っすよ」

 ペラペラと、読み飛ばしてすらいないだろうファイルを眺めながら近衛は呟く。

「朝辺くんか陣内くん。もうどっちでもいいんで自首してくれないっすか?」

「は!? 嫌ですよ! やってもないのに!」

 前のめりになりながら朝辺が否定する。その朝辺を、陣内が横目で見つめていた。

「……なんだよ、陣内」

「僕は犯人じゃない……だとすると、朝辺くんが犯人としか考えられない」

 それは、朝辺にとっては予想外の言葉だったのだろう。両目を見開き、そして自らを理解させるように数度頷いた。

「そうか……お前から見れば、容疑者は俺しかいないもんな。でも、それは俺も同じだ。俺から見れば、犯人はお前しかいない」

 怒るわけではなく、聞かせるように朝辺は告げる。それでも陣内の目付きに変化はなかったが。

 近衛はまるで二人の疑り合いを見て、ニコニコと溌剌(はつらつ)な笑みを浮かべている。いい趣味している、と游斗は内心で呟いた。

「あのー先輩、ちょっといいですか?」

「なにさ?」

 近衛への嫌悪感が日向への返事にも漏れる。

 遠慮気味に声をかけてきた日向はちょっと申し訳なさそうに、且つ心底わけがわからなそうな顔をして問うた。

「蕎麦粉? って、何の話ですか?」

「え?」

 今度は游斗が理解に困る。その顔色を見て、日向はさらにわけがわからなそうにした。

「だってこれ、ラーメン殺人事件ですよね? なんで蕎麦が出てくるんです?」

 なぜこうも殺人事件にしたがるのだろう。突っ込むことさえ放棄した游斗は、代わりに真面目に答えを返した。

「濃見くんが倒れたのは蕎麦粉を接種したからだって分かったから。濃見くんと僕のラーメンには蕎麦粉が仕込まれてて、彼は蕎麦アレルギーだった……ってさっきそういう話したよね?」

「あ、そのとき私いなかったかもしれません。ちょっと知り合い見つけて追いかけちゃってたから」

 えへへと笑う日向は、その後宙を見上げて「うーん……蕎麦粉?」と口にした。

「蕎麦粉って、先輩のラーメンにも入ってたって言いましたよね? それって確かですか?」

「うん……鑑識の結果がそう出てる」

「でも、それはおかしいですよ」

「おかしい?」

 日向は一度自らの唇を舌で舐めると、思い出すようにして告げた。

「私が味見したときは、蕎麦粉の味なんてしませんでした」

「…………は?」

 国語と数学の難問を一度に提示されたようだった。

 まず一つ目に、日向の舌は原材料から何からを当てられるほど高性能なのか。二つ目に、蕎麦粉は味でわかるのか。その二重の不可解さを兼ねての「は?」だった。

 しかし、日向は幽霊だ。常識で考えていたら、その存在でつまづいてしまう。

 きっと日向にはできるのだ。游斗は強引にそう思うしかなかった。

「……先輩? どうしました? 難しい顔して」

「……歌守さんの言うことが本当なら、蕎麦粉はどのタイミングで入れられたんだ?」

 顎に手を添え、游斗は考える。日向が食べたときには蕎麦粉はなく、だが後で調べたときには蕎麦粉は検出された。濃見は蕎麦粉を口にしたのだから、游斗も口にしていると考えるのが自然だ。

 日向がラーメンを味わってから游斗がラーメンに口をつけるまで、ほんの一分ほど。その間、何者もラーメンには触れていなかった。

「あ、わかりました!」

 突然日向が叫んだ。自信ありげに腕を高く振り上げると、カウンター席に散らばった割り箸を指差した。

「箸に蕎麦粉が仕込まれて――――」

「それはないよ」

 全て言い終わる前に游斗は否定する。その可能性は先程消えたばかりだった。

「えー、なんでですかー! 私と先輩の間にラーメンに触れたのって、割り箸くらいしかないじゃないですかー!」

 ブーブー文句を垂れる日向を受け流し、游斗はまた別の可能性を模索する。しかし、チラチラと割り箸を指し示す日向が目障りだった。

「だから、割り箸に仕込まれてた可能性は――――」

 と、そこで言葉を止めてしまう。日向が指す割り箸に、少し違和感を感じたのだ。歯が抜けたときのような、何かが物足りない違和感を。

 近くで見てみる。やはり何か足りない。

「先輩?」

 日向が游斗の顔を覗く。その後ろから、顔色の悪い吉瀬が姫永に支えられてやってきた。

「しっかり歩いてください刑事さん……」

「御堂さん……今どういう状況ですか?」

 流石に寝起きでは游斗に突っかかってくる元気もないらしい。珍しく普通の会話ができた吉瀬の質問をスルーし、逆に尋ねた。

「この割り箸って、何もいじってないですよね?」

「え? ……そりゃ、いじるわけないじゃないですか。現場保存は捜査の基本ですよ? あ、でも、鑑識が調べるために一度触ってるとは思いますけど」

「そうですか……」

 游斗は踵を返して廊下へ出て、左右に行き来した。とにかく歩き回った。歩数を稼いだ。

 深く、游斗は思考する。蕎麦粉混入のタイミング、游斗のラーメンにまで蕎麦粉が入れられた理由、割り箸の違和感。

 不意に游斗の足が止まる。フードを被り、目を瞑る。

 静かな情報の海だけだが、游斗の瞼の裏に映っていた。

「……先輩?」

 背中から日向の声がかかる。游斗はしばらく黙ったままでいた。

 やがて、游斗はゆっくりと瞼を開いた。その瞳は、自らの右手の人差し指を見る。

「……そういうことか」

 一言呟いて、游斗はフードを脱ぐ。

「先輩、何かわかったんですね!?」

 ウキウキとした表情で日向が聞いてくる。游斗はそれに、ニヤリと笑って返した。

「うん。これで歯車が噛み合った」


 ☆ ☆ ☆


「とうとう罪を認める気になりましたね御堂さん!」

 吉瀬の復活も早かった。ムカつくほどのしたり顔で指を差し向けてくる。

「私は十年前からあなたが怪しいと思ってました。さあ、観念!」

「未来予知でもしてるんですかあなたは」

 もっとも、その未来予知も大外れだが。

 游斗はただ、「犯人がわかった」と言っただけだ。それをどうすれば自白と解釈できるのか、游斗にはてんで分からない。

 日向も日向で、吉瀬とは違う意味で自信ありの態度を見せている。胸を張って、ふんすとふんぞり返った。

「大丈夫ですよ先輩! 先輩には犯行は無理です! ずっと近くで見ていた私が証人ですよ!」

 幽霊がいることをどうやって証明するんだよ、と游斗は頭を抱える。以前のように雷を落とされるのだけはごめんこうむりたかった。

 そんなことせずとも、游斗の手元にはすでに推理の材料が十分揃っている。

 溜め息しながら椅子に腰を下ろす。一度教室の人間を見回した。

「念のため言っておきますけど、僕は犯人じゃないです。それを踏まえた上で、僕の推理を聞いてもらえますか?」

 誰も何も言わない。沈黙はイエスなり、と受け取り、游斗は淡々と語り出した。

「まずこの事件最大の謎は、どのタイミングでラーメンに蕎麦粉が入れられたかです。それも、僕と濃見くん、二つのラーメンに」

「それが解ければ自ずと犯人も解るっすよね」

 緊張の面持ちでいる朝辺と陣内になぶるような視線を向けて、近衛は口許を笑わせる。そして、その不快な表情で游斗に問うた。

「で、犯人はどっちなんすか?」

「その前に、一つ確認したいことがあるんだ。晒科さん」

 名前を呼ばれた彼女は返事はせず、代わりに無愛想な面をくいと游斗の方へ向けた。

 游斗は濃見がいた席に散らばっている割り箸を指差した。

「あの割り箸から、変わったものは検出されましたか?」

「はぁ? どれも異常はなかったってさっきも言っただろうがよ。ちゃんと聞いてんのかオメーは」

 どうやら機嫌を損ねたらしく、晒科はふいとそっぽを向いてしまった。

 だが、これで游斗の推理はほぼ確実なものとなった。自然と口角があがるのが自覚できた。

「順を追って説明します。犯人は、濃見くんがこの模擬店に来ることを利用して、彼の殺害計画を企てた。蕎麦アレルギーである彼のラーメンに蕎麦粉を仕込むいった方法で。その計画をスムーズに進めるためには、まず濃見くんにカウンター席に座ってもらう必要があった」

「なぜ、そのような必要が?」

 黒島が聞く。游斗はカウンター席の割り箸を一膳手に取った。

「カウンター席にある割り箸を使ってもらうためです。恐らく、蕎麦粉は割り箸に仕込まれていたのでしょう」

「ちょ、ちょっと待ってください! 御堂さん! その可能性は先程否定されたばかりですよっ!」

 ここぞとばかりに吉瀬が胸を広げて声高々と言い上げる。鬼の首を取ったように威張るが、吉瀬などに討ち取られる游斗ではなかった。

「濃見くんが倒れたとき、混乱に紛れて予備の割り箸とすり替えられていたら?」

「そう、すり替えられていたんですっ! …………え、すり替えられた?」

 目を白黒させる吉瀬に、游斗は持った割り箸で割り箸を指した。

「つまり今ここにある割り箸は全部、事件が起きた直後に行われた隠蔽工作なんですよ」

 空気が張った。見渡せば数人が息を呑んで目を見開いていた。游斗は続ける。

「もちろん根拠もあります。僕はラーメンを食べるとき、割り箸のトゲでこの指を怪我しました。その際――――」

「え、御堂先輩ケガしてたんですか?」

 見せた人差し指に食い入るように姫永が寄ってくる。

「大丈夫ですか? この傷だと血も結構出たと思うんですけど……」

「う、うん。でも意外と大した出血じゃなかったし、そんなに――――」

「気を付けてくださいよ? 私絆創膏持ってます」

「あ、いや、もう止まってるし大丈夫だよ? それより推理が――――」

「ダメですよ! 傷口からは細菌が入り込むんです。しっかり保護しないと!」

「わかった、わかったから! だから推理に戻らせて!?」

 姫永から貰った可愛らしい絆創膏を人差し指に巻きながら、游斗はどこまで話したかと記憶を辿る。

「えっと……そうだ。怪我したとき、割り箸をいくつか血で汚してしまったんです。なのにこの割り箸には、血がついたものが一つとしてない」

「なるほど。だから最初に私に聞いたわけか。割り箸に変なものなかったか、って」

 府に落ちたように晒科がファイルをめくる。

「それなら両方のラーメンから蕎麦粉が検出されたのも不自然じゃない。被害者だけでなく、その探偵モドキも同じ割り箸を使ったからな。カウンターは広くねぇし、箸入れが一つでもおかしくない……でも、もし被害者がテーブル席に座ったらどうするつもりだったんだ? まさか、テーブル席の割り箸まで全部仕込み済みだったとか言わねぇよな?」

「もちろん、あの短時間でテーブル席の割り箸まで全部すり替えるのは難しい。はじめから蕎麦粉はカウンター席の箸入れの割り箸にしか仕込んでなかったんでしょう。だからこそ犯人は、濃見くんがカウンターに座りやすくなる工夫を講じていたと思います」

「工夫だぁ?」

「たとえば、一人で来るように前もって言っておいたとか。連れがいると、テーブル席に座られる可能性が高まりますから。あとは、あなただけにラーメン割引きしたいからカウンターに来て、などと囁いておくのも効果的でしょう」

 ヒュー、と口笛が吹かれた。近衛がわざとらしく手を叩いた。

「すごいっすね先輩。まさかそんなところまで推理できちゃうなんて。そこまでわかってるなら、もちろん犯人もわかってるんすよね?」

 近衛が目で三人を示す。彼にリードされるのは癪だったが、游斗は渋々と頷いた。一歩前に踏み出す。

「この計画は、(あらかじ)め割り箸に蕎麦粉を仕込んでおく必要がある。そのチャンスがあったのは一人しかいません」

 すっと腕を上げ、絆創膏が巻かれた人差し指で犯人を指差した。

「犯人は君だよね……鈴木さん」

「…………私、ですか?」

 心外そうな顔をする鈴木に、游斗は首を縦に振る。

「割り箸を用意したのは君だったはずだよ。言っていたよね? 割り箸は軽くて、持ってくるのが楽だったって。それに、盛り付けを担当していた君は、出来上がったラーメンを濃見くんに直接手渡せる。その立場を利用すれば、誰にも怪しまれずに割引き代金を受け取ることもできる」

「……まさか、それだけで私が犯人だと言うんですか?」

 鈴木の言い方に、はじめて怒気がこもった。顔色こそ努めて冷静にしているようだが、その裏はどうなっているかわからない。内心穏やかではないことは明白だった。

「割り箸なんて、他の誰かがこっそり用意したものかもしれないじゃないですか。代金だって、そんな事実はありません」

 すっと腰を上げ、目にも力が入れられる。有無を言わせない。そんな力強い眼差しの先で、游斗はふうっと息を吐いた。

「……すり替えられた蕎麦粉入りの割り箸って、いったいどこにあるんだろうね」

「……は?」

 鈴木からすっとんきょうな声が漏れた。力強さがすとんと抜け落ちような、阿呆な声が。

「事件が起きてから警察が来るまで、誰もこの教室を出ていない。なら、割り箸だって教室のどこかに隠してあるはず。ゴミ箱に捨てるのは些かリスキーだ。僕が犯人だったら、ポケットとか自分の鞄の中とかに隠すかな」

 それを聞いて、刑事たちが無言でアイコンタクトを交わす。怖い顔で鈴木と鈴木の手荷物に近付くと、「よろしいですか?」とドスの効いた声で言った。

「ええ、いいですよ」

 驚くほど軽く、鈴木はそれを快諾した。先程までの焦燥が嘘のような晴れやかな顔をして、ロッカーから取り出した鞄を刑事に差し出した。

「どうぞ調べてください。身体検査も拒みません」

 鈴木はそう堂々と言い切った。そこには不安も焦りもない。隠したい後ろめたさが、何もないように見えた。

「先輩どうするんですか!? あれ絶対外れてますよ!!」

 慌て顔の日向が耳元で叫んでくる。うるさくて耳を塞いだ。

 たちまち不安は游斗に訪れる。はったりなんかじゃない。あまりにも大胆なその行動は、游斗の勢いづいていた推理を止めるには充分な力を持っていた。

 鈴木の自信ありげな瞳が游斗の冷や汗を誘う。鞄にもポケットにも何もない。鈴木の態度がそれを証明している。

 鈴木が犯人なのは間違いない。蕎麦粉を濃見の口に入れた方法も分かっている。だが、最後の最後で游斗は失態を犯した。

 敗北感が、游斗の全身にずしりと重くのしかかった。

「なるほど。御堂先輩は証拠を鞄やポケットに隠そうとするんすね」

 場違いに能天気な声が響いた。游斗が顔を上げると、机の上で足を組んだ近衛勝馬がニヤニヤと不適な笑みを浮かべていた。

 彼の軽い態度は教室の重苦しい空気を外へ追いやり、瞬時に自分を中心にした世界を造り上げてしまっていた。

「じゃあもし先輩が犯人になったら、そこを探せばいいってわけっすか」

「ふざけないでよ……僕は犯罪を犯す気なんてない」

 怒気を孕んだ瞳を向ける。近衛は演技っぽく震え上がり、演技っぽくお愛想笑いをした。

「これは失礼したっすね。お詫びに、俺が犯人ならならどこに証拠を隠すかカミングアウトするっす」

「カミングアウト……?」

 上手く飲み込めない言葉に游斗は苦い顔をする。

 机から下りた近衛は髪のメッシュ部分を指で二、三度撫でると、優雅な動作で窓際に立った。

 そして、立てた親指を下へ向けた。

「ここっす。俺なら、ここから外のゴミかごに投げ捨てます」

 ざわり。確かに空気がさざめいた。

「ちょっとごめん!」

 游斗は近衛を退けて窓から下を覗く。かごがいっぱいになるほどの数のごみ袋が入れられ、入りきらずに溢れているものも確認できる。きっと、あの中のどれかに割り箸が入っているのだろう。

 振り返ると、鈴木の顔から余裕が消えていた。目付きは敵を見るそれのように険しくなり、こころなしか顎も引かれている。

 それは誰が見ても図星の反応だった。若い刑事が一人、教室を飛び出していく。

 壁に寄りかかった近衛は、得意そうに鼻を鳴らした。

「割り箸から蕎麦粉と御堂先輩の血液が検出されれば、それが動かぬ証拠ってやつになるっす。ついでに、袋からは君の指紋も取れるはずっすよ?」

 近衛が悠長にすればするほど、鈴木に焦燥の色が浮かぶ。小刻みに震え出し、点々と汗も見え始めた。

「ジ・エンドっすね」

 近衛が口にする。同時に、糸が切れた人形のように、よろよろと鈴木が床にへたりこんだ。

「鈴木……本当なのか……?」

 朝辺が恐る恐る尋ねる。鈴木の頭がほんのわずか下に傾いた。

「なんでそんなこと――――」

「そりゃもちろん、金を揺すられてたからっすよね?」

 横から近衛が口を挟む。陣内の目付きがきつくなったのも気にせず、笑顔で鈴木の傍らにしゃがみこんだ。

 それに対する鈴木の答えは、ノーだった。

「私が数百円しか貸してないのは……本当です」

「……はあ?」

 ポカンと口を開け、近衛がアホな顔を見せる。

「どういうことっすか? 君は、動機もなしに人を殺そうとしたんすか?」

「いえ……!」

 動機もなしに、という言葉に鈴木は強く反応した。俯いて全てを受け入れていたものが、そこだけは譲れぬといった様子で近衛を睨みあげた。

「お金以外の動機、ってこと?」と陣内が問うた。鈴木は頷く代わりに、ある人物へ視線を向けた。

 姫永だった。姫永に、まるで我が子を見るような目を向けていた。

「……わ、わたし、ですか?」

 ぎこちなく自分を指差す姫永。鈴木は最初に「ごめんね」と呟くと、淡々と語り始めた。

「私、見ちゃったの。屋上で、姫永さんが濃見さんにお金を――――お札を何枚も渡してるところを」

「…………ええっ!?」

 と声を上げたのは日向だった。信じられないという目で姫永を見ている。

「姫ちゃん……どうして!?」

「どうして、って思ってる人がいるかもしれないっすね。たとえば、陣内くんとか?」

 日向の叫びを当てつつ、近衛は背後の陣内を見る。近衛の予想通り、陣内の顔は驚愕の色に染まりきっていた。

「ほら、こんな感じに」

 近衛は憔悴の陣内を示して言う。

 少し伏し目がちにしながら、鈴木は小さな声で告げる。

「……陣内くんは嘘だって思うかもしれないけど、本当なの。濃見さんは、姫永さんからお金を揺すってたの」

「……見てたんですか」

 姫永が呟いたその言葉は、暗に鈴木の証言を裏付けた。陣内の瞳が目一杯開く。

「…………嘘だ。先輩が……先輩がそんなこと――――」

「これが現実なんすよ」

 近衛は普通に告げた。これ以上ないほど普通に、即ち、ひどく残酷に告げた。

「濃見新太は後輩の女の子からカツアゲしてた。これが真実なんすよ」

 陣内の顔から血が引き、青く染まっていくのがわかる。必死に真実を拒もうとしている。

「う、うそだ……ぜったいに、うそだ……」

「だから、嘘じゃないんすって。ここに被害者がいるじゃないっすか。ね、姫永ちゃん?」

 近衛が姫永へ目を配る。姫永は一瞬、状況を確認するように眼球だけで辺りを見回すと、控えめに小さく首を振った。

「いえ、違います」

「……違う?」

「私、カツアゲなんてされてないです」

 一瞬の静寂の後、近衛がふんと鼻で笑った。

「何言ってるんすか? あいつの財布には万札がいくつもあって、鈴木さんは君があいつに金渡すところを見てるんすよ? 状況証拠は揃ってるんすよ?」

 状況証拠、などとそれらしい単語を吐きながら両手を広げ、近衛は姫永にぐいと詰め寄った。

 その圧力から逃げるように姫永は游斗の背中に回る。そこで僅かだけ口を動かして呟いた。

「それ多分、両替したときです」

「……りょう、がえ?」

 ボーッと、まるで上の空のように鈴木が反芻する。

 申し訳なさそうに姫永が頷いた。

「私がお願いしたんです。ちょっと小銭が足りなくて……」

 すみませんと頭を下げる姫永。それを見る鈴木の瞳が小刻みに揺れていた。

「……ただの両替? ほんとうに?」

「……はい」

「じゃあ……私がしたことは……?」

「……すみませんでした」

 再び姫永は深々と頭を下げる。長く続けた謝罪はやがて、鈴木の目から一滴の涙を誘った。

「でもどうしてもわからないんすよねぇ」

 近衛が首をかしげた。へたりこむ鈴木の横に座り込むと、腕を組んで考える姿勢を取った。

「どうして君が、姫永ちゃんのためにこんなことをしたのかが」

「…………え」

「だってそうでしょ? 自分に害が及んでるならまだしも、自分とは関係ない他人に及んでいる害を排除するためにこんなこと、普通はしないっすよ?」

 近衛が鈴木の表情を覗き込む。その不愉快な好奇心から逃げるように、鈴木は首をそっぽに向けた。その際、僅かに頬が紅くなっているように游斗には見えた。

「……吉瀬刑事」

 游斗は吉瀬に、早く鈴木を連れていけ、と目で指示した。彼は反抗の態度を見せかけたが、黒島がいち早く鈴木の肩を叩いたのを見ると、素直に上司の行動に賛同した。泣き顔で頷いた鈴木の片脇を持つと、エスコートするように教室を出ていった。

「……近衛くん、ちょっといいかな」

 游斗は近衛に耳打ちすると、そっと教室を出て屋上へ行った。まもなく夕暮れになりそうな空の下、後ろからは近衛だけがついてくる。

「いやぁ、さすが御堂先輩っすね。見事な推理でした」

「……嫌な性格してるよね」

 射抜くような眼差しで近衛を見やる。彼は爽やかな笑顔を崩さず、小首をかしげた。

「なんのことっすか?」

「しらばっくれちゃってさ。鈴木さんがどうして姫永さんを助けるようなことしたのか、本当は分かってるよね?」

「……さあ、どうっすかね」

「ふざけないで」

 近衛の眼前まで詰め寄り、静かに彼を睨み上げる。

「気づいてるよね? 彼女が行動に出た本当の理由!」

「悪いっすけど、人の色恋沙汰に口出しする気はないんで」

「……よく言うよ。あんな状況下で、彼女の気持ちをバラそうとしたくせに」

 胸の奥で炎が燃える。もし自分が蒸気機関車なら目の前のこの男の顔に黒い煙を吐き出し、突進していたであろう。冷静さを保つことがこれほど難しいのかと、游斗は初めて知った。

「濃見くんは姫永さんのことをよく知ってそうな口振りだった。濃見くんが倒れたとき、姫永さんはすぐに取り乱した。二人の仲がいいのは明らかだ」

 游斗はポケットから拾ったピアスを取り出した。

「姫永さんは感情が高ぶって教室を飛び出したとき、真っ先に屋上に向かった。そして、屋上にはこれが落ちていた。恐らく濃見くんのものだ」

「なるほど。確かにそんな派手なピアスつけてるの、学校関係者の中じゃあいつしかしないっすね……それで?」

 挑発するような近衛の視線に耐え、游斗は続ける。

「二人は頻繁にこの屋上で会っていたんだ。目的は恐らく、金銭的なやり取り」

「金銭的?」

「ただの両替で、濃見くんの財布に一万円札がいくつも生まれるわけがない。理由は分からないけど、姫永さんは濃見くんにお金を渡していたんだよ。そして、その現場を鈴木さんが目撃した」

「で、揺すられてる姫永ちゃんを助けようと、濃見殺害計画を企てたと……やっぱりちょっと突飛じゃないっすかね?」

 わかっているくせに、どこまででも惚ける近衛に游斗は嫌悪感を隠さない。「突飛じゃない!」と叫ぶと、荒っぽい回れ右をした。

「姫永さんにとって、屋上で濃見くんと会うのは苦じゃなかったんだ! むしろ楽しかったかもしれない。なんの目的かは知らないけど、嫌々お金を渡していたとは思えない。きっと鈴木さんもそれはわかってたはずだよ」

「つまり?」

「……嫉妬だよ。鈴木さんは、仲のいい二人を見て嫉妬して、お金のやり取りを見て混乱した。それが、彼女が犯行に走った本当の理由だと僕は思う」

 背中を向けたまま游斗は告げた。風の音だけが妙に耳についた。

「本当にそうっすかねぇ?」

 独り言のように呟いた近衛が壁にもたれかかる。

「それは全部、御堂先輩の推測っすよね? いくら憧れの先輩でも、根拠のない推測は支持できないっすよ」

「僕の推測じゃない。僕たちの推測。そうだろう?」

 射抜くような眼差しで近衛を見やる。彼は爽やかな笑顔を崩さず、踵を返した。

「さあ、どうっすかね?」

 扉の中へ消えていく近衛を見送り、游斗はその場に座り込む。そして辺りに声を響かせた。

「いるんでしょ。出てきなよ」

 目の前にスーっと上がってきた日向は、沈んだ表情をしていた。

「聞いてたんでしょ?」

 游斗が聞くと日向はコクリと首を動かした。やっぱり、と游斗は息を吐く。

「どうして姫永さんが濃見くんと関わっていたのか、気になる?」

「………………きになります」

 日向は僅かに聞き取れるほどの声で呟いた。

「私が死んでから、姫ちゃんに何があったのか……知りたいんです。私は、知らなきゃならないんです」

 風が強く吹いた。日向の髪も、制服のスカートも揺れはしない。しかし、日向が顔を上げたとき、確かにどちらも僅かに揺れた。

「……姫永さんが彼にお金を渡す理由、心当たりある?」

 日向は首を振る。

「いいえ全く……だから余計に不安です……そもそも、二人の関係性ってなんなんでしょう……? はっ、まさか付き合ってるとか!?」

「それはないと思うよ」

 立ち上がって游斗はズボンを二、三度叩く。それから真っ直ぐ扉に足を向けた。

「濃見くんは、僕が姫永さんに気があると早とちりして『恋なら応援する』って言ってた。とても付き合ってる人の発言とは思えないでしょ?」

「まあ、確かにそうですね……って、どこ行くんですか?」

 扉の正面で立ち止まった游斗は、小さく唸りながら空を見上げた。

「病院……って言いたいところだけど、まだ濃見くんの意識は戻ってないだろうし、話は聞けないよなぁ……」

 かといって、姫永に聞けることでもない。どうしようかと思案に耽っていると、日向が空を泳いだ。

「じゃあ先輩、ちょっとお願い聞いてもらえますか?」

「お願い?」

 游斗の目線の高さまで降りた日向は、珍しく神妙な面持ちを見せた。

 らしくない。そんな游斗の疑問など意に介さず、暮れ始めた空の下、日向は真剣な目を変えずに告げた。

「一緒に来てほしい場所があるんです」

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