第四章 六(一)
飛竜の背に立ち、レオアリスは眼下を見渡した。
深い森の中に、ぽっかりと白く開けたその場所。たった一度、訪れただけの、心の奥深くに宿る場所。
レオアリスにとっての、全ての始まりの土地だ。
その廃墟の中心に、既に見知った剣の気配がある。
追憶よりも、思慕よりも、その事が今のレオアリスの中を大きく占めていた。
吹き付ける雪に黒い髪を巻き上げながら、その一点だけを睨む。
「ロットバルト、お前は村で待て」
バインドを倒すには、全力を以て当たらなければ難しいだろう。周囲への影響は考慮しきれない。
「……いえ。見届けるのも私の役割です。私に関してはお気遣いなく。まあ私も命は惜しい、安全圏は見極めますよ」
ロットバルトらしい言い草に、レオアリスは視線だけを背後に向け苦笑を洩らした。
結果がどうあれ、王都への報告は必要だろう。
「損な役回りだな」
「お陰さまで」
皮肉めいた口調を返すと、レオアリスはもう一度笑った。左腕を胸に充て、ロットバルトが深く頭を下げる。
「――ご武運を」
一度だけ頷き、レオアリスは飛竜の背を蹴った。
鳩尾に当てた右手が、ずぶりと手首まで埋まる。
青白い光が零れ、地上に落ちていく雪に反射し拡散しながら大気を染めていく。
剣を抜き放つと同時に、雪を巻き地上へと降り立った。
廃墟に腰掛けていた男が風に揺れる柳のように立ち上がる。
青白く光を纏うレオアリスの剣に呼応するように、バインドの左腕が赤く光を宿す。
艶の失せた黒い前髪の奥で、バインドの瞳が愉悦の色を浮かべた。
「随分と待たせるじゃないか、近衛師団大将。王に敵するものを迅速に排除する。それが近衛師団の本分だろう」
レオアリスは無言のまま、バインドに向って歩を進める。
バインドはまるで、レオアリスが自分の元へ来るのを待ち構えるように動こうとはしない。
二人の間には雪が薄い幕を掛けている。
一歩進むごとに、白い幕は薄くなり、互いの輪郭を浮き上がらせていく。
「師団は居心地がいいか? そうだろうなぁ。……思う存分、切り刻める」
「……俺は、お前とは違う」
「違う? クク、違わないさ。剣士の本分は戦う事だ。それ以外はどうだっていい。敵を切り刻む事こそが、剣士の存在意義だ。
俺は時に、この意識すら鬱陶しいよ」
低く這うように、冥い嗤い声が響く。光を吸い込んで閉ざした闇色の瞳が、レオアリスをひたと捉える。
「お前は剣士だ。それは変えられない」
「お前に言われるまでもない」
剣の間合い、その少し手前で、レオアリスは足を止めた。
バインドが肩を竦める。
「つれないな。俺は常に、お前の事を考えていたのになぁ」
射るような視線を感じながら、バインドは腕の欠けた右肩を撫ぜた。
「十七年前のあの時から、片時も忘れた事など無かったよ」
そこに宿り続ける痛み。
戦いへの、それは悦びだ。
じわり、とバインドの左腕が紅く光を増した。
肘から先の骨が盛り上がり、軋む音を立てながら、次第に炎を纏う長剣へと姿を変えていく。
バインドへと降り掛かる雪が、その身体に届く前に溶けて消える。
「夢にまで見た。腕が疼く度に、どう切り刻んでやろうかと、そればかりを考えていた。――お前が師団にいると知った時の、俺の喜びが分かるか?」
レオアリスは無言のまま、バインドに視線を据えた。バインドの口元の笑みが、更に深く吊り上がる。
「これでこの痛みを満足させてやれる。しかも、師団? 最高の舞台じゃないか、なぁ?」
剣を伝って零れた焔が、雪の上に滴った。
バインドとレオアリス、互いの剣が同時に振り抜かれる。
雪を蹴立てて走った剣風が中央でぶつかり、弾ける。轟音と共に衝撃が大地を穿ち捲り上げた。
それを合図に、二人の足が雪面を蹴る。
雷光と紅煉、対照的な二つの閃光が尾を引いてぶつかる。
鍔元を打ち合わせ、刃の向うの瞳を覗き込んだ。
ロットバルトは廃墟を望む張り出した山肌の上に飛竜を降ろした。
十分に距離を取ったその場所にまで、二人の剣士が放つ圧迫されるような波動が伝わる。
こうした離れた場所からでなければ、剣筋を眼で追い切る事すら難しい。
どちらに分があるのか、眼下に広がる戦場は、全くの互角だ。
(まだ双方とも力を抑えている状態だろう。ただ)
バインドの剣に些かの躊躇いもないのに比べ、レオアリスの剣はどこか迷うように見える。
経緯を知っているが故の杞憂に過ぎないかもしれないが、おそらくそれこそがこの戦いの最大の懸念だ。
『俺は、狂うと思うか?』
レオアリスがそれを消化出来たのかは、今朝の彼の様子からは判断が付きかねた。
ハヤテが不安そうに喉を鳴らす。それを宥める為に片手を飛竜の首に置き、ロットバルトは戦場へ視線を向けた。