第三章 七(三)
広大な広間には、扉から深緑の絨毯が最奥の玉座へと真直ぐに敷かれ、その左右には一抱えもある柱が等間隔に並び高い天井を支えている。
定例の謁見の際などには、その奥にずらりと諸侯が控えるが、今はそこには誰の姿もない。
レオアリスは足音を吸収する絨毯の上を玉座へと進んだ。
一段高く造られた玉座へと昇る階段の前に、左右に分かれて立つ四つの影がある。それを認め、グランスレイは小さく息を呑んだ。
四大公――ベール、ベルゼビア、ルシファー、アスタロト。
(定例の謁見ではないのに、彼等が顔を揃えるとは……)
「王に対して僅かなりと翻意が見えれば、いつでも討てるように」
グランスレイの思考を読んだかのように、ベルゼビアが低く忍び笑う。
「そう見えるか?」
向けられた身を凍らす冷たい瞳に、グランスレイは心臓を掴まれるような感覚に陥った。
ベルゼビアは四大公の中で、最も冷酷な男だ。冗談めかしてはいるが、もしレオアリスの上にそれを見たと思えば、躊躇いも無く手を下すだろう。
傍らのレオアリスをちらりと見たが、レオアリスは彼等へ真っ直ぐに顔を向けたままだ。
「東方公、それ言うだけ無駄って判ると思うけど」
アスタロトの呆れた声がその場の緊張を溶かし、グランスレイは漸く息を吐いた。
アスタロトの横に立っていたルシファーが穏やかな笑みを二人に向ける。
波打つ漆黒の髪を首の辺りで短く揃え、暁の空のような紫の瞳を持った、アスタロトとはまた違う透明な美しさを持つ女性だ。
「そう構える事はないわ。レオアリスが王都に来た時こうして迎えたように、今この場を見届ける為にいるだけ。そして我々が、この場の証人となる」
レオアリスは彼等の前まで行くと、その前に片膝を付き、深く頭を下げた。壇上の玉座は、今はまだ空のままだ。
鼓動の音が響くように感じられる程の静寂の中、ベールが低く告げた。
「御前だ」
一斉に四人の公爵が片膝を付く。
微かな衣擦れと共に玉座の背後の長布が左右に開き、その奥の扉から、アヴァロンを伴って王が姿を現した。
一度その場を睥睨し、玉座へゆったりと身を預ける。
広間が、王の力に満たされ張り詰めていく。四大公すら、その空気に僅かに身を震わせた。
王が玉座へと着いたのを確認し、ベールは顔を上げ、レオアリスへと視線を向けた。
「直接の口上を認める」
跪いたまま、レオアリスは頭を下げた。
「近衛師団第一大隊大将レオアリス、御前での拝謁を賜り、恐悦に存じます」
「バインド、か」
伏せていた瞳を上げると、王はレオアリスの上に金色の瞳を投げた。
低く流れる声に、レオアリスは一層深く頭を垂れる。
「畏れながら申し上げます。バインドが向かったと思われるのは、北の辺境です。本来管轄でない事は十分承知の上です。――第一大隊に、バインド討伐のご命令を」
四大公がそれぞれ、僅かに視線を交わす。
「面を上げよ」
王の言葉に、レオアリスは伏せていた上半身を起こし、壇上の玉座に座す王に視線を向けた。
身を覆い尽くす、強大な力の波動。それはこの広間の隅々にまで余すところ無く満ちている。
心地良さと畏怖とが、跪いたレオアリスを覆う。
「……そなたはバインドについて、どこまでを聞いた」
「――私自身に、関わる事を」
グランスレイには、自分の鼓動の音が、広間に割れ鐘の如く響き渡るように思える。
長い間、誰も何も言おうとせず、その時間は永遠のようにも感じられた。
王は玉座の肘置きについた右腕に頭を預け、暫らくその瞳をレオアリスの上に注いでいたが、やがてゆっくりと口を開いた。
「近衛師団を動かす許可は与えられん」
その場の全員が、呪縛を解かれたかのように、身じろぎをして王に顔を向ける。
視線を落とし言葉を失ったレオアリスを見て、グランスレイは思わず伏せていた顔を上げた。
だがグランスレイが口を開こうとする前に、アスタロトが壇上をきっと見上げる。
「何故です!? レオアリスが離反すると、そう思ってるなら」
王の元に詰め寄らんばかりのアスタロトの肩を、ルシファーがやんわりと押さえる。
王は彼等の驚きや戸惑いを前に、低く笑った。
「勘違いをするな。バインドを相手に軍を動かす事は、無意味だと言っておるのだ。それはそなた達も良く判っていよう」
玉座の背に預けていた体を起こす。ゆらりと、広間全体の空気が揺らいだ。
「剣士レオアリス」
弾かれるようにレオアリスは顔を上げた。
「バインド討伐はそなた自身に命じよう。見事打ち倒し、我が前に戻れ」
一度だけ、大きく瞳を見開き、レオアリスは深く頭を下げた。
暗紅色の長布を翻して王が玉座を立つ。
全員が首を垂れ見送る中、玉座の背後の扉の前で、王はふと足を止めた。
「――まだ、そなたは全てを聞いてはおるまい」
訝しげに王を見上げるレオアリスに、深い金色の瞳を注ぐ。
その瞳の中に読み取れる感情は無い。
「そなたの養い親に会うといい」
問いかける間もなく、王の姿は扉の奥へ消えた。