第三章 三(二)
レオアリスの椅子の背に残された士官服の上衣を眺め、これがなければ少し肌寒いだろうと、グランスレイはそんな事を考えた。
初めて彼が近衛師団に配属された時、グランスレイは第一大隊の左軍中将だった。
今とは逆の立場にあり、レオアリスはまだ十五にも満たない年齢で、今よりもずっと幼さを残していた。
剣士と聞いて不安を覚えなかった訳ではない。だが王が決めた事、何か深い思慮があるのだろうと、そう納得していた。
最初に配属された小隊にはあまり長くはいなかったはずだ。彼の能力がその中では上手く機能しなかった為だ。
強すぎる力は個よりも隊の連携を重んじる小隊には向かず、数日も経たない内に、当時揮下の少将であったフレイザーが相談を上げてきた。
王から預かった以上、彼をそのままにしておく訳にはいかないと考えたのだろう。
「あまりに力の差がありすぎます。このままでは、剣士である事が強調され、周囲から浮き上がるばかりです」
「皆と同じ剣を使うようにすればいい」
フレイザーは問題にならないと言わんばかりに肩を竦めた。
「無駄ですわ。すぐに折れてしまう。負荷に耐えられないのでしょう」
フレイザーは判断を仰ぐようにグランスレイを見つめたが、黙り込んだ彼に短く息を吐く。
紅い髪に映える翠の瞳が苛立ちを隠さない。
「軍が剣士を忌避している理由は詳しくは知りません。ですが、それは過去の話ですわ。今をどうするか、貴男は決めて戴かなくては」
「珍しい、随分と親身になるな」
「ご覧になって戴ければ分かります」
「……どうしろと?」
バインドの記憶は未だに禍禍しく残っている。
まして、レオアリスはその原因ともなった一族の、最後の一人だ。
剣士としての凶兆、そして或いは復讐者としての凶兆。どちらも無いとは言い切れない。
「とにかく、一度ご覧になって、ご判断を」
あまり気の進まぬまま演習場に赴いた。
フレイザーが示した先に、組む相手も無く演習を眺めるレオアリスの姿があった。
剣士として覚醒したばかりであったせいもあるだろう。どこか自分の力を持て余すように壁に背を預けたまま、隊の演習を眺めている。
フレイザーの無言の視線に押され、グランスレイはレオアリスの許に歩み寄った。
レオアリスとまともに話したのはその時が初めてだっただろう。どこかにバインドの印象が強く、関わる事を無意識に避けていた。
だが、初めて正面から向かい合ったその瞳には、かつてのバインドのような翳りは見つけられなかった。
真っ直ぐ自分に向けられた瞳。
あの時生まれて間もなかった赤子がこれほどに成長したのかと、感慨めいた驚きを覚える。
黙ったままいつまでも自分を見つめているグランスレイに、レオアリスは諦めたように溜息を吐いた。
「俺は、首ですか」
その様子があまりに残念そうで幼かった為に、グランスレイは思わず苦笑を漏らした。
「そうではない。だが、隊に馴染まないのも事実のようだ」
レオアリスが唇を噛み締め、肩を落とす。
「しかし、王はお前を敢えて師団にお入れになった。王の為の力になると、お考えなのだろう」
弾かれるように顔を上げたレオアリスを見て、グランスレイは思わず息を呑んだ。
彼がひどく嬉しそうな表情を浮かべたからだ。
その瞳の中にあるのは復讐の意志などではなく、王に対する純粋な憧れだった。
この少年を支える者が必要だ、と強く意識したのはその時だ。
何故そう思ったのかは自分でも明確ではない。
だが、軍に馴染めず、王都に頼るものもなく、『剣士』という禁忌を背負ったままでは、自らが望めば望むほど、それの道行きは苦痛を伴うものになるだろう。
「……無論、我々としてもそうあって欲しいと望んでいる」
今までの自分を言い繕うようだと思った。背後に立つフレイザーが小さく笑うのが分かる。
それを隠すように、グランスレイは殊更厳しい表情を浮かべた。
「何故、王に仕える気になったのだ? 村の者達は反対しただろう」
自分で口にしてから、ひやりと肝が縮んだ。それは彼の過去を直接指摘しているようなものだ。
だが、レオアリスはその言葉に深い反応を示さなかった。考えを巡らせるように首を傾げる。
「……何故って言われても。ただ、御前試合があるって聞いて。確かに爺さん達は反対したけど」
彼の養い親達は、彼に何も告げていないのだろうか。
あの過去を?
おそらくはそうなのだろう。理由など測りようもないが、レオアリスの言葉には自分の過去を知っている様子は少しも見られなかった。
「さすがに、偉そうな事言って出てきちまったから、今更王都じゃ通用しませんでした、なんて帰ったら、叩き出される」
まだ少年らしい発想に、グランスレイは再び苦笑を漏らした。
「通用しない事はない。……暫らく、私の下で軍を学ぶといい」