第三章 三(一)
レオアリスがアス・ウィアンから戻ったのは、陽が翳り始めた頃だった。
誰もいない執務室を横切ると、上着を椅子の背に投げ出し、背を軋ませて座る。
身体の裡に重い疲労がわだかまっている。椅子の手摺に肘を置き、その手を額に当てた。
あの兵士の言葉が、意識の上に点り続けている。
負傷者を収容し終わった右軍を先に帰還させ、レオアリスは暫らく半壊したアス・ウィアンの街を眺めていた。
漂う血と肉の匂いは吐き気すら催させるものだったが、それすら意識をしてはいなかった。
感じていたのは、苛立ちだ。
目の前の状況への。それから――
北方辺境軍と近衛師団第二大隊の全滅。
そんな事を、グランスレイが知らない事は有り得ない。
(何で黙ってるんだ)
『過去など、逐一掘り返さずとも良いものじゃ。掘り返したところで、後悔しか生まぬものもある』
そう言ったのはスランザールだったか。
扉を二度、叩く音と共に、グランスレイの声が入室の許可を求める。
返事をする気になれず、レオアリスが答えないままでいると、一言断りを入れてグランスレイは扉を開けた。
額に手を当てたまま動かないレオアリスを見て、眉を寄せる。その顔に浮かんだレオアリスを気遣う色に、偽りは見えない。
「上将? ご気分が優れないようですが……」
普段と変わった様子もなく歩み寄るグランスレイの上に、尖った視線を投げる。
(聞くべきじゃないのか)
グランスレイが黙っているのであれば、それ相応の理由があるのだ。
だが、そう思っているにも関わらず、レオアリスは厳しい瞳を副将に向けた。身の裡に渦巻く疑問が口を衝く。
「……二隊の全滅とは、何だ」
グランスレイが表情を強ばらせ、レオアリスを見た。
その表情が、レオアリスの中の苛立ちを一層募らせる。
「……バインドから何かをお聞きになったのであれば、そのような事」
「バインドじゃない」
「――」
黙り込んだグランスレイに苛立ちをぶつけるように、レオアリスは立ち上がり机に両手を叩きつけた。
「黙ってちゃ分からない! お前はその時軍に居たはずだ! 知らない訳がない!」
珍しくレオアリスが声を荒げるのを聞き付け、隣室にいた中将達が何事かと執務室へ姿を見せる。
机に手を付いたまま睨み付けるレオアリスの前で、グランスレイは一言も発さず姿勢を正した。
「……何故何も言わない。否定も肯定もしないのか」
「私の一存では、お答え致しかねます」
レオアリスは一瞬深く息を吸い込み、それから何かを飲み込むように顔を伏せた。
「上将……」
「――もういい」
「私は決して」
「いいと言ってるんだ!」
激しい拒絶の言葉に、グランスレイは伸ばしかけた手を止めた。
レオアリスは暫らくの間、机の上についた両腕で身体を支えるようにして顔を伏せていたが、やがて静かに顔を上げた。
既にそこには先程までの激高はない。
けれど心の底を覗かせない、閉ざされたような印象がそこにはあった。
「怒鳴って悪かったな。――少し、頭を冷やしてくる」
そう言うと、顔を背けるようにグランスレイの横を擦り抜ける。
執務室の扉を開けた拍子に、戻ってきたロットバルトに肩がぶつかった。レオアリスの顔に視線を落としたものの、ロットバルトは何も言わずに彼を通した。
扉の閉ざされる音が響き、静まり返った室内を見渡してロットバルトが息を吐く。
(……どうにも、予想以上に早く展開しているな)
「……只今、戻りました」
グランスレイは何かを測るようにロットバルトの顔を見つめた。
「侯爵のご用件は済んだのか」
「ええ。お時間を戴きましたが、もう済みました」
二人とも暫らくの間、お互いの反応を探るように黙っていたが、その沈黙に耐え切れなくなったクライフが堰を切る。
「何なんだ、全く。副将、何をやってんですか」
「……持ち場に戻れ」
グランスレイが苦い響きを声に宿す。その言葉に、クライフは苛立ちも露わに一歩詰め寄った。
今回の件に関して、クライフは起こった事実しか把握していない。
だがその背景に、レオアリスを中心とした何かがあるのだ。
「はあ? ……状況は分からねェけど、そうやって何かを煙に巻いてるから上将が怒るんじゃないですか。いつものあんたらしくもない、一体」
「クライフ。今はやめておけ」
ヴィルトールがクライフの肩を押さえ、扉の方へ向かわせる。クライフはその手を払ってヴィルトールを正面から睨み据えた。
「今言わねェでいつ言うんだ」
向き合った二人の間に、微かな緊張が生まれる。
「やめましょう。我々が諍っても仕方ない」
フレイザーはそう言って二人の間に入ったものの、やはり翡翠の瞳に納得の色はない。グランスレイに一度だけ視線を投げた。
「――貴男は、もうご自分の中で消化したものだと思ってましたわ。見込み違いなら失礼」
グランスレイが眉をしかめるのを確認する事なく、フレイザーの姿が扉の外に消える。
クライフはまだ何か言いたげに口を開きかけたが、吐き出すように息をつき、踵を返した。
扉の閉まる冷えた音が響く。
ロットバルトは暫らくその場に立ったまま、グランスレイが口を開くのを待っていたが、グランスレイは黙り込み、苦いものを噛み締めるように正面を見つめたままだ。
ヴィルトールも壁に背中を預けたまま動かない。
諦めて自席に戻り、脱いだ外套を椅子の背に掛けた。
押さえていたものが吹き出して、寒風のように熱を奪っていったように思える。
「……いつまでもこうしていても仕方ありませんね」
グランスレイが視線を上げる。
「侯爵は、どこまで話したのだ」
「どこまで? 知っている限りの事は全てでしょう。あの方の目的は私に翻意を促す事ですから」
揶揄する口調にグランスレイはロットバルトを睨んだ。翻意を選ぶ事を是としない、厳しい光がその瞳にある。
「お前は、どうするつもりだ」
その様子にロットバルトは思わず苦笑を漏らした。
ここでロットバルトの動向を牽制する位なら、レオアリスに誤解を受けるような態度を取らなければいいのだ。
グランスレイの気持ちも分からないではない。事実を自分の中に飲み込む事と、それは別の話だ。
だが、過去を封じ込める時はもはや過ぎた。
「上将が今拘っているのは、隠されている事実に対してではないでしょう。貴方がそうして黙っている事にだ。貴方は、上将が王都にいらした折から彼を見てきている。その中で得たものを言葉にするのは、そう難しい事ではないはずですよ」
「……簡単に言ってくれる」
「事は単純なんですよ。私にとってはね。選ぶか、選ばないかだけだ。――貴方もこれ以上複雑にする事はない」
グランスレイがまだ何も動こうとしないのを見て、ロットバルトは肩を竦め、ヴィルトールに顔を向けた。
「ヴィルトール中将。後はお願いします」
ヴィルトールは壁に凭れたまま、瞳だけを上げて呆れたように苦笑を浮かべる。
「結局、私は板挟みのまんまか」
「戻って来るまでに、場を収めておいてください」
「やれやれ」
ヴィルトールが了承の意味で片手を上げるのを見て、ロットバルトは再び執務室を出た。
一度中庭を望む回廊から辺りを見回したが、さすがに姿は見当たらない。
「ロットバルト」
振り返ると、クライフとフレイザーが回廊の柱の間に立ち止まり、クライフがロットバルトを手招く。ロットバルトは彼らの方へ足を向けた。
「何が、どうなってんだ」
苛立ちを隠さない声にロットバルトは小さく笑った。
「私も最初からあの場にいた訳ではない。まあ大方の予想は付きますが、何があったんです?」
レオアリスがそれをいつ、どこまでどんな状況で知ったのか、それを把握したかったが、クライフもフレイザーも首を振った。
「判らないわ。ただ、上将が副将を問い糺すようだったけれど」
「言やぁいいんだ、何だって。今更隠して何になる。どれ程大した理由かは知らねェけど、まどろっこしすぎるんだよ」
「そうですねぇ。確かに、簡単に口にするには大き過ぎる話ではある。こうなる前に、副将と話をしておきたかったのですが」
ロットバルトの言葉に二人は顔を見合わせ、それから詰め寄った。
「何か知ってんのか!?」
「聞かせなさい!」
「説明すべきでしょうが、まずは上将を探したい。もう少し後に……」
「私が話すよ」
ヴィルトールの声が割って入り、三人は執務室の入り口に顔を向けた。
ヴィルトールはクライフとフレイザーを手招き、ロットバルトへは行けと促す。そのまま執務室に入らずに回廊を歩きだしたヴィルトールの後を追って、クライフはその肩に手をかけた。
「どこにいくんだよ。中でいいだろ?」
「副将には、邪魔の入らない所でじっくり考えてもらった方がいいだろう?」
フレイザーは気遣わしげな瞳を一瞬だけ執務室の扉に向け、それから頷いた。
「まあ、すぐに答えを出されるさ。元々持っている答えだ。さて、ロットバルト、お前もちゃんと上将を見つけてくれよ。説得はお前が一番巧いからね」
相変わらずのんびりしたヴィルトールの口調に苦笑で応え、三人の姿が別の扉へ消えるのを見送ってから、ロットバルトは改めて考え込むように口元に手を当てた。
レオアリスが一人になる為に行く場所は、大体分かっている。裏庭か、書庫、演習場。裏庭や書庫は大体、呼びに来られる事を見越して行く場合が多い。おそらくは演習場の方だろう。
だが、ロットバルトが行ってそれを告げる事が、問題を解決するとは思えなかった。
開く気配のない扉に一度視線を投げてから、ともかくレオアリスを探そうと回廊の出口に足を向けた時、前方からやってくるアスタロトの姿が見えた。