第三章 一(一)
アス・ウィアンの外壁を囲むように、周囲の草原に北方軍第二軍中隊千騎が展開していた。
重装歩兵を中心とした屈強な兵士達は、アス・ウィアンの街から棚引く幾筋もの煙を視界に捉えながら、進攻の号令を今や遅しと待っている。
街の内部の様子は城壁に阻まれ、この場所からは見て取る事は出来ない。だが、先日のエザムと同じような状況であろう事は、立ち昇る煙から想像できた。兵達の間には、戦いに逸る気持ちとバインドに対する怒りが満ちていた。
陣の中央に張られた本陣では、先程から指揮官カシムや参謀官、少将等が集い軍議を行っているが、まだ動く気配はない。
一人の兵が逸る気持ちを表すように、腰に帯びた剣の鞘を叩き、鎧に打ち付ける。
規則的に叩かれるそれが、やがて輪のように広がり、アス・ウィアンの敵を脅かさんとするように、雷鳴のごとく響き始めた。
「――馬鹿な! 公は何を考えておられる!」
本陣の幕中で、中将カシムは憤りのあまり、手にしていた剣を足元に叩き付けた。たった今、伝令がアスタロトの指示を運んできたのだ。
『近衛師団第一大隊大将が着くまで、陣を展開させ、そこで待て』
「手を出すな、と……」
腕の血管が浮き上がるほど両手を握り込む。
周囲からは兵士達の剣を打ち付ける音が、幕内の会話を掻き消すように響いてくる。
バインドが目前に居るのは分かっている。アス・ウィアンの警備兵を殺害し、その後は街に入ったまま動いていない。
「あのガキに、譲れと……!?」
足でそこに置かれていた衝立を蹴り上げる。衝立は激しく音を立てて倒れ、側近達はびくりと身を縮ませた。
もともとカシムは気性の荒い将だ。先日バインドによって焼かれたエザムはカシムの管轄でもあり、名誉挽回を期して功を焦る気持ちも強い。
(バインドをこの手で討てば、名を上げられる。それを、ただ待てだと?)
剣士がどれ程のものだというのだ。自分とて剣にそれなりの自負がある。更に千もの重装歩兵を擁して、何の不足があると言うのか。
「ここは、公の仰るとおり、様子を見るしか」
恐る恐る、北方二軍の二等参謀官ノーマンはカシムの顔を見上げた。
その弱腰と映る態度をカシムは憎々しげに睨む。
剣士と聞いて以来、この男はやけに慎重策ばかり説き、それもカシムの苛立ちに拍車を掛けていた。
(老いぼれめ)
だが、命令に反するか?
規則正しく、雷鳴は轟いている。
(……いや、倒せばいい事だ。命令に背いたも何も関係ない。あの方は、所詮あまり多くを気にされぬ)
カシムは、荒く息を吐くと、ノーマンに眼を向けた。
「包囲を狭め、三方の門より討って入る」
「し、しかし……」
怒りに満ちた眼で、カシムはノーマンを睨み付けた。
「しかしだと?! では貴様は、ここで間抜け面を晒して笑い者になるか! 北方二軍はたった一人の敵を囲むだけで、手も足も出なかったと?!」
「そ……」
「さっさと行って全軍に伝えよ!」
「は――はっ」
慌てて伝令を呼ばわりながら駆け出していく後姿に舌打ちをし、カシムは剣を取り上げた。
すぐに、全軍が移動を始める。外壁の三方の門に向かって、三隊に分かれて重い足音を立てながら進行していく。
アス・ウィアンはすぐ背後に深い森が迫り、門を持つのは北、東、南の三方だけだ。
門を守る警備兵は、全てバインドによって切り裂かれ、辺りに転がっていた。
その様を横目で眺めながら門を抜け、兵士達の列がひしめきながらアス・ウィアンに入る。
折り重なった死体。それは何か、どこかが異様で、兵達の間に正体の知れない不安が過ぎった。
街並みはまるで大きな鉈でも振るったかのように壁は切り崩され、焼け落ちて煙を上げている。狭い石畳のそこかしこに住民達の死体が転がっている。街の中には進軍する兵列の他に、動く影は見あたらなかった。
アス・ウィアンはそれほど大きい街ではない。だがそれでも、その光景には兵達の怒りを急速に冷ますような、心胆を寒からしめるものがあった。
「……本当に、これを一人でやったってのか……?」
歩兵の一人が厚い頬当ての奥で呟いた言葉は、等しく兵達の心の中に浮かんだ疑問でもある。
極力崩れた家々を、倒れている人々を見ないように前を向き、兵列は重い足音を石畳に打ち鳴らしながら進んだ。
視線の先には先頭に騎馬を立てて進む、中将カシムの姿が映る。
その堂々たる姿は兵達の心を鼓舞し、不安を打ち消すのに十分なものだ。
きつく傲慢なところがありはするものの、殊戦場においては、カシムは十二分にその将たる所以を示している。
カシムは兵列の先頭に立ち、苛立ちを隠さない瞳で街の中央に聳える塔を睨んだ。
その塔の上屋に、隠そうともしない気配があった。