第一章 二(一)
大陸の西部に位置する王国アレウス・エクゼシリウムは、大陸で最も広大で富裕な国土を有している。
現王の在位は長く、既に三百年に渡り安定した政を続けてきた。
東の国境沿いには峻険ミストラ山脈、西に古の海バルバドス、南に灼熱の砂漠アルケサス、北に黒森ヴィジャが広がり、行く者の足を阻む。
特に東のミストラ山脈から先は、現在も領土争いが続く小国が多い。
王国の四方を取り巻く生者を寄せ付けぬ酷地は、逆にそれら小国の侵入を阻む絶好の塁壁でもあり、それが王国が長期の安定を保っている大きな要因でもあった。
ただ四方の辺境のうち古の海バルバドスには、王と同等の時を生き続ける海皇と呼ばれる存在が深淵の世界を治め、領土内ではありながら王国とは一線を画していた。
およそ四百年前、バルバドスとの間に大きな戦乱があり、百年もの長きに渡り、西方の辺境部は激しい戦乱に覆われた。
双方共に多数の死者を出した戦乱は、三百年前に両国の間に不可侵条約が結ばれる事で漸く決着を見、以来大きな戦乱はなく、時折小規模な争いが発生する他は国内は安寧を保っている。
国内は王の統治のもと、四大公と呼ばれる四つの公爵家、十の侯爵家、及び九十九家の諸侯がそれぞれの領地を治めている。
国の政務を司るのは、大別して四つの機関に分かれる。
内政を司る内政官房、長は四大公の一角、北方公ベール。
治水、土地、生活を司る地政院、長は東方公ベルゼビア。
財務、商工業を司る財務院、長は西方公ルシファー。
治安、軍務を司る軍部、正規軍の長に南方公アスタロト。
内政官房は他の三部門を総括、調整する役割も果たしている。
また正規軍とは別に、王と王城を守護する王直属の軍である、近衛師団があった。
レオアリスの所属する近衛師団は、王を守護する王直轄の部隊であり、総将アヴァロンの下、総数は約四千五百名と少ないが、精鋭が集められた部隊だ。
それぞれ一千五百名毎の三つの大隊に分けられる。それを統括するのが、レオアリスを始めとする三名の大将だ。
各大隊はその中でまた三つの中隊、左中右軍に分かれ、各中将が指揮を取る。中隊の下には一隊五十名からの十の小隊が存在する。
王の守護と王城の警護を主な役割とするが、王の命を受け、戦場に出る事もしばしばあった。
それに対して正規軍は、四大公の一角、アスタロトがその長、総将を務め、東、西、南、北それぞれの方面ごとに編成されている。
各軍は近衛師団と同じように大隊ごとに編成されるが、近衛師団よりもその規模は大きい。総数は約八万四千。
東方軍を例に挙げれば、東方将軍の指揮の下、第一大隊から第七大隊までを抱え、王都から辺境へ第一大隊から順に配備される。その為、辺境を受け持つ第七大隊は辺境軍とも呼ばれた。
一大隊の兵数はおよそ三千。各大隊はやはり左中右の中隊に分かれ、その下に小隊があった。
両軍は規模に差こそあるが、互いの位置関係は並列している。近衛師団の大将は、正規軍の将軍と同列に位置していた。
高い天蓋に嵌め込まれた飾り窓から、陽光が様々な色彩を纏って降り注ぎ、大理石の床や広間を支える数十の柱を柔らかく浮かび上がらせている。
それだけで三層の建物程の高さはあろうかという巨大な両開きの扉の前から、深緑の絨毯が広間の奥へと真っ直ぐに敷かれて延びていた。
王への謁見の為のこの広間は、百十三家の諸候および各官衙の首級諸官が一同に会する事が可能なほどの広さだったが、今玉座の前に跪いているのはレオアリスと副将グランスレイのみだ。二人の正面には十数段の階段がしつらえられ、その高みに玉座があった。
高い天井から流れ落ちるような暗紅色の長布の前に、燻したような銀の材質で造られ精緻な彫刻を施された玉座が置かれている。
その右隣に常に立つのが、四大公の筆頭であり、王の補佐を務める内政官房の長、ベールだ。風貌は若いが、王とともに長い歳月この国を支えてきた最古老の一人でもある。
もう一人、階下に背の高い老齢の男が控えている。近衛師団総将アヴァロン。
引き締まった体躯をレオアリスと同じ黒の士官服に包み、その背には近衛師団の軍旗と同じ、黒地に王の紋章――暗紅色の双頭の蛇があしらわれた長布を纏っている。
王の守護たる証であり、近衛師団の中でもただ一人、総将のみが纏う事を許されるものだ。
そして玉座には、この強大な王国の主が悠然と座していた。
短めの銀髪を後ろに流し、鋭い容貌の中に金色の瞳が全てを見通すような光を湛えている。
幾重もの暗紅色の長衣に包んだ長身を、玉座の背に預けて座すその壮年の姿は、それだけで周囲を圧倒し、竦ませる程の空気を身に纏っていた。
段下に跪き早朝の戦の報告を行うレオアリスの言葉を、王は瞳を伏せたまま聞いている。
王の眼は世界を遍く見通すと云われる。それ故に王の前に跪く者は、審判を受けるような極度の緊張を覚えた。
報告を終え口を閉ざしたレオアリスは、面を伏せたまま王の言葉を待った。
この僅かな静寂の時間にいつも、レオアリスは自分の心臓の鼓動を数えている。
戦場に於いてもこれほどに鼓動を感じる事はない。
それは畏怖であり、戦慄であり、憧憬であり――期待だ。
王はやがて瞳を上げると、暗紅色の長衣をゆったりと揺らし、金の光彩の瞳を満足そうに細めた。
低く深い、響きの良い声が流れる。聞く者の魂を竦ませ、また包み込み捉える声だ。
「ご苦労。兵をゆっくり休めよ。」
抑えていた息をつき、静かに頭を下げるレオアリスの上から、更に声がかかる。
「見事な戦いぶりであった。久々にそなたの剣を見てみたいものだ。」
レオアリスは僅かに瞳を見開き、伏せた顔に微かな、だが誉められた子供が見せるような喜色を浮かべた。
その年齢相応ともいえる喜びの感情に、少し下がった位置に同じく跪いたグランスレイは心の裡で微笑った。
レオアリスにとって王は、この王国の王、近衛師団の将として守るべき主というだけの存在ではない。
レオアリスの育った北方の村では、彼が生まれた頃から王とのささやかな関わりがあった。長老達が王と取り交わした何事かの約定により、年に一度、王都から北方の辺境の村まで、数十冊の書物が届けられた。
その約定が何に由縁するのか、長老達に尋ねても明確な答えはなく、レオアリスが知っている訳ではない。
けれども、隔絶されたようなひっそりとした村で、冬の雪に閉ざされた世界で、レオアリスはそれらの書物に囲まれて育ったのだ。
その事は静かに、確実に、レオアリスの中に根を下ろしている。
会った事も姿を見かけた事すら無かったが、いずれ王都に出て王に仕えたいと、何となくそう思っていた。
初めて王に拝謁した時は緊張のあまり、どんな言葉を掛けられたのか、自分が何を言ったのか、殆ど記憶に残っていない。
ただひたすら嬉しいと感じた事、そしてその黄金の瞳をどこか懐かしいと感じた事を、漠然と覚えていた。