第二章 七(一)
バインドが王都に現れてから、四日目の朝を迎えた。
薄紫と輝くような朱が入り交じる明け方の空は、地上でどんな事があろうと、ただ色を移ろわせていく。
窓の向こうに変わる事なく上がる朝日を眺め、レオアリスは溜息をついた。記録を調べる事しかできていないにも関わらず、疲労は日々積み重なるように身体に纏いついている。
浴室に行き、蛇口を捻ると壁面に設けられた管から勢い良く水が降り注ぐ。部屋着のままなのも構わず、頭を突っ込むようにして水を被った。
明け方の冷えきった水が肌を叩き、寝不足気味の頭が漸くすっきりとしてくる。雨のように注がれる冷たい水の中で、浴室の壁に片手を当てたまま、瞳を閉じた。
今日は公休日に当たる。午前中の時間を利用して、王立文書宮へ行ってみるつもりでいた。
そこで何もなければ、自分一人の力で探れる範囲は、探し尽くした事になる。
その後、どうするか……
単純に、やはりただの偽りだったと切り捨てる手はある。いっそそうして蓋をしてしまいたい誘惑は強かった。
けれど、ずっと引っ掛かっているのは、グランスレイの様子だ。
昨日のグランスレイの姿が脳裏を過る。
何を知っているのか。――何故、黙っているのか。
その事がずっと、レオアリスに煩悶を投げ続けていた。
勢い良く注いでいた水を止め、滴る雫ごと煩悶を振り払おうとするように頭を振った。
身支度を整えて表に出ると、既に夜明けの色は消え、良く晴れた高い空が見渡せる。
通りに沿って右手には官舎の塀が延び、左側は常緑樹の植え込みが続いている。秋の日差しが樹々の葉や石畳に照り映え、冷えた大気を少しずつ暖めていた。
館の門を出て少し歩いた所で、レオアリスは足を止めた。そこが、バインドと初めて遭遇した場所だ。
まだ舗装の亀裂もそのままになっている。
深く生々しい傷を晒しているものの無機質に語らず、そこから得られるものは無い。
引き寄せられる視線を振りほどき、レオアリスは第一層へ向かった。
早い時間にも関わらず、執務室には既にロットバルトの姿があった。
ロットバルトは不意に入って来たレオアリスの顔を見て、意外そうに眉を上げた。
「どうなさったんです、随分お早いですね。それに今日は公休では?」
「さすがにこんな時にのんびり休んでる訳にはいかないからな。情報は?」
「未だ変化はありませんね。どうせ軍議があっても大した内容でもないでしょう、息抜きくらいされても文句は言われませんよ。遠乗りにでも行かれたら如何です。カイを置いていっていただければ、緊急時でも連絡は可能でしょう」
「そうだな……」
ハヤテは王城への行き帰りばかりで、すっかりふてくされた様子だ。
心引かれた様子で少し考え込むように黙ったレオアリスに一度視線を向けてから、ロットバルトは書類を整えて卓上へ重ねて置いた。
「申し訳ありませんが、私は午前中に少々時間を頂きます」
「用事か?」
ロットバルトの手元に積み上げられている書類の山を眺めながら、何か急ぎの案件があっただろうかと、レオアリスは特に意図も無く聞き返した。
返った言葉に、視線を引き上げる。
「シスファン大将が、昨日から帰還されているそうです」
「シスファン――」
一度それを口の中で反復してから、思いがけない名にレオアリスは驚いて瞳を見開いた。
「まさか。昨日の軍議じゃ、何も言って無かったぜ。第一軍議に出席してない」
「そのようですね。私も表立って聞いた訳ではありませんが、辺境を空けて秘密裡に帰還するだけの理由があるのでしょう。……今回の件と無関係とは考え難い」
正規東方軍第七大隊大将、レベッカ・シスファン。第七軍、いわゆる辺境軍を統括する彼女が、アスタロトや軍の召喚がなく帰還する事は考えられない。
ロットバルトの言うとおり、秘密裡に、重大な案件を以て召喚されたと考えるのが妥当だろう。
バインドの件に関わりがあるのだろうか。
(この時期だ。それ以外……)
どこが、何の為にシスファンを召喚したのか。
『剣士と向き合うのは、いつ以来かな』
不意に、いつかのシスファンの言葉が耳を打った。
鼓動が早まる。
確かに、シスファンはそう言っていたはずだ。
その時はただ額面どおりに受け取っていたが、今その言葉は、無視できない響きを孕んでいた。
「――」
バインドの事を知っているのか。――十七年前を?
早い鼓動に合わせるように、目まぐるしく疑問が入れ替わる。
答えへの期待と不安。
レオアリスは逸る気持ちを押さえ込むように、両手を握り込んだ。
(……会って、話を――)
けれど、秘密裡に上がっているのであれば、通常の面会を求めてもはぐらかされるだけだ。
ロットバルトは暫くその様子を見ていたが立ち上がり、執務机を回ってその前に出た。
「面会の申し入れは受け入れて戴いています。任せて戴いても?」
跳ねるように顔を上げ、レオアリスはロットバルトを見上げた。整った面に浮かんだ表情は、普段と少しも変わっていない。
レオアリスは僅かに躊躇った。
バインドの言葉に捉われ過ぎていると自分でも判っている。
けれど、それを自分の中でどう方向付ければいいのか、それが未だに見えていないのだ。
しかし自分には政治的な駆け引きなどは向かない。例え面会したとしても、無駄に終わるだろう。ロットバルトならその術に長けている。
「――何を聞けばいいか、俺にもはっきり判ってない」
まだ迷ったままのレオアリスに対し、ロットバルトは対照的な表情を浮かべた。
「無論、明確な指示を出される必要はありません。逆に現時点では、私個人の範疇で動いている事に留めておいた方がいいでしょう」
ロットバルトは特に急かすでもなくそう言うと、執務机の縁に軽く身体を預けた。
この三日間、迷うだけ迷って来た。それで何が前進した訳でもない。
レオアリスは深呼吸をするように、大きく息を吐いた。
「……頼む」
口にしてみて漸く、胸の裡に重くわだかまっていたものが、僅かだが軽くなった気がする。
ロットバルトは頷くと、先程卓上に置いた書類を取り上げ、レオアリスへ差し出した。
「せっかく出ていらしたのなら、ご確認を」
レオアリスが受け取ると、口元を皮肉っぽく歪める。
「調査報告と申し上げたいところですが、残念ながら何も得られておりません。午後まで待って戴くしかありませんね。この後のご予定は?」
「王立文書宮に行くつもりでいる。……一つくらいひっかかるかもしれないしな」
期待半分といったところだ。
ただ先程までは無ければ手詰まりになると思っていたが、今はもう一つ別の道が開けている。
「可能性はあるでしょうね。では、午後に館にお伺いして、ご報告いたしましょう」
「……スランザールに話を聞くのが早いかな」
「さて……話が伺えれば非常に有益でしょうが、口を開いたら開いたで、あの方の講義はきりがありませんからね。まあ、お戻りが明日にならないようにお気をつけください」
ロットバルトの的を得た物言いに可笑しそうに笑い、深く頷いてからレオアリスは手にした数枚の綴りを開いた。
そこに記されているのは、主に内務官房の人事関係者の名だ。
既に引退した者や現在別の部署へ異動している者の名もあるが、基本的に軍部の人事に関わっていた者のようだ。
ここまで調べていてくれたのかと、驚きと、もう一つ別の想いが胸の内に湧き上がる。
「情報が無さ過ぎますね。表立って聞く事が出来ない分、拘束力が弱いのは仕方ありませんが……」
レオアリスはそれを閉じ、一度壁に掲げられた師団の軍旗に瞳を向けた。
誰かを頼るのなら、自分もそれに対して誠実であるべきだ。
「俺の持ってる情報が、少しならある」
レオアリスとしては、ずっと一人で持っていた事に後ろめたい気持ちがあったが、ロットバルトは意外な顔もせず、蒼い瞳を促すように細めた。