第二章 六(二)
クライフが士官棟へ戻ると、先に食堂を出たフレイザーとヴィルトールがいるのみで、他はまだ戻っていないようだった。
「上将は?」
席に着いて椅子の背に身体を預け、ヴィルトールに顔を巡らせる。何かの書面を読んでいたヴィルトールは、それを伏せて顔を上げた。
「お二人ともまだだよ。けどもう戻るだろう」
「長ぇなぁ。決まったのかな」
「さて……」
丁度そう言っている間に、扉が開き、グランスレイが入ってくる。
「お疲れ様です。上将は?」
「公と少し話をされている。程なくお戻りになるだろう」
「それで……」
「まだだ」
眉をしかめ短く告げただけで、グランスレイは自席に向かった。
ヴィルトールが立ち上がり、グランスレイの傍に寄ると、先程まで見ていた紙を渡して一言二言何事か告げる。グランスレイは再び眉をしかめたが頷いた。
ヴィルトールが紙を畳んで懐にしまった時、再び扉が開いた。彼等は同時に顔を向けたが、入って来たのはロットバルトだ。
余りに一斉に視線を向けられた為、ロットバルトが思わず足を止める。
「何だ、お前か」
身を起こしかけたクライフは、また元のように椅子の背に寄りかかった。
「何だと言われても。……上将はまだお戻りではないんですか」
「まだだし、まだ決まってないってよ」
ロットバルトは何も言わず、ただ呆れたように肩を竦めて机へ向かう。
何とはなしに会話は途切れ、クライフは暫く窓の外を眺めていたが、それをグランスレイへと戻した。
つい先程の食堂での諍いが思いだされ、軍議が決着しなかったと聞いただけで、はいそうですかと黙ってもいられない。
「……副将、いつまで放っておくつもりなんです」
「何の話だ」
クライフは立ち上がり、グランスレイの机に近寄った。
「決まってんでしょ、上将に対する批判とか、言わせっ放しでいいのかって事ですよ。軍議じゃまともに対策も練らないでそればっかって話じゃないですか」
クライフほど表情には出していないものの、フレイザーやヴィルトールの顔の上にも同様の思いがあるのを見て取り、グランスレイは苦々しい溜息と共に頷いた。
「そればかりが上がっている訳ではないが、連日飽きもせず、口がさない輩ではある」
「ちっムカつくな。今度は俺を連れてってくださいよ。がつんと言ってやる」
掌に拳を当てながら、腹立たしげに室内を歩き回るクライフを眼で追って、フレイザーが苦笑交じりの声をかけた。
「我々の立場では臨席できないのよ。仕方ないでしょう」
基本的に正規軍、近衛師団全体にかかる軍議に出席が認められるのは、大隊の副将までだ。その規定でいけば出席者は圧倒的に正規軍側が多い事になる。それもクライフには不満だった。
ヴィルトールが自席に着いたまま、クライフを見上げる。
「お前までそんな事でどうするんだ? 大体お前が出たら、余計面倒な事になるだけだよ」
「だからって黙ったままでいられねぇだろ。第一、下にまで広がっちまってギスギスしてんだ。さっきなんて乱闘寸前だぜ?」
クライフが食堂の一件を掻い摘んで報告すると、グランスレイは苦々しい息を吐いた。
あの場ではひとまず収まったものの、全体的な問題は解決したとは言えない。
上層部の不協和音が確実に隊内にも伝わって、普段なら気にならない事まで不和の要因になっている。
このままの状態が続けば、兵達の不安はますます大きくなっていくばかりだ。
フレイザーが与えた安堵も、このままレオアリスなりが動かなければ、時もなくまた焦燥と疑念に変わってしまうだろう。
「批判を言わせねぇか、軍を出すか、せめてどっちかになんねぇと収まりませんよ」
しかしグランスレイはクライフに同意せず、厳しい表情のまま首を振った。
「上将が黙っておられるのだ。我々が下手に口出しすべきではない。だがいつもの批判に過ぎん」
「ったく、正規にゃそんな時じゃねぇって、誰も言う奴はいねえのかよ」
それまでは口を開かずその様子を眺めていたロットバルトは、グランスレイに蒼い瞳を向けた。
「それだけですか」
「……何がだ。」
「何。それ以外にまだあんの?」
束の間、ロットバルトはグランスレイに視線を注いでいたが、すぐに口元に微かな笑みを浮かべた。
「いえ。……私も、少々苦言を申し上げるべきと思いますが。
それに、批判についてはいずれにせよ結果を出せば消えていく話ですが、意識に蒔かれた種が芽を出してからでは、刈り取るのは困難でしょう。兵にも一定の情報は必要ですよ」
グランスレイは一度その瞳を見返しただけで、何も言おうとはしない。
代わりにクライフがグランスレイに抗議の篭った視線を向ける。
「ロットバルトの言うとおりだ。上将が黙ってたって、副将から苦情ぐらい言ってくださいよ。放っとくからどんどん広がってくんです」
「俺が何だって?」
丁度その時、王城から戻ったレオアリスが入り口で立ち止まり、執務室内の様子に驚いた瞳を向けた。
険悪という程では無いにしろ、どこか睨み合うような雰囲気がある。
「何かあったのか」
「上将が批判を受けてるってのに、黙ってる事は無いって話です」
「……ああ」
不服そうな色を隠さないクライフの様子に苦笑を漏らし、レオアリスは室内を横切って自分の執務机まで行くと、ひょいと机の上に座った。
「別に。気にしても仕方ない」
「腹立たないんですか? 俺は気に食わねぇっスよ。俺らの大将を何だと思ってんだ」
本気で怒っているらしいクライフを眺めて、レオアリスは宥めるように笑った。
「落ち着けよ。……まぁ、お前らには悪いけど、少しの間我慢してくれ」
「俺達はいいんです。そうじゃなくて」
クライフは尚も言い募ろうとして、レオアリスの瞳に浮かんだ光に気付き、漸く息を付いた。
バインドの件が片付けば、今持ち上がっている批判も少しは減るのだろう。
その瞳は、自分がバインドを斬るのだと、見る者に告げている。
ただそれは、安堵の他にもう一つ、一瞬の戦慄に近い感覚をクライフに与えた。
「……判りました。上将にお任せします。でも、早いとこ決着つけてくださいよ。正規の奴等も結果を見せりゃ納得するしかねえでしょうし」
クライフが退るとロットバルトが入れ代わりに進み出て、書類を手に彼らを見渡した。演習の布陣図だと気付いて、クライフは呆れた声を上げた。
「こんな時でも演習やんのかよ」
「バインドに動きが無く、事態が師団の管轄下に無い以上、我々の打つべき手は態勢を整えておく事以外に無いでしょう。必要以上に特別な行動を取る事もない」
「俺はどっちかっつうと、バインドがさっさと動いて実戦になった方がいいな。その方が兵も落ち着くんじゃないか?」
クライフにしてみれば、いつもの軽口程度の発言だった。
「軽々しい事を口にするな!」
鞭を弾くような響きがあった。
予想外に厳しい口調に、クライフだけではなくその場の全員が、グランスレイに驚いた視線を向ける。
「え……っと、――申し訳ありません」
クライフが圧されたように頭を下げる。
レオアリスは黙ったまま、グランスレイの僅かに逸らされた横顔に視線を注いだ。グランスレイの表情には、どこか苦い色がある。
だが、それ以上の変化が無いのを見て取り、レオアリスは微かな苛立ちの交じった溜息をついた。