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勝敗  作者: 雨咲はな
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2.夫



 ある日、ミスをした部下に注意をしたら、そいつは「朝なにも食べてないんで注意力散漫になってたみたいです」と頭を掻きながら弁解した。

 それを聞いて、俺は意味がよく判らなかった。

 独身者がそんなことを言うのはまだ判る。親元から離れて一人暮らしをしていたら、仕事に追われて、家のことや身の回りのことが疎かになることもあるだろう。営業なんて仕事は、顧客と取引先あってのものだ。相手の都合に合わせて動くのだから、自分の時間を犠牲にすることだって多くある。のんびり食事の用意をしたり摂ったりするヒマがなかったとしても、理解できる話だ。

 しかしその男は既婚者なのである。それももう三年くらいは経つはずだ。結婚したばかりでバタバタと慌ただしいというならともかく、そんな期間はとっくに過ぎたはずだろう──と眉を寄せてから思い出した。そうか、確か子供が生まれたばかりだったと言っていたな。

 それじゃあ奥さんが未だ里帰り中で不在なのかと思って訊ねてみると、そいつはまた、いやあ、と恥じ入るようにぽりぽりと頭を掻いた。

 子供を産んだ時は確かに里帰りしていたが、二カ月経った今は、もうこちらに戻っている、という。しかし夜中の授乳などがあって、常に睡眠不足で朦朧としている。とてもじゃないが朝も起きられる状態じゃない。だから自分も、眠っている妻と赤ん坊を起こさないように気を遣って、一人でそうっと起きて身支度をし、家を出るのだ、と。

 当然、朝食も用意なんてしてあるわけがない。いつもは出社途中で何かを腹に入れてくるのだが、今日は寝坊をしてその時間がなかった、と面目なさそうに言った。

 俺はその話を黙って聞いていたが、とにかくこれから気を付けるようにという台詞で締めて、部下を解放した。まあ君もいろいろと大変だろうけど、奥さんと生まれた子供のためにも仕事を頑張れよと肩を叩いて言うと、そいつは照れたように笑って頭を下げ、俺のデスクの前から離れて自分の席へと戻った。

 手元の書類に目を戻し、掌で口元を軽く覆ったその下で、俺はこっそりと嘲りの笑いを浮かべる。

 馬鹿じゃないのか、あいつ。

 よくもそんなろくでもない女を、女房なんかにする気になったもんだな。



 妻の朋子とは、二十五の時に見合いで知り合った。

 ずいぶん早かったんですね、と今その年齢くらいの部下たちにはよく驚かれる。昔はそんな齢でもう結婚するのが当たり前だったんですか、と言われて笑いそうになることもたびたびある。バカ言うな、お前たちが思うほど、十五年前は「昔」じゃない。その当時でも俺の結婚は早いと言われたし、周囲にも意外な顔をされたものだ。

 こう言ってはなんだが、学生の頃からそこそこ女にはモテた。女遊びに夢中になるほど頭は悪くなかったが、交際相手に不自由したことはない。そんな俺が見合いでさっさと結婚を決めたこと、しかも相手がそれまで付き合っていた女たちとはまるで毛色の異なる、地味で大人しいタイプの女だったから、余計に周囲の驚きが大きかったこともあるだろう。

 言葉には出さなくても、どうして? と理由を知りたがる友人たちに、俺はこう言った。

 彼女の性格に惹かれたんだと。彼女はとても素直で、優しく、思いやりがある。今まで出会った女性の中で、いちばん心根が美しく思えた。妻にするのなら、こういう人がいいと思ったんだよ。

 それだけで、俺の株は、同性の間でも異性の間でもぐんと上がった。顔で女を選ぶ男は、そのどちらからも嫌われる。顔だけで選んだその相手に、難なく受け入れられてしまう男ならなおさらだ。

 岬啓一という男は、女性を中身で判断することが出来る。それはすなわち、真面目で誠実な人間であるということだ。俺の結婚によって、周囲はみんな、そういう評価を下した。

 そう、その時も俺は、同じように笑って、同じようなことを腹の中で思ったんだっけ。

 ──どいつもこいつも、馬鹿ばっかりだ。



 朋子は確かに、素直で、大人しい女だった。言ってしまえば、それくらいしか、特に表現すべきところのない女でもあった。

 しかし連れ歩く時に恥ずかしくない程度にごく普通の容姿をしていたし、実家もまあまあ裕福な家庭だったので、それなりにきちんとした躾もされていて、礼儀も分別も弁えていた。

 そしてなにより、家事が得意だった。

 あまり他に秀でたところのない彼女の、唯一の才能だったかもしれない。料理も、掃除も、洗濯も、アイロンかけも、いつもまめまめしく、きっちりと仕上げる。決してフルコースを作れたりするわけではないが、すべてにおいて平均よりもずっと上のことが出来る。料理は得意でも部屋は汚い、などというのは御免だし、洗濯は好きでもインスタント食品ばかり好むようでは論外だ。その点、朋子は偏りなく、家事においては万能だった。

 本人もそうしている時が楽しいと言っていたし、天分というものなのだろう。家庭にすっぽりと納まって、妻になり母になるために生まれてきたような女なのだ。

 俺は彼女のそういうところに惹かれた。そういう意味では、選んだ基準は確かに顔などではなく中身だ。俺は彼女に家庭内の安定を求め、彼女は俺の庇護下に入ることを望んだ。お互いがお互いを、必要とした条件を満たした相手だと認識したから、結婚した。

 それだけのことだ。



 妻になった朋子に、俺はほとんど不満を抱かなかった。

 娘が生まれた前後は確かに少々不便さを感じはしたが、それ以外のところでは、彼女は非常によく出来た妻だったからだ。

 家の中はいつも綺麗に整えられ、どんなに遅くても、帰宅すれば彩りやバランスの配慮された温かい食事がすぐに出てくる。朝起きればテーブルには炊きたてのご飯と味噌汁、数種の惣菜がテーブルに並べられており、着ていくものもスーツからワイシャツ、ネクタイ、靴下に至るまで、ぴったりコーディネートされたものが揃えて用意されている。

 ピカピカに磨かれた靴を履いて、いってらっしゃい、と見送られ玄関のドアを出る時、俺は毎回のように、この女を妻にしてよかったと思うくらいだった。

 もちろん、朋子のほうにだって不満のあるはずがない。俺は決して家庭内の暴君ではなく、とんでもない贅沢をしなければまあまあ余裕のある暮らしをさせている。家事以外のことで何かを要求したことはなく、俺が仕事で汗を流している昼間、彼女が何をしていても文句も言わなかったし干渉もしなかった。遊びに行っても、買い物をしても、習い事をしても、それが家の中のことに支障をきたさない限りは、何も口出ししなかった。

 夫の稼ぎでそんな気楽な毎日を享受しているのだから、まったく専業主婦ほど恵まれた存在はない。

 俺は朋子との結婚生活に満足していた。



 家庭内がちゃんとしていれば、男は何の憂いもなく仕事に精を出せる。

 実を言えば、結婚を早めにしたのも、朋子のような家事能力のある女を妻にしたのも、その理由が最も大きかった。俺は、他の何かに煩わされることなく、仕事に集中したかったのだ。

 出世もしたい。権力も手にしたい。その欲求と願望を、俺は人よりも強く持っていた。

 見下され命令される立場ではなく、逆の立場へと廻りたかった。少しでも早く。少しでも上に。入社した時から考えていたと言ってもいい。

 誰かの下にいるのは我慢がならない。俺はいつでも、人から見上げられる場所に立っていたいのだ。

 自分にはそれが出来るはずだ、という、確信に近いものも持っていた。

 子供の頃から要領がよかった。勉強でも苦労なんてほぼしたことがない。親はいつも俺のことを人に自慢した。成績の悪い兄のことは話に出さなくても、俺のことは聞かれる前からぺらぺと喋り、よく出来た子だと何度も言った。

 そして俺は、昔から、他人の考えや空気を敏感に読み取ることが上手だった。どんな相手でも、するりとそれに合わせることが苦もなく出来る。むしろ、どうして他のやつにはこんな簡単なことが出来ないんだろうと不思議に思うくらいに。

 学生の頃はもちろん、社会人になってからも、それは変わりなかった。どうしてあいつはあんな間抜けな返事をするんだろう、あれでは上司によく思われないのは自明の理なのに。どうしてあの係長はあんなにいつも怒鳴ってばかりいるんだろう、あれでは部下からの反感を買うだけで何もメリットなんてない。そんなことがよく見えて、いっそ憐れみさえ覚えるほどだった。

 俺はそんな風に愚かなことはしない。上司には上司の、部下には部下の、それぞれに「望ましい部下・上司像」がある。客や取引先だって同じこと。それを読み取り、それに合わせて行動すればいいだけだ。あくまでもあまり目立ちすぎないように。

 社内での俺の評価は悪くない。出世のスピードも同期の誰より早かった。

 もっと上に行きたい。もっと。誰かの下でいること、誰かに負けることは耐えられない。

 俺は常に勝ち組でいたいのだ。



 妻に不満はなかったが、子どもが生まれてからは性生活は激減した。

 そんな気になれない、としか言いようがない。母親になった朋子はもうすでにそういう対象ではなかった。体型が変化したとかそういう問題ではなく、俺にとってのカテゴリが別のものに移動した、ということだ。

 娘は笑っていれば可愛いが、大きな泣き声を上げたり、こちらの理屈が通じないのには閉口した。自分の思う通りに動かない人間というのは、これほどまでに厄介なものかとうんざりする。

 多少金はかかってもいいから、ちゃんと習い事をさせ、礼儀を身につけさせるよう妻に言った。順調に役職は上がり、それに伴い収入も上がった。娘に標準以上の投資をしてやれるだけの給料を彼女には渡している。忙しくても一年に一回は旅行にも連れて行ってやったし、叱る時は決して感情的にはならず理性的に諭すようにした。それで十分、父親としての責務は果たしているはずだ。

 早く帰っても子供が起きているうちはうるさいので、適当に時間を潰してから帰ることも多くなった。その際、他の女と遊ぶこともあったが、それを悪いとは思わなかった。

 妻はもう「女」ではない。だからその部分だけを担う相手を他で調達するという、それだけの話だ。決して相手にのめり込むこともなければ、朋子への態度が変わるということもない。俺は家庭を壊すつもりなんて微塵もなかったし、朋子と別れるつもりもまったくなかった。

 朋子は妻であり、母親だ。それらの役割を他の女に渡したいと望んだことは、ただの一度もなかった。



 何人かの女と付き合ってきたが、会社の部下を相手にしたのは実花がはじめてだ。

 彼女は美人で、ハキハキした性格で、よく笑い、よく気も廻る女だった。すらっとした身体つきで、出るところは出て、引っ込んでいるところは引っ込んでいる。名前の通り花のような艶やかさ華やかさがあり、本人もそれを意識しているようなのがハタ目にもよく判った。化粧も髪型も、指のマニキュアに至るまで、常にぴっちり決まっていて隙がない。

 有名な女子大を出たということで頭も悪くなかったし、自分の容貌をわざわざ鼻にかけて敵を作るほどの愚かさもなかった。男にもよく声をかけられていたが、ホイホイと乗るような尻軽さもない。断るにしても、相手を怒らせないよう上手にあしらっているなという印象があった。

 こういうタイプは、なんだかんだ言っても自分に自信を持っている。一度厳しく怒ってそのプライドをへし折ってやり、あとで優しくしてやれば扱いやすくなるだろう──と思って実行してみたら、本当に呆気なく彼女は俺に惚れた。

 あまりの単純さに笑いそうになったが、そういう子供じみたところは嫌いじゃない。その顔も、身体も、十二分に魅力的だ。会社の人間と関係を持つのは危険もあるが、こんな性格なら簡単にコントロールできるだろうという読みもあった。

 一度男女の関係になってしまえば、彼女は未熟で、純粋で、高慢で、一途だった。俺のためだと言えば、誰にも自分たちのことを漏らさない口の堅さもあるし、社内では完全に知らんぷりで部下としての役に徹する演技力もある。そのくせ、それ以外のところではべったりと甘えてくるのだから、俺にしたってそんな彼女と付き合うのが楽しくないわけがない。

 社内不倫というスリルに少々酔っていたのは確かだが、しかしその関係を、いつまでも続けるつもりはなかった。彼女も年頃なのだし、いつかこの窮屈さに飽きたら、あちらから別れを切り出してくるだろう。そのうち同僚の男を連れて、この人と結婚するんです、と素知らぬ顔で報告してくるかもしれない。

 その時は、せいぜい上司として祝福してやろうと思った。



 ──しかし、思った以上に、実花という女は執着心が強かった。

 もっとさばさばと割り切るほうだと思っていたので、これは誤算だった。付き合いが長くなるにつれて、少しずつだが、妻との離婚を匂わせてくるようになった彼女に、正直まずいなと思っていた。

 離婚なんてする気はない。現在のままの状態で、俺は満足なのだ。かといってあまり露骨に嫌な顔をすれば、激高して何をしでかすか判らない。念願の部長の椅子が視界に入ってきた今、スキャンダルは致命的だ。

 なんとか曖昧にその場その場をごまかして、いずれ穏便に別れようと思っていた。実花は大人ぶっているが思考の浅いところがあるし、美人でちやほやされ続けていたせいかプライドも高い。そこを上手いこと操作すれば、彼女のほうから離れていくように仕向けることは容易だ。

 容易なはず──だった。

 俺の意に反して、彼女はある日、いきなり暴挙に出た。

 何が実花をそうまで刺激させたのかは判らない。俺だって予想もしていなかった。妻に電話して、俺たちのことを暴露するなんて。

 その結果、妻は狂ったように取り乱した。今までだって、俺の女遊びには薄々気づいていても見ないフリをしていたようだったのに、今回ばかりは手のつけようがないほどに泣いて叫んで喚き散らした。これがあの大人しいばかりだった女かと唖然とするほどの変わりようだった。

 俺はとにかく会社には知られないよう、そこだけは最大限に注意しながら、二人の女を宥めようとした。どちらも、別れない、と言い張るのは一緒だ。朋子にはあの女とは手を切るからと言い、実花にはもう少し待ってくれれば別れるつもりだったのに君がぶち壊したと叱った。

 話し合いはまったく上手くいかなかった。何度少し時間を置こうと言っても、実花は絶対にイヤだ、あの奥さんにだけは負けたくない、とそればかりだ。どうしてこんなに頑なになってしまったのか、わけが判らなかった。

 そのうち、ふつりと朋子の糸が切れた。あんなにも別れない別れないと繰り返していたのが嘘のように、ぴたりと静かになって、弁護士を通して話をしましょうと言ってきたのだ。

 俺は朋子と別れるつもりはなかったのに、やって来た女性弁護士は、最初から離婚を前提にして話を進めた。慰謝料、養育費、その他の要求を次々に突きつけてくる彼女は、俺に対してずっと軽蔑の視線を向けていた。

 ──奥さんには何の非もありません。悪いのはすべてあなたです。まあ今さら何を言ったところであなたには届きそうもありませんけどね。騒ぎになるのがお嫌なら、これらの条件をすべて呑むことをお勧めしますよ。

 まるで人間のクズを見るようなその目と言い方に、俺はかっとなった。離婚の意思はないとどれだけ言おうと、弁護士は聞く耳を持たない。俺は俺の義務をちゃんと果たしたはずだと言っても、鼻で笑われて終わりだ。

 朋子が俺に向ける目には、すでに何の感情も宿っていなかった。ろくに化粧もしていない、無気力な顔。いつからこの女は、こんな顔をするようになっていたんだろう。

 まるで、幽霊のような。

 それを見て、ふと思った。


 もしもここで離婚を回避できても、この顔をこの先もずっと見続けていなければいけないのか。


 そう思うと、心底ぞっとした。もはや、俺にはなんの期待もしないという目、失望と落胆しかない表情には、嘲笑すらも浮かんでいない。これからもこんな抜け殻のような女と暮らしていくのなんて真っ平だ。

 それくらいなら、実花を妻にしたほうがいい、と、俺は考えを改めた。

 彼女は少なくとも俺のことを頼りにして、その目には変わらぬ尊敬の色がある。いろいろと足りないところはあるが、まだ若いのだから、いくらだって補充と矯正が可能だ。

 やり直そう、なにもかも新しく、と思った。

 そうだ、「年下の美人妻」と言えば、周りにも羨まれるだろう。専務クラスの男でも、妻が認知症になって介護が大変だ、などという話はよく聞く。せっかく勝ち組になったのにそれじゃあな、とそれに対して失笑していたのは自分じゃないか。

 古くなった妻は捨てて、新しい妻に乗り替える。それも悪くない。俺は朋子にも、相当腹を立てていた。今まで家のことをやるだけで呑気に生活できていたのは、誰のおかげだと思っている。せいぜい俺と別れて苦労すればいい。

 俺は離婚届に判を押した。

 ──判を押しながら、そういえば最後に朋子の笑ったところを見たのはいつだっけ、と不意に思った。


 どうしても、思い出せない。



          ***



 実花との結婚生活は、最初からぎくしゃくしていた。

 本人は夢心地でふわふわ浮かれているから気づかなかっただろうが、俺はいつも溜め息を押し殺すのがやっとという状況だった。

 実花は家事のあらゆる点で、朋子に劣っていた。何をやるにも雑。「家を綺麗にした」という言葉の内容が、俺の思う「綺麗」とはかけ離れている。あちこちに小物を揃えたり、花を飾ったりすることには余念がないが、その花を置く棚が汚れていては意味がない、ということにも気づかない。

 何かの雑誌で見たのだろうが、英語の書かれた気取った箱をいくつも並べてみたり、壁に安物の布を貼り付けたりして悦に入っている。かと思うと必要のないスタンド型のライトを購入したり、観葉植物をそこら中に置いていたりする。なんのためにあるんだと聞くと、だってオシャレでしょ? とけろりとした顔で返ってくるのだ。話にならない。

 彼女の作る手料理も酷いもので、何時間も煮込んだ、とか、本を読んでその通り作った、とか自慢げに言うその料理は、確かに見栄えはいいが俺の舌には合わないものばかりだった。大体、四十になろうという男が、そうそう毎日毎日、シチューやらビーフストロガノフやらを、喜ぶわけがないじゃないか。こってりしたものが多すぎて、俺は実花の作った夕食を食べた後は、いつもしばらく胸焼けがするくらいだった。

 一事が万事、そんな調子。つまり実花は、自分の頭の中に「理想の結婚生活」という幻想を作って、それに俺を付き合わせているに過ぎないのだ。その幻想は、まるでコマーシャルに出てくる映像のように実体がなく、そのくせ根強く居座っているのだから手に負えない。

 部屋のことや料理のことばかりではなく、実花は俺との間にも、幻想を押しつけようとしていた。彼女の中には、仲良く手を繋いで買い物をしたりだとか、一緒にキッチンに立って料理をつくったりだとか、記念日にはワインで乾杯したりだとかが、あるべき夫婦の姿だとしてインプットされているらしい。ドラマの見すぎだと俺は呆れた。なんという薄っぺらいことしか考えない女なのだろう。

 恋人としては、そういうところに可愛げだって感じよう。だが夫婦となったらそのままでいてもらっては困る。俺は彼女が夢のようなことを口にするたび、現実の生活はそんなもんじゃないんだと言い聞かせた。

 実花はそれを聞くと、必ず不満げに唇を尖らせてむっと黙り込んだ。



 だが、時間が経っても、実花の家事はちっとも朋子レベルまで近づくことがなかった。

 相変わらず、見た目にこだわりすぎて味やバランスは二の次、三の次。物をしまう場所も、あちこち変わって一定しない。こちらは十年以上、朋子の秩序だった収納方法に慣れきっているから、実花のよく判らない基準で分類されたものがどこにあるのか推測するのも難しい。ましてやその場所を気分でコロコロ入れ替わらせていたら、ペン一本探すだけでも一苦労だ。

 薬の類はすぐに手の届く場所にまとめて保管するのが普通だろう、と言っても、それはあなたと元の奥さんにとっての「普通」でしょ、と食って掛かられる。私の「普通」は違うの、前の家のことを持ち出すのはやめてよ、とムキになって怒るのを見ていると、こちらも興醒めして、それ以上は言う気にはならなかった。

 だが、実花が寝坊して朝食も摂らずに出社した時には、本当に情けなさで腸が煮えくり返った。何が悲しくて、この年齢で、空腹を抱えたまま会議に出なければならない。以前、朝寝たままの妻を起こさないように家を出る、と言った部下に、そんなろくでもない女をよく女房にする気になったなと思ったものだが、今の俺はまさにあれと同じだ。

 馬鹿じゃないのかと蔑んだ場所に、自分がいる。それは耐えられないほどの屈辱だった。

 朋子はこんなこと一度もなかった、と言いかけたが、俺はなんとか苦労してその言葉を呑み込んだ。

 前の妻と比べるようなことを少しでもすると、実花は途端に頭に血を昇らせるのだ。朋子と別れさせて、こうして俺を自分のものにしておきながら、そこまで敵視を続ける理由が判らない。離婚前の話し合いでは何度も言い争いになったが、その時だってどちらかといえば、朋子を罵倒していたのは実花のほうだったというのに。

 だったらせめてもっと努力をすればいいと思うのだが、実花は「私だって精一杯頑張ってる」と言い張る。頑張っていても結果に出なくてはしょうがないだろうに。

 専業主婦の仕事は家事だ。仕事である以上は、結果によって評価されるのは当たり前だと言うと、実花は、あなたはもう私の上司じゃないのよ、と叫んだ。



 ……近頃、よく朋子のことを考える。

 以前の朋子はよく笑う女だった。控えめに、しかし楽しそうに。

 俺は確かに、その顔を気に入っていたはずだった。当たり前だ、いくら家事が得意だって、他に好きなところが何もない女と結婚なんてしない。

 俺は朋子の笑う顔が好きだった。

 いつから彼女は笑わなくなってしまったんだろう。記憶にあるのは、家の中で、笑いもせず喋りもせず、ただ空気のように静かに座っていた女の姿だけだ。

 もう朋子が笑っていた顔がどんなだったかも、思い出せない。



 相手が元部下の実花であることは伏せていたが、離婚して再婚したことくらいは、もう社員の間に広まっていた。

 男の反応はどれも大体同じだ。既婚者ほど、若くて美人なんですってね、いいなあ、と羨む顔をする。最初のうちはいい気分で聞いていたが、そのうち、俺は気づいた。

 うちのカミさんなんてもうオンボロ、と言っていた男が、同じ口で、今度の休みはカミさんと一緒に海に行く、年を取ったら二人でのんびり家庭菜園をして暮らそうと約束してる、などと目尻を下げながら言う。その目、その顔には、自慢げなものが隠しようもなく現れている。そうやって妻と仲良くしている自分、妻を大事にしている自分が、なによりの誇りだというように。

 ああ、そうか、とそれを見て俺は思った。

 いいなあ羨ましいなあ、なんていうのは、単なる表向きの言葉なんだな。

 ──口ではなんて言おうとも、こいつにとっての「上等な人生」とはつまり、「一人の女性をずっと幸せにすること」なんだ。

 それが出来ない男は、こいつから見たら下の存在。だからこそ自分の妻のことを話す時、こんなにも優越感の滲み出た表情になっているんだ。

 バカバカしい考え方だ、と思う。妻だけを大事にするなんて、それは逆に言えば、相手をしてくれる女が妻しかいない、ということと同義だ。要はたった一人の女を捕まえた、という、それだけのこと。こんなに恥ずかしげもなく自慢するようなことじゃない。

 それなのに、どうしてこいつはこんなにも、勝ち誇ったような目をして俺を見るんだろう。

 ……どうして、どいつもこいつも。

 「岬君、新しい奥さんもらったんだって? 若くて美人なんだってね、いいねえ」と笑う上司の顔には、くっきりと冷ややかな嘲りの色が見えていた。多分、その目に俺は、長年連れ添った妻と子供を捨てて、若い女に走った哀れな男、としてしか映っていない。

 朋子を選んだ時に上げた株を、朋子を捨てることによって、俺は自分自身で暴落させたわけだ。

 はは、と乾いた笑いしか出てこない。

 上司の評判を落とし、部下の信頼を失って、部長の椅子は確実に俺から遠ざかった。

 この十年以上、俺は何をしていたのか。



 少々捨て鉢な気分になって、朋子に連絡を取った。

 娘のことを聞きたい、と俺は言った。未だに俺と会うことを拒み続けている娘は、もう高校生だ。会えないのならせめて話だけでも聞かせてもらえないか、と頼んだ。

 朋子は長いこと考えているようだったが、少し話すだけなら、と了承してくれた。

 ……今さら彼女と会ってどうしようというのか、自分にもよく判らない。

 ただ単に、俺という働き手を失って疲労困憊しているだろう彼女の顔を見て安心したいだけなのかもしれない。それとも、あの家に帰ってきて、と言われることを心のどこかで期待しているのかもしれない。

 もしもあの家に戻ったら、何もなかったことになるのだろうか。俺はまた以前のようにふんぞり返り、自分のことを勝ち組だと疑うこともせず、どいつもこいつも馬鹿ばっかりだと思えるようになるのだろうか。

 そう考えると、強烈なその欲求に引きつけられて頭の芯がくらくらした。なによりも居心地のよかったあの家の中の景色が頭に浮かんで、眩暈まで起こしそうだった。

 朋子は泣き出すかもしれない。昔から、気丈なところがある女じゃなかった。ある程度の大きな買い物には、必ず俺に聞かないと決められないくらいだった。娘が病気になっただけで不安になって、自分まで熱を出すこともあった。

 ローンと養育費は俺が支払っているが、生活費は自分で稼がなくてはいずれ困窮する。それが判っていても、ずっと専業主婦で、家事しかやってこなかった朋子に、働くなんて無理に決まっている。今頃きっと、現実の厳しさにぺしゃんこに押し潰されているだろう。

 娘と二人で、途方に暮れているかもしれない。

 もしもやり直そうと言われたら。復縁したいと言われたら。やっぱりあなたが必要なのだと言われたら。俺は、俺は──



 約束の日曜日、実花には休日出勤だと言って家を出た。

 最近の実花は、どこか虚ろな表情でボンヤリしている。以前までは休みに仕事だと言って家を出ると、必ずと言っていいほど疑いの眼差しを向けてきたものだが、今はそんなこともない。話すことも減って、窓の外を見てじっと黙っていることが多くなった。

 しかし俺のほうにだって、そんな彼女に気を廻す余裕はない。咎められたりあれこれ問い詰められたりしなくてよかったとホッとして、待ち合わせた喫茶店へと向かった。

 朋子は先に来ていた。

 店に入った俺を見ると、少しだけ頭を下げた。

 俺はなんとか狼狽を押し隠して、彼女の向かいの席に座った。前置きは別に必要ないと思ったのか、朋子が淡々と、娘の今の様子を話しだす。学校のこと、部活のこと、新しく始めたバイトのこと。元気でやっているから心配ない、ということと、やっぱりあなたには会いたくないそうです、ということを、他人事のような口調で語った。

 何度か勧めてはみたのだけど、あの子も言い出したら聞かない頑固なところがあるから──と、小さな溜め息をつきながらそう言って。

 ちょっとだけ、笑った。


 一瞬、心臓が止まりそうになった。


 塞がりかけた喉の奥から、今はどうやって暮らしているのかと声を絞り出すようにして訊ねると、彼女は生命保険の外交員として働いている、と言った。

 そこの所長が厳しくておっかない人で、何度怒られて泣いたか判らない。仕事も慣れなくて大変だ、勉強もしなきゃいけない。お客さんはいい人もいるけど、困ったことを言いだす人もいる。職場の同僚と、今度一緒に旅行に行くことになっている──

 朋子は、楽しそうな笑顔でそんなことを話した。

 短く切って、明るく染められた髪。少しふっくらとした血色のいい頬。笑う時には目尻がぐぐっと下がって、全体的に柔らかい印象を見る相手に与える。

 思い出した。

 朋子はこういう笑い方をする女だった。見合いして付き合い始めた頃、新婚の頃、子どもが生まれた頃、よくこういう顔で笑っていたじゃないか。

 どうして忘れてたんだ。

 いいや、そんな問いの答え、判りきっている。それを忘れてしまうほど、いつからか朋子は笑わなくなっていたからだ。ずっと長いこと、俺はその顔をまともに見ることもしなくなっていたからだ。どうして笑わなくなったのか、その理由について頭を働かせたことすらなかったからだ。

 他人の気持ちを読み取るのが得意だったはずの俺が、いちばん身近な存在の気持ちだけには、まったく気づかなかった。気づこうともしなかった。

 ──俺だ。

 実花のことがあるずっと前から、朋子は生気の乏しい無感動な表情になっていた。一切の期待をなくした目をするようになっていた。

 それはすべて、俺と一緒にいたからだったんだ。

 俺と結婚したことによって、朋子はこの笑顔を失った。そして別れたことによって、再びまたそれを取り戻した。それだけのことだ。

 やり直そうとも、復縁しようとも、言い出すはずがない。朋子は俺と離婚して、確実に何かを捨て、何かを得た。それをまたなくすことは絶対にしないだろう。

 俺が朋子を捨てたんじゃない。朋子が俺を捨てたんだ。

 何をどう答えたのかよく判らないまま、俺は朋子に別れを告げ、逃げるようにその喫茶店を出た。



 ふらふらとマンションに帰り着いて、インターフォンを押した。指が少し震えている。

 しっかりしないと。実花に動揺を見せるわけにいかない。

 玄関先に実花が出てきた。

 「おかえりなさい」と告げるその顔は、一片の笑みもない無表情だった。

 俺はそれを見て、その場に立ち尽くし、凍りついた。




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