アオハルの1ページ。
学校からの帰り道。いつもの見慣れた風景の中に、突然浮かび上がった制服姿。風にたなびく長い髪。袖口から覗く、白い肌。自転車を漕ぐ僕の足は、自然と止まっていた。
彼女は見知った制服を着ていた。自分と同じ学校のものだというのはすぐにわかった。
海岸通りから見える砂浜はすっかり朱に染まり、水平線の向こうでは、巨大な一日が姿を消そうとしていた。ぼんやりとそちらを見ていると、彼女が急に振り返った。
驚いたような表情の後、少しだけ、顔が悲しみに歪んだような気がした。けれども、すぐに気丈な目元に戻り、それから僕のことを手招いた。首を傾げると、その手振りは更に大きくなった。
「来なかったらあんたの負けだから!」
両手を口元にあて、彼女は叫んだ。
こだまする声に、僕は慌てて海岸への階段をおりた。これ以上無視したら、怒轟が飛ぶ気がしたからだ。
夕日を背に、彼女は仁王立ちをしていた。にんまりと微笑んでいた。
「あたしと喧嘩をしよう」と、彼女はいきなり提案してきた。
僕はちょうど靴に溜まった砂を吐き出していたところで、体重をかけていた左足は、更に深く砂浜に沈んでしまっていた。
「今、何て言ったの?」
「今日、あたしはここで喧嘩する予定だったのよ」
「誰と?」
「でも、そいつは来ないから、だからあんたがあたしと喧嘩して」
ちっとも噛み合わない会話に、その場にくずおれそうになる。
「僕ら初対面だろ?」
「だから何? きっとどこかで会ってるわ。同じ学校だし」
戸惑うこちらにお構いなしに、彼女は拳を突き出してきた。咄嗟に避けてしまったので、彼女の身体が大きく揺れる。僕はバランスを崩して、尻もちをつく。
「喧嘩って、殴り合い?」
「そうよ。正々堂々、尋常に勝負!」
こちらがすぐさま動けないのを良いことに、彼女は小さなブローを繰り出してくる。もう少しスピードが速かったら当たっていたかもしれない。
「わかった、わかったから。待ってくれ」
応戦するわけにもいかず、打つ手なしの僕は両手で必死に彼女を制した。
「君がやりたいことはわかった。でも、僕はやりたくない。だから、中間をとらないか?」
「中間?」
「そうだ。要するに君は勝負がしたいんだろ? 勝敗が決まればいいわけだ。何も、傷つけあうこともないと思うんだよ。な? だから、別の方法を考えよう」
「別の方法って例えば、何よ」
「じゃんけん三本勝負、とか……」
生憎、頭に浮かんだのがそれしかなかった。彼女は自分の拳の具合を確かめるように、開いたり閉じたりしながら、少しの間、沈黙した。いつまた再び、「問答無用!」と鉄拳がくるかもわからないので、僕は防御姿勢だけは崩さないようにしていた。
やがて、「まあ、いっか」と何かに納得したように顔をあげて、
「やりましょうか、じゃんけん」
双方の意見が一致し、『最初はグー』のスタイルから始めることになった。掛け声は彼女が言いたいとのことなので、任せることにした。
「ちなみにさ……」と、今更ながら頭によぎった質問をする。
「これ負けた場合の罰ゲームとかって、ないよね。勝敗が決まればそれでオーケーなんだよね?」
「何言ってんの。そんなのもう決まってるから」
「え」
僕がポカンとしたところで「最初はグー!」と、彼女の発声が始まった。これまで何度もやっているからだろう、脳は混乱しながらもグーの手が反射的に出る。
「じゃんけん、ポイッ!」
夕日がスポットライトのように、僕たち二人の手を照らしていた。長い影が海と反対の方向へと伸びている。さざなみの音が静かに響いていた。
「ふふん」と、彼女は笑う。彼女が出したのはチョキ。はさみだった。
対して、僕は自分の手のひらを見つめていた。パー。紙だ。彼女のはさみが、僕の紙を縦横無尽に切り裂いていく様を想像した。一本目は僕の負けだった。
続いて二本目は、彼女がグー。僕がパーで、今度は僕の勝ちだった。
「ねえ、さっきの続きなんだけど」
三本目が終われば、勝敗は決まってしまう。その前に、話をつけておきたかった。敗者には罰ゲームとか、勝者には相手を自由にできる特権があるとか、そういったものがあらかじめ決められているのだとしたら、教えといてもらわないと困る。
「大丈夫。あんたは代行だから」と、彼女は言う。
いったい誰の? 結局疑問しか残らない。
そして、三度目のジャンケンが始まる。
「ポイッ!」で出された手は、彼女がチョキで、僕がパーだった。
「僕の負けだね」
「そっか。あたしの勝ち、か」
てっきり歓声の一つでもあげると思っていたが、彼女は黙ったまま、チョキの手を弄んでいた。そこに、なぜか喜びの表情はない。
「君が勝ったら、どうなるの?」
もとい、僕が負けたらどうなるのか。主に、僕はどうなるのかを聞きたかった。
彼女は大きく息を吐いた。それから、思い切り伸びをし、砂浜に静かに腰掛けた。
「あたしが勝ったら、あたしの気持ちを認めて欲しい」
「へ?」
まったく身に覚えのないことを言われ、思わず素っ頓狂な声が出た。彼女はくすっと笑った。
「もしあたしが負けたら、全部綺麗さっぱり忘れてあきらめる。そういう約束だったの」
代行、と先ほど言われたことの意味が、ようやくわかった気がした。
僕はあくまで、ここに来るはずだった喧嘩相手の代わりに勝負をしていただけだったのだ。でなければ、ここで決まるはずだった勝敗は、来ない時点で相手の不戦敗になってしまう。
風がそよぎ、彼女の髪を揺らす。水平線に見える太陽はもう半分以上、海面に浸かっている。僕は半歩間をあけて、彼女の隣に座った。
「君は、負けたかったの?」と、僕は訊いた。
不戦敗だろうと、代理人が敗北しようと、結局は彼女の勝利に変わりがなかった。そして、その結果を受けとるべき相手がいないという事実も同じだった。
彼女が負けること。それが唯一、自己で受けとめられる結果だった。
「それでもいいと思った」と、彼女は答えた。膝を抱え、その間に顔をうずめる。
「だって、そうしたらもうこれ以上、悩まなくて済むじゃない」
潮騒が奏でる音が、途端に物悲しく聞こえる。結局、約束の相手は誰だったのか。男なのか女なのか、年齢や関係性、彼女自身の気持ちについて、彼女がそれ以上、説明することはなかった。
けれど、この短い間にわかったことがある。
茜色の空を横切る飛行機雲を見ながら、僕は小さな声で呟いた。
「君の気持ち、認めるよ」
来ない相手をひたすら待ち、正々堂々の勝負にこだわる。
直球で正直、素直で誠実。
ただひたすらに、まっすぐで。
関係のない僕だけど、認めざるをえない。
顔をあげた彼女はキョトンとこちらを見やり、それから照れくさそうに微笑んだ。
「あんたに認めてもらっても、仕方ないんだけど……」
もっともだ、と僕も笑った。
彼女が小さく、「よしっ」と息を吐いた。勢い良く立ち上がり、突然靴と靴下を脱いで、裸足のまま海へとジャブジャブ入っていくので、僕は面食らう。
口元に手をあて、水平線の向こうへと届かせるように大きく叫ぶ。
「もおおおおおおぉぉぉー! 大ッ嫌いだああああああぁぁー! バカぁぁー!」
肩が大きく上下していた。彼女はこちらを振り返った。
髪と頬が夕焼け色に染まっている。すっきりとした満面の笑みで、ピースをする。
僕は手を振り返す。手招きされたので、今度は拒否の意を込めて大きく振る。
そこで、僕は気づく。
ああ、やっぱり僕はパーで彼女に負けるのだ。
彼女は不服そうだったが、幸いにも怒声をあげることはなかった。
帰り際、彼女は申し訳なさそうに謝ってきた。しおらしさが不気味だと僕が言うと、手のひらを返したように、自分は勝利したのだから何かくれと言い出した。
「代行だから、僕は関係ないんじゃなかったの」
「それはそれ、これはこれ」
何かとんでもないことを言われるのではないかと身構えていると、ちょっとだけ言いにくそうに、
「学年とクラスと名前、教えなさいよ」
あからさまに視線を逸らしているので、笑いを堪えながら僕は二年C組の某だと告げた。
「げ! 先輩じゃん! サーセン!」
後輩である彼女は、伊藤蝶子というそうだ。
「よろしく!」と気安く握手を求めてくる様子から、伊藤蝶子が僕を先輩だと認識したのは一瞬だけのようだった。
夕日をバックに手を差し出す彼女は、今後僕を別の世界へと導いていく。そんな予感がした。
それは良いものかもしれないし、悪いものかもしれない。
しかし少なくとも、砂浜の上で女の子とじゃんけん勝負をしたことは、僕の思い出の一ページに確かに刻まれた。それは、良い思い出として。
【満面の笑顔の女の子が、夕日を背に仁王立ちをしている。】
以前、そのようなお題?リクエスト?をもらったような、もらっていないような?そんな曖昧な記憶から書き始めました。
あと、最近個人的に「アオハル(青春)」ブームなので、そういった雰囲気にも挑戦しました。
少しでも伝わったら嬉しいです。