狼将軍と別れについて
いきなりですがシリアス編です。
幾ら狼将軍に常春が舞い降りていようと政情によって引き起こされる嵐は容赦なく襲いかかってくる。
狼将軍は機動力に特化した、少数精鋭部隊を率いる軍人だ。普段から諜報や工作活動に勤しんでいる彼等だからこそ、迫り来る戦の兆候をいち早く捉えていた。
「先月から北の国境線付近に複数の帝国人が目撃されている。民間人に扮してはいるが、十中八九あちらさんの偵察兵だろうな」
この場には主立った軍上層部が一堂に会している。招集したのは上座に腰掛ける壮年の男だ。むくつけき野郎共の中では貧弱とさえ言えるが、存在感だけは誰よりも大きい。その彼こそが第30代国主、クランドルフィルロロフェントーーロロ様の愛称で国民に慕われているその人だった。
「懲りない連中だ。たった3年前のことをもう忘れたのか?」
代替わりと同じくして度々戦争を仕掛けては大敗北を喫している、北の帝国ホルナーツ。人間至上主義を掲げそれ以外を下等とみなす、その母体は嘗て彼等を迫害した国々の成れの果てであり、イルペルス王国にとっても決して相容れることのない国だ。国民達も、永年の融和により人間に対する嫌悪感は徐々に失われたが、度々平穏を崩す帝国人に対しての悪感情が消えることはない。幸いというべきか、教育の行き届いているイルペルス国民は、安直に帝国人全員を悪と断じることはなく、一部の支配階級が悪いのだと知っている。
というのも、隣国の同じ人間を人間と思わぬ所業を目の当たりにしてきたからだ。領主がある領民を気に入らなかったからというだけで殺人が罷り通り、飢えに喘いでも重税は容赦なく取り立てられる等々、挙げればきりがない。実際、戦場の最前線に送られてくる多くが正規の軍人ではなく、地方から無理矢理集められたただの寄せ集めだ。残された家族の為に決死で向かってくる彼等を屠るイルペルス人を残虐だと帝国人は喧伝するが、此方に言わせれば帝国人の遣り口の方が余程卑劣で非道だった。真実を知った捕虜の多くが自国に戻らず、帰化していくのもそういった理由である。
「その皇帝が最近暗殺されたのは知ってんだろ?んで、帝位を巡って上の連中はごたついてるらしい。その中でも軍閥派を多く抱えている第4皇子?かなんかが、手っ取り早く人気取りをする為にちょっかい掛けてきていると。だよな、グランティルド?」
「はい。その馬鹿に加えて功を焦った馬鹿共が更に尻馬に乗り、というのが此度の大規模な遠征の真相です」
「は?大規模とかって初耳なんだけど」
「明朝部下より届いた報せです。数は10万を超えると」
通常における規模の約3倍の動員数に動揺が奔る。それを支持する形で、陸軍元帥がつい今しがた入った情報を口にして、場内の空気が張り詰めた。
「……いっそ革命でも起こしちゃう?だってさ、もうあの国馬鹿すぎるだろ」
国民から絞り尽くして国力の低下が著しいところへ更に大規模な遠征となれば、国民の不満が爆発するのも時間の問題だ。旗印になるような人物にも幾つか心当たりがあるし、こうなったら上層部の首を綺麗に挿げ替える方が楽である。建国以来2千年も我慢し続けたのだ、もうそろそろ怒っていいよね?という具合に、イルペルス王国は建国後初めて大きな舵を切ることになった。
狼将軍を頂点とする第8大隊に与えられた命は、本作戦において最も重要とされる革命の誘発及び支援だった。何時もなら任務前に部下達へ与える休日の3日間も、彼にとっては準備期間ということで休む間もなく根回しすべく働くが、この時初めて彼は仕事と私事を秤にかけることになった。十数秒に亘る熟考の上、1日だけ休みにする事を自分に許す。残りの2日で全ての用意を万全にすべく、彼は精力的に動き出した。
最後の1日、任務を言い渡されてより考えないようにしていた苦悩が一気に噴出した。即ち、なんと恋人に伝えるべきか。ここにきて漸く、部下達の嘆きの一端を知った彼である。名残惜しんで泣き叫ぶ部下を容赦なく気絶させて任地へ赴いた過去の行いを思い返し、あれは流石に可哀想だったと今にして反省した。とはいえ同じようなことが繰り返されたらやっぱり同じ行動を取るのだろうが。いや、この場合彼が気絶させられる立場になるのか?いやいや、下手すれば返り討ちにしそうだ。答えの出ない難問に悶々としながら約束の時は来る。
鍵を持っているにも拘らず、律儀にドアベルを鳴らす彼女に思わず笑みが零れる。そのまま出迎えた彼は、玄関の扉を閉めるなり小柄な体を腕の中に閉じ込めた。
「アリア!俺のアリアンジュ……!」
手放したくなかった。手放せるわけがなかった。身元をなるべく隠すために自分の特徴となるものは一切持っていけない。それは、世界にただ一つだけの“アリアンジュの花”の香りも例外ではなかった。肌を合わせた拍子に移ってしまった香りも、明日には消さなければならない。
彼は大事な花を大きなソファに座らせると、視線を合わせるために跪いた。膝に乗せられた小さな手を彼のもので包む。
「明日、戦場へ行く」
ほんの些細な動きも見逃さぬよう、慎重に合わせた深緑の瞳から外さない。彼は珍しく緊張していた。以前にも同じようなことを言いはしたが、一方的に告げてそのまま家を出たのだ。久方ぶりに帰ってみれば空っぽの家。当時は冷静に受け止められたが、今なら絶対に平静ではいられないだろう。2度と繰り返さないためにも、ここで間違えるわけにはいかなかった。
彼女の色付いた唇が戦慄き、きつく噛み締められた。目が零れ落ちるくらい大きく開かれ、興奮に纏っていた香りがいっそう強まった。一気に鼓動が早まり、翠玉に薄い水の膜が張られる。
「気を、つけて……いってらしゃ……ませ」
頬絵もうとして失敗した顔がくしゃりと歪む。彼を想って全身で悲しみを表す彼女に悦びを憶えながら抱き寄せる。素直に彼へ縋る彼女が愛おしい。甘い温もりに酔いしれながら、泣き止むのを大人しく待つ。
「アリア」
落ち着いたはいいが、今度は泣いた後の醜い顔を見られたくないと、濡れた胸元に顔を伏せる彼女の頬へ指を這わせる。
「はい」
「ここの庭に“アリアンジュの花”を咲かせてくれないか?」
驚きに顔を上げた彼女へ口付けて、ずっと暖めていた想いを告げる。正直に言えば、彼女が心身共に育つまで待つつもりでいたのだ。3年前の侵攻を退けてから、それくらいの平穏は十分保たれるだろうと高を括っていた。だが国王が一時でない永い平穏のために、今を犠牲にして根幹を断つことを決めた。軍人である彼に拒否権はなく、また働き次第で国の安寧が得られるなら安いものだ、と嘗ての彼ならば思っただろう。今の彼は違う。彼女と共にある未来を望む。確かな希望を得るために、彼は自分の戦場へ行く。
しかし、その間に彼女が花盗人に奪われては本末転倒だ。だから僅かな隙も与えない。彼女の父である伯爵に話も通してある。母親の方は……帰ってからでも良いだろう。
「あの、グラン様。それは、」
「御義父君から伺った花人式の求婚だが伝わらなかったか?……ふむ。では改めて俺と結婚してくれないか、アリアンジュ」
万が一にも断られたら立ち直れないかもしれない、と危惧しつつ表面では平静を保つ。答えを探すように繋いだ指先を絡めては解くのを繰り返す彼女は、やがて小さく頷いた。
「アリア!」
彼は感極まったまま小さな身体を持ち上げ、熱の篭った眼差しで見上げたが、無垢なる様子で可愛らしく小首を傾げる彼女に理性を取り戻し、やがてゆっくりと膝の上に下ろした。代わりに髪を撫でながら優しく啄ばむだけの口付けをする。この時、寸でのところで間に合った理性に安堵したのは言うまでもない。
狼将軍は明るい未来のために一時の別れを選ぶ。欲求不満に裏打ちされた獅子奮迅の働きぶりが功を奏し、帝国が倒れるのはそれから2年後の話だ。