Malice in the Raven(漆黒に潜む悪意)
「パンパカパーン」腐臭が染み付いた布切れで由里の頭部を押さえていたもう一人の金髪が、頭上で無情なファンファーレを口ずさむ。カーゴパンツのドローコードに男の手がかかった。涙で視界がぼやける。嘔吐感のせいよ、こんなことで泣いてたまるもんですか。連続暴行魔の取材にあたった時、サディスティックな嗜好を持つ者に、被害者の涙は絶妙のエッセンスになる、と犯罪心理学者が言っていたのを思い出した。私はまた選択を誤ったの? 思考の焦点を変え、体に力を取り戻そうとする。
廃屋に車のエンジン音が近づいてくるようだ。再び声を上げようとするが、押しつけられた布切れが猿轡のようになって呻き声さえミュートされてしまう。
周囲がぱっと明るくなった。眩しそうに光源に顔を向けた男の近くで、ボコンと音がして腹部の圧迫が消える。圧し掛かっていた男が転げ落ちた。
「スットライーク! バッターアウトォ」
胴間声が光源の向こうから上がる。転がった男がこめかみを押さえながら、のろのろと立ち上がった。何が起きたのだろう? 下半身の自由は取り戻したが、依然頭と腕は床に押しつけられたまま、懸命に目線を振ろうとした瞬間、シュッと風を切る音がして、再びボコッという音が響く。今度は頭を押さえつけていた男がもんどりうって倒れた。由里はすかさず上体を起こす。両腕の拘束もなくなっていた。エネルギーを使い果たし、力なく転る白い球体が音の発生源だったようだ。野球のボール? まさか……自身の置かれた状況との違和感がそれの正体を認め難くしていた。
「助けてっ」
解放された声帯を通る声はかすれる。由里が意図したほどの音量にはなっていなかっただろう。
「ツーアウトー」
「誰だっ」
怒声を放って男達が光源に向き直る。四人組だった。そして近づいてくる人影は二つ。逆光で人相風体までは確認出来ない。
「正義の味方に決まってるじゃねえか。大の男が、よってたかって一人の女をレイプしようたあ、男の風上にも置けねえ。お天道様が許しても俺達が許しやしねえんだよ」
時代劇でしか聞けないような台詞だったが、どうやら助けには違いなさそうだ。体の自由を取り戻した由里は壁に背中がつくまで後ずさって様子を見守る。光芒の中にヘルメットを被ったツナギ姿の男達が現れた。伸び放題のヒゲをたくわえた声の主は、避難所で見かけた人々と変わらない風体だが、何故だか満面の笑みを浮かべている。もう一人は……客観を文章にするのが職業の由里でさえ、咄嗟には特徴を見いだせない――それほど平凡な外見の男だった。その表情には何の感情も宿してないように見える。赤い手袋の甲部分、反射材がキラキラと輝きを放っていた。
「こっちは四人だぜ、たった二人で何が出来ると思ってやがる」
数的有利を主張する金髪男だったが、ヒゲ男の笑みは消えない。
「数にモノ言わすには、倍じゃあ足りねえな。じゃじゃーん、これなあんだ?」
ヒゲ男が光芒からシルエットをずらし右手に携えていた棒状の物体を差し出す。依然、緊張感の欠片も感じさせない口調だった。
声の主が差しだす物に目を凝らそうと、もう一人の金髪が足を踏み出した瞬間、それがさっと反転し、金髪の横面を鈍い音を立て打ちすえた。金髪は呻き声一つ上げず昏倒した。杖? 由里の目には、そうとしか映らなかった。
「バカが見るうブタのケツー。ほれ、三人になっちまったぞ」
状況を考えれば二人の男は救いの神のはずだったのだが、登場からこの瞬間までの状況に似つかわしくない発言の数々に、由里の恐怖は去らない。無表情男の方は、ただの一言も発していなかった。
「やりやがったな」と叫んで長髪の男が尻ポケットから何かを取り出す。ギラギラと光を反射させるそれは刃物のように見えた。
「あ、ナイフなんか持ってやがるのか卑怯者め。だったら軟球じゃなく硬球にしとくんだったな」
「何、訳の分からないことを言ってやがる」
声を荒げて、威嚇する暴漢達の狭間を影がすり抜けた。くぐもったような音と、うっと唸る声、そしてドサッと人の倒れる様な音が聞こえた。。由里は壁に預けた体重を両足に戻し、状況を把握しようと身を乗り出す。四人の暴漢は床に這いつくばっていた。とりあえずの安堵感と諸々の感覚が戻り、震える足が体重を支えきれなくなる。由里はその場にしゃがみ込んだ。ヒゲ男が変わらぬ調子で由里に言った。
「大丈夫か、お嬢ちゃん。こんな真っ暗がりを女一人で出歩くんじゃねえよ。レイプして下さいって、言ってるようなもんだぜ」
「事情があって……」
震える声だった。通じただろうか――由里の疑問はヒゲ男の返事が取り除く。
「どんな事情があろうとも、だ。聞いてねえのか? 震災で服役中の犯罪者まで釈放しちゃってるんだぜ、ここいらは」
そうだった――外国人強盗団や頻発するレイプの話は、避難所の女性から聞いたばかりだった。
「で、あなた方は?」
「あれ?聞いてなかったのか? 登場シーンで言ったろ正義の味方だ、って。ほれこうすれば、まんま怪傑ハリマオだろう」
そう言うと、後ろポケットからタオルらしき布切れを取り出しヘルメットを脱ぎ捨てた顔に巻きつける。この瞬間まで一言も発することのなかったもう一人が、笑いを含んだ声で指摘した。
「小野木さん、若い女性に怪傑ハリマオは分からないと思いますよ」
「ちぇっ、そうか。東北くんだりまで出張って、自警団の真似ごとまでするつもりなんかなかったからな。こうなるとわかってりゃ、ウルトラマンのお面でも持ってこればよかったぜ」
小野木と呼ばれた男は、心底残念そうな顔をした。
この二人は信頼出来る人間なのだろうか――取り憑かれた恐怖からは解放されつつあったが、本来の冷静な思考は戻っていない。話すんだ、話して彼等の正体を見極めよう。ヒゲ男はオノギというのだな――声が震えないよう注意して由里は続けた。
「とにかく、ありがとうございました。それは?」
ヒゲ男が手にした長い棒を指差す。
「これか? 拾ったんだ。薙刀だ。刃は模造だから装飾品なんだろうな」
楽しそうに、手にした薙刀を掲げる。
「拾得物横領ですよ」
「固いこというなよ、自治体でさえ被災した車からガソリンを抜くことを許可したんだぜ。言うなれば超法規的措置ってヤツさ」
「超法規的措置は、個人には適用されません」
ヒゲ男はおもしろくなさそうな顔になり小声でボヤく。「助けてやったのに、可愛げのねえ小娘だ」そう言ったように聞こえた。
「まあいい、送ってやろう。どこの避難所だ? 怖がるこたあないぞ。俺には可愛い嫁さんとガキが居るし、こっちのカジさんにも見たことないけどキレイな嫁さんがいる……らしい。安心だろ?」
男の顔はススと埃、そして顔の三分の一を覆うヒゲで年齢が判断しにくいが、明らかに中年といえそうな風体だ。無表情男はカジというのか、男というものは恋愛感情抜きでも女性を抱けるものだと由里は知っている。風俗産業が成立しているのがいい例だ。そんな事を言われても安心などできるものか、本来の思考が戻ってきたようだ。
「いえ、私は雑誌記者でして――」
「そうか、取材クルーとはぐれちまったって訳か。探してやるよ」
今度は無線機らしき物を胸ポケットから取り出す。慌てて手を挙げて制した。話を最後まで聞こうとしない人だな。暴漢とのやり取りといい、かなり独善的な人間なのだろうと推察する。
「違うんです。私は最初から一人でここに――それに車がすぐそこに置いてありますので送っていただく必要はありません」
「外のRVか? タイヤが四本共パンクさせられてるぞ」
「……えっ?」
「上手くこいつ等の手をかいくぐって車に辿りついても、そこから逃げられねえようにって企みだと思う。手慣れてやがる、きっと常習犯だな。ま、お嬢ちゃんが無事だったのが何よりだ」
爪先から頭までを不遠慮な視線で眺めまわす。由里は反射的に胸の前で手を交差させた。
「はい、お陰さまで何ともありません。でも、そのお嬢ちゃんは止めてもらえませんか」
「おっと、気を悪くさせたならごめんよ。まあこんな状況だ、セクハラだって訴えるのだけは勘弁してくれよな。見た所、せいぜい二十代半ばってとこだろう? 俺んとこの下の娘がそのぐらいでな」
そう言うと小野木は照れ臭そうに笑った。私と同年輩の娘? ついさっき〝ガキ〟と言わなかっただろうか? そんなことはどうでもいい、ここへ来た目的を思い出し由里は周囲を見回す。
「探し物はこれかな」
音も立てずに由里の隣に立ったカジが、シャンパンゴールドの筐体を差し出す。由里は驚いてヒッと声を上げそうになる。
「そうです、やはりここで落としていたんだ」
「いや、そいつのポケットに入っていた。探し物にくる女性を待ち伏せてレイプする連中が居ると聞いている。どうやらこいつ等がそうらしい」
カジは抑揚感じさせない声でそう告げると、だらしなく体を弛緩させたままの金髪男を指差した。
「ICレコーダーか? 仕事熱心なのも結構だが、命あってのものだねだからな。今後、夜の出歩きは禁止。そうそう上手いこと俺達みたいなのが通りかかるとは限らねえぞ」
まだ、あなた方を信用した訳ではない。由里は内心で反論を唱える。
暴漢の一人が目を覚ます気配がして、小野木がもう一人に目配せを送る。光芒を避けた暗闇の中、ゴンと音がして、体を起しかけた男が再び倒れ込む様子が感じ取れた。
「尚が到着するまでには、まだ時間がある。もうちょい寝ててもらおう。また起きると面倒くさいな。縛っておくか」
そう呟くと、背負っていたリュックから細長いものを取り出し、気を失っている四人の手足を手際良く縛りあげて行く。結束バンドだったようだ。他にも仲間が居るのだろうか? 由里はその疑問を口にした。
「ナオって誰なんですか?」
「自衛官だよ、ここいらで復旧作業にあたってる。こいつ等を引き渡すつもりで呼んだんだ。寒い中悪いが、もう少し待っててくれ」
「わかりました――車がダメならどうせ身動きできませんし」
二人の言葉は、この地方のものではなくイントネーションを隠しているようでもない。一体何者なのだろう。本物の自警団なんだろうか? 正体を探ってやろうと口を開きかけた時、外でブレーキの軋み音がして声が上がった。