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LOST

 特定のブランドに拘りがあった訳ではない。ただ、チェックアウトに並ぶフロントクロークで、誰もが同じ香りを漂わすことには抵抗を感じる。それがホテルのアメニティを使わない理由だった。コスメショップでもらうサンプルは、いつも出張用にととってあった。

 狭いバスタブではあったが、冷えた身体が温もりを取り戻すと、身も心も新品になったような気分になれる。全身に染みついてしまったかと思われた異臭は、ボディソープの香りにとって代わる。アメニティのネットに小さな固形石鹸を入れ即席の愛車用フレグランスを作ると、その閃きに小さく喝采を贈った。

 温度差だけではない。人、街、空気のどれもが由里の住む都心とは違う異国に迷い込んだ感覚があった。あの時はこんな気持にはならなかったのに……今は海の向こうで暮らす恋人とこの地を訪れた記憶を辿る。歓迎されて当然の観光客と、どちらかと言えば来訪を迷惑がられるマスコミに身を置く今、比較すること自体が乱暴な行為だった。

 書こう――現在に意識を引き戻して、ラップトップを開くとエディタを立ち上げる。カメラから抜き出したメディアをスロットに入れると小さな記憶媒体に収められた画像が表示される。問題ないみたいね――落下させたパソコンへの不安は解消されたが、見慣れた機材の列に不足因子があった。

 え……どこ? コート、カーゴパンツのそれぞれのポケット、取材バッグも隅々まで探るが目当てのものは見つからない。被災地の状況、写真の背景描写、避難所の女性のインタビューを収めたはずのICレコーダーが見当たらなかった。

 足を踏み入れた石巻の廃屋で、バッグの中身を散乱させたことを思い出す。あの時……、落下させたパソコンにばかり気を取られ帰路の車内でもICレコーダーの所在を確認することはなかった。もう、バカなんだからっ! つい数分前に贈った喝采はこの失態が帳消しにしていた。

 東部道路から見えた家電量販店に看板の灯は入っていた。現在ではポピュラーになったICレコーダーだ、機種に拘らなければ入手出来る。明日以降はそれを使えばいい。今日の記憶なんだ、書けないはずはない。キーボードに手を置くが、指は音楽を待つ踊り子のように動きを止めたままだった。

 冗談でしょ、老人じゃあるまいし――苛立ちの中、再び記憶の断片を拾い集めようとする。被災地の惨状に衝撃を受け、女性の話に使命感を感じたのは何に? どんな言葉にインスパイアされたんだっけ?  状況を思い浮かべよう。そうすれば記憶はそれに導かれるはず。しかし頭に浮かぶものは恋人との別れの場面であったり、兄との諍いだったりで、キーボードに置かれた指はダンスの開演を拒否する。デジタル機器の利便性に頼り過ぎていた自分が情けなく思えた。

 お風呂も済ませて、メイクも落としちゃったのよ。お願い、働いて私の頭と指。懇願はパペッツの回路(※)を素通りして行く。余震に備え、ホテル備え付けの浴衣ではなく取材用の活動的な衣装に身を包んだ姿が鏡に映り、語りかけてきた。

「記事になったら送るって言ったわよね? あの女性の名前を覚えてる? 住所はどう?」

「わかったわよ、行けばいいんでしょう、行けば]

 鏡の中、融通の利かないもう一人の自分の説得に由里は屈した。コートのポケットに免許証と小銭入れを突っ込むと、溜息と共にRAV4のスマートキーを握りしめた。もしかしたら車の中に落としているかも知れない。その期待もなくはなかった。エレベーターを待つ時間が長く感じられる。小さな子供が、呼び戻しボタンを連打する気持が理解出来た。

 一枚ずつRAV4のドアを開いては、隅々まで丁寧にライトで照らす。

……ない……もしかして――

 最後に祈るような気持ちで荷室のドアを開く。儚い期待は水泡と帰した。

「いいわ、どうせ真っ暗なんだし眉毛が半分なくったって誰も見やしないんだから。さっと行ってさっと拾って帰る。これで見つからなかったら諦めてよね」

 ルームミラーに映るもう一人の由里が、静かに目を閉じ大きな動作で満足げに頷いたように見えた。


 土地勘がない上、目印になる建物もない。『●●のある交差点を右です』カーナビの案内音声に「だから、なくなってるんだってば」と何度、突っ込みをいれたことだろう。地点登録をしていなければ辿り着けなかったに違いない。街路灯は全てなぎ倒され、数えるほど残る建物にも灯りはない。そもそも電気を運ぶ電柱が倒壊してしまっていたのだ。漆黒と静寂が支配する廃墟に、海鳥の鳴く声だけが遠く響き渡っていた。

 訪れた時に車を停めた辺りの数メートル手前に小型RVを停車させ、ヘッドライトを頼りに周辺を探る。しかしシャンパンゴールドのICレコーダーは見つからない。やはり中かな? 全部拾い集めたと思ったんだけどな……LEDライトで足元を照らしながらゆっくりと歩を進める。釘でも踏み抜いたら大変だ。避難所で破傷風が流行しているというニュースを聞いていた。先進国であるこの日本で、今時破傷風か……この地方の実情を物語っているようだな。編集室で耳にした時には他人事のように感じられたそれが、今や身近な脅威となっていた。

 破壊され、ガラスのなくなったサッシの枠にグローブをした手を掛け、ライトを持つ手を挿し入れる。物陰から伸びた何かが由里の腕を掴むと、あっという間に廃屋内に引きずりこまれた。数本の腕が体の自由を奪って床に引き倒す。

「次回が、こんなに早く来るとは思ってなかったべ」

 聞き覚えのあるイントネーションが暗闇から起こる。あの時の――声を上げようとした瞬間、口を塞がれ頭部を床に押しつけられた。強烈な匂いと恐怖に吐き気がこみ上げる。こんなところでこんな奴等に……押さえ込まれた両手を引き剥がそうとするのだが微動だにしない。何人居るの? 腰に圧し掛かった男を膝で蹴り上げようともするのだが、ストロークも力も足りない。

「おとなしくしろって、ねえちゃん。命までとろうってんじゃない、ちょいと楽しませてもらえばいい話だ。何もヴァージンって訳でもねえべ?」

 下卑た声、野卑な笑いが方々から聞こえた。異臭たちこめる廃屋の中、上川資材部長の忠告が脳裏に蘇る。『暗くなってからは出歩くな』

「暴れるんじゃねえよ、分かってねえな。ここでぶっ殺しちまってもいいんだぜ。まだまだ死体がゴロゴロ転がってるんだ。ひとつやふたつ増えたところで誰も怪しみゃあしない。このご時世だ、検視もしないってんだから俺達はやりたい放題って訳よ」

 脅しなのか本気なのか分からないが、その恫喝に気持ちがくじけそうになる。本気で抗えばレイプなんて出来っこない。そう信じていた由里だったが、恐怖に委縮した四肢が意思の支配下を逃れようとする。

 ようやく暗闇に目が慣れてきた。腰辺りに圧し掛かかった金髪が、ファーの付いたダウンジャケットを忙しなく脱ぎ捨て、由里のコートに手を掛けると荒々しくたくし上げた


 ※海馬-脳弓・乳頭体-視床-帯状回-海馬を結ぶ回路をパペッツの回路と呼び、脳内で記憶を司る部位と考えられているそうです


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