隠滅のサンクチュアリ
「これが支社ですって……」
六階建ての灰色のビルを見上げる。所々剥がれ落ちた壁のコンクリートは、震災の影響なのか建物の老朽化のせいなのか判別し辛い。入居社案内には最上階の一室が光栄社仙台支社と記されていた。小さくても自社ビル――少なくともフロアを打ち抜いたオフィス規模を予想していた由里を落胆の暗幕が覆う。
この建物のフロアを打ち抜きにしたところで、アクティブの編集室程度しかないのだろうな、宿泊設備は機能しているのだろうか。支社を根城にと立てた取材プランが泡沫と消えそうな予感に溜息が漏れた。
エレベーターには休止中と貼紙があり、六階まで階段を上る羽目となる。若い彼女の体力を以てしても上がり終えた時には肩で息をするほどの運動量だった。数秒を費やして呼吸を整え〝光栄社 仙台支社〟とプレートの貼り付けられたドアをノックする。「どうぞー」との声に、重いスチールドアを引き開けた。
「おはようございます。アクティブの仙道です。連絡が入っていると思いますが」
「あ……御苦労さまです。松山デスクから聞いています。僕は支社長の内藤です」
三十代前半ぐらいだろうか、線の細い男が乱雑なオフィスの奥で体を起こした。どうやら、並べた机の上で寝ていたようだ。文言は標準語だが東北訛りが感じられる。現地採用なのだろう、支社長の肩書が不釣り合いな頼りなさは、被災のショックから立ち直れていないからだろう、と好意的に解釈した。勧められるまま小さな応接セットのソファに腰を下ろした。
「こちらには、おひとりなんですか?」
「派遣で来てもらっていたふたりは津波で家を流されてしまいましてね、家族と一緒に避難所入りしてます。ですから震災以降、ここはずっとわたしひとりです。勿論、わたしのアパートも人間が住める状況にはありません。本社からいらした記者さん達の案内と連絡のためだけに、ここで寝泊まりしているようなものですよ。ご覧の通り壊れた機材の補給もままならない状況でしてね。支社としての機能が残っているのかどうか……」
そう言うと思い出したように元居た場所へ足を運び、机の上に敷かれたものを丸め始める。シュラフだったようだ。
しかし震災がなかったとしても、この小さなオフィスはせいぜい出張所といった体裁であった。以前出張した関西支社レベルを期待していた訳ではないが、支社、支社と連呼するデスクに意識操作をされたような気がして自分の甘さを思い知る。
「ネットは繋がりますか?」
「携帯と私物のラップトップは繋がってますから大丈夫だとは思いますが、ご覧の通り備品のパソコンはすべて破壊されてしまいましてね。未だ水道もガスも復旧していないこんなオフィスで申し訳なく思います。メール便の集荷は回復してますのでご心配なく」
再び向き合ったソファで手渡された名刺に視線を落としたまま由里は頷く。改めて部屋を見回すと、折り重なって倒れていた液晶モニタは全て大きなひび割れが入っている。何故片づけないのだろう。来訪者に支社の機能低下を納得させるためだろうか、と意地の悪い推論が顔を覗かせるが、それは胸の奥に仕舞い込み別の言葉を口にした。
「内藤さんのせいじゃないでしょう」
微笑んで恐縮する内藤の寒心を軽減させようとしたつもりだったが。愛想笑いの得意でない由里の意図が伝わったかどうかは分からない。彼の表情に変化はなかった。水道もまだなのか――やはり宿は探さなければいけないのだな。内陸部に入る程にホスピタリティの保たれたホテルも見つけられるのだろうが、それでは移動に費やす時間が増えてしまう。〝最低限の身だしなみを整えることが出来る〟といった前置詞は伏せて訊ねてみる。
「近くにビジネスホテルはありますか?」
「国道を少し上れば、ガスも水道も復旧したホテルがあります。被災後、すぐにいらした記者さん達は、全員ここで雑魚寝か車中泊でしてね。あの時点でまともなホテルを見つけるようとすれば相当内陸部まで行かないと無理だったでしょう。皆さん慣れた様子でしたよ」
例え女性であろうと、格好を構っていていい記事など書けっこない。そう言われたような気がして由里の表情が強張る。愛想笑い同様、表情が豊かでない由里の瑕瑾がそれを上手く包み隠してくれたようだった。内藤は気づかず続ける。
「取材プランを作成しておきました。今更……いえ、いまから新事実が見つかるかどうかはともかく、さくさく回ってお帰りになる前に湯沢温泉でも寄って行かれたらどうです。観光方面にもこの震災は大打撃を与えてくれましたらかね。湯治客は大歓迎されるはずです」
手渡された手書きの取材プランは、出発前に石渡から渡されたものと大差ない。土地勘のない由里が、それに唱えるべき異論はなかったが〝今更〟と〝温泉〟のニ語が勘に障った。収穫がなければ、湯沢の風光明媚くらい土産にしたらどうか、といった内藤なりの配慮だったのだろうが、一ヶ月も経過してからの取材など物見遊山みたいなものだろうといった意味にも感じられ、退去のドアを閉める腕につい力が入ってしまった。
『電気・ガス、復旧しています。エレベーター稼働中』入口ドアに、そんな貼紙のされたビジネスホテルに空き部屋を見つける。どれだけ過酷な取材になろうと、記事を書くサンクチュアリ(聖域)は確保出来た訳だ。どうしよう……チェックインの午後まで待って、シャワーを浴びてから出かけようか。でも空模様も怪しいし、先ずは被災地の空気だけにでも慣れておくべきだろう。由里は躊躇いを拭い去って愛車へと戻った。