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束の間のアタラクシア

「取材の間だけよ、せいぜい五日ってとこなんだし」

――だけどなあ、由里だって知ってるだろう、恵子とおふくろの相性が悪いことぐらい。

「だからって、母さんをひとりにしてはおけないでしょう。いつかみたいに発作が起きたらどうするのよ」

――救急車ぐらいは呼べるさ。そのための、かんたん携帯じゃないか。

「もういい! 母さんになにかあったら、兄さんのせいだからね」

 乱暴に携帯電話を閉じる由里に、傍らで様子を見守っていた母が言った。

「わたしなら大丈夫よ。このところ手の震えも出ないし、お医者様も、不整脈じゃなく甲状腺機能の低下かも知れないっていってらしたでしょう。お薬が効いてるのね。気分もいいもの」

 確かに暮れに胸が苦しいといって救急車で運ばれて以来、発作は起きてないし血色も良さそうに見える。だが、原因が突き止められた訳でもなければ、完治を言い渡されたのでもない。そんな母を残し家を空けることに、割り切れなさの残る由里だった。横浜に住む兄に留守の間、母の面倒を頼もうとかけた電話は、予想通りの結果に終わっていた。

 母の体調より、妻のご機嫌とりに重きを置くようにとれた兄、久典の発言に憤りを覚えずにはいられなかった。それが図らずも強い口調となって母へと向かう。

「先生だって、まだ分からないっていってらしたじゃない。油断は禁物よ。それに甲状腺機能に問題があるのだって、決して安心出来ることじゃないんだから」

「こんな症状が出たら注意なさいってことは聞いてます。ずっとそんな風にはなってないわ。わたしは由里の記事が読みたいのよ、頑張って行ってらっしゃいな。たった五日ぐらい大丈夫だってば。ほら、これに久典の電話場番号も入ってるし、いざとなれば百十九番だって呼べるんだから」

 母の誕生日に兄が贈ったかんたん携帯を嬉しそうにかざす。なんて気の効かないプレゼントだろうと思ったそれが忘年会の席に居た由里に母の発作を知らせてきたことに一層癪に障ったものだった。私はまだ、取材に行かないで済む理由を探しているのだろうか。母の気丈な言葉に内なる迷いを振っ切ると、陽の傾きかけた街へと足を踏み出した。

                              

 出版社の入ったビルの裏手にあるコインパーキングに愛車を乗り入れる。後部席のアシストグリップに吊るされた丈の短いピーコートは自分への褒美にと張り込んだカシミアの高級品だった。昨年の暮れ買ったばかりのそれが埃まみれになるのは願い下げだったが、某テレビ局の有名キャスターのように、長いコートを着込んでいては、足場の悪いだろう現地で縦横無尽な取材など出来ようはずがない。クリーニングに出す前で良かった。それなりのレジリエンス(困難適応能力)は体得している由里だった。

「それでは行ってきます」

 コットン製のニットに濃いカーキ色のカーゴパンツ、取材用のトレッキングシューズで身を固めた由里がデスクの前に立つ。

「おう、頼むぞ。書きあげた記事は片っ端からメール添付で送ってくれ。仙台支社には連絡してある。写真は満タンになったSDカードから順番に渡せ。念のためWiFiの端末は持ってゆくんだぞ。おっとヘルメットもだ」

 由里は壁にぶら下げられた数個のヘルメットに目をやった。現場入りすれば何日も風呂に入らない連中の皮脂にさらされ続けたアレに、自分の髪まで蹂躙されるのはたまらない。

「あれは男性用ですよね、サイズは合うのでしょうか」

「フリーサイズだから問題ないと思うが――奴等が使った後じゃあ嫌だっていうんなら資材部へ寄って行け。新しいのがあるはずだ。マスクも忘れるなよ」

 確かに、この扱いなら男女に差異をもたせてはいないな。デスクの都合で現われたり消えたりするジェンダーフリーに由里はげんなりとする。目礼をして編集室を後にした。

 

「すみません、ヘルメットの新しいのをいただけませんか」

「おっ、由里ちゃんじゃないか。どうした? バカどもの雑用まで引き受けることはないぞ。同じ記者なんだからな」

 かつては敏腕記者として鳴らした上川幸三が、深く腰掛けたソファから首だけを捻って由里を見上げる。男性記者に頼まれて来たのだと誤解したようだ。資材部長との肩書きはあれど、実質彼一人だけの部屋はタバコの煙が充満していた。

「いいえ、私が東北行きです。被災地の今を女性目線で書いた記事が欲しいんだそうです」

「なんだ、アクティブの方にまわったのか。センチュリーのメス猫共が断ったんだな。で、いつものように松山が引き取ったという訳か、お気の毒さま」

「そうだったんですか……」

 社標が描かれたビニール包装されたままのヘルメットを受け取りながら、件の女性記者達を思い浮かべる。

 由里の勤める光栄社では多くの雑誌が刊行されている。週刊センチュリーがフラッグシップだとすれば、彼女が籍を置く写真週刊誌アクティブは下位に見られることの多い部署だった。事実、こんな時期でさえページの半数が男性読者向けのエロチックなものであったりもしたし、特集の内容にも上品とは言い難いものがある。センチュリーでのデスク争奪戦に敗れた松山が、他誌が放りだした事案までに手を伸ばそうとするのは返り咲きを目論んでいるからだ。取材ばかり増えて俺達にはいい迷惑だよ、と同室の記者がこぼしていたのを耳にしたことがある。

「ここに潜りっぱなしの俺では話に聞くだけだけどな、あっちは強烈な匂いと埃らしい。お上品な連中にはお気に召さない取材環境なんだろう」

 依頼をより好み出来る立場でないことは自覚していたが、それでもセンチュリーが投げ出したものだと聞けば、いい気分はしない。片道五時間程度を見込まれる道中だった。車内に構築される静謐、且つ、寛ぎのアタラクシア(平穏空間)で心理的リアクタンスに励むとしよう。

「気をつけてな」

「ありがとうございます。お土産は何がいいですか? もっとも流出した油でなにもかもがオイルサーディンになっているかも知れませんが」

「現地で、その手のジョークは禁物だぞ。特に被災者に接する時はな。悲壮感たっぷりの顔にしておくんだ。ルームミラーを見て練習しておくといい」

 由里の入室以来ずっと張りつかせていた笑顔を仕舞い込み、上川が真顔で言った。

「了解しました」

「もうひとつ、老婆心ながら忠告しておく。俺が阪神淡路を取材に行った時、現地は正に地獄だった。今回はあれ以上の凄惨さだと聞く。生き抜くために被災者が地獄の住人と化している場合だってある。高齢者が多い地域なのが救いだが、暗くなってからは出歩くな」

「肝に銘じておきます」

 目立った報道こそないが、強奪やレイプも起こっていると聞く。テレビや新聞向けの記事ではないのだろう。或いは、それすら些末な扱いをされるほど現状は過酷なのだろうか。この数日間、何度も萎えてしまいそうになる取材意欲を奮い立たせたモチベーションは底を尽きかけていた。

「失礼します」上川が新しいタバコに火を点けたのをよい頃合いと由里は資材部を出た。

                            

「周辺道路の通行止めは解除されている。とりあえず石巻まで走って、被害の甚大な三陸沖から宮城市内へ戻るってプランでどうかな。五日間じゃあ、そんなところだろう。今は亘理町も原発も入れないけど、あそこは俺達が散々取材してきた。余裕があれば、陸前高田、女川、松島を回るといい」

 先輩記者の石渡にルートを訊ねた時、そんな返事が返ってきたのを思い出してナビゲーションの設定をする。リッター当たり十四キロメートル走ってくれるとして、六十リットルタンクの小型RVの航続距離は八百四十キロメートルか、往復九百キロメートルの行程として、取材も車で回るとすると…やはり一度は給油する必要があるわね。国見か菅生辺りで休憩を兼ねてサービスエリアに止まろう。由里はナビ画面に映し出された情報を基に、ドライブスケジュールを組み立てる。ETCカードを機器に挿入して、社屋裏のコインパーキングを出ると、首都高速の汐留入口に向かって車を走らせた。

 そういえば今夜から東京タワーに〝GANBARO NIPPON〟 とライトアップされるはずだ。宝町を過ぎた辺りで思い出した。十八時か――急ぐ旅ではない、都心環状線を一回りして眺めて行こう、心理的リアクタンスその一だわ。江戸橋ジャンクションを大きく左にハンドルを切った。

 ツイていない時は、こんなものだ。他県ナンバーの自家用車群が生み出した渋滞に並ぶ人々は、由里と同じ思惑だったのだろう。三宅坂手前から車を進めることができなくなってしまった。展望台にLED電球で書かれる文字以外、珍しくもなんともない、おのぼりさん向けイベントに、この時期これほどの人間が集まるものなのか。いや、かくいう私も、そのうちの一人なのだ。由里は自身の選択を呪う気持になった。


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