Duty Knight(誇りまみれの騎士)
「さっきは、ごめん……つい……呼び捨てに……しちまった」
「いえ……私は小野木さんにそう呼んでもらえる日を待っていました」
覆いかぶさった軒庇に隠れ正面から見えない部分――突き出た鉄筋が小野木の右鎖骨付近に突き刺さり左の脇腹に先端を覗かせていた。みるみるうちに小野木のシャツはどす黒く染まって行く。壁を持ち上げ続けた両手の指は塞がり落ちたそれに潰されていた。
「ジュンさっ!」
駆け寄った尚人が腰を屈めて小野木を仰ぎ見る。
「お……う、尚……か、ガキどもは……無事だろうな」
「うん、かすり傷ひとつ負ってない。カジさん救急車は?」
沈痛な表情でカジが答える。
「呼んだ。だが、あの大きな余震の後だ。今は全て出払っているらしい」
「司令に頼んで、救護班を呼ぶ」
「ダメだっ!」
無線のある車に走り寄ろうとする尚人の背中に声がかかる。瀕死の小野木のどこにそんな大声を出す力が残っていたのだろう。尚人の動きが止まった。
「これ以上……ここの人達を死なせちゃいけね……え……俺はもう充分に生きた……後回しで結構だ、カジさん……農園を頼む。美代ちゃんにも……謝っておいてくれね……え……か」
「小野木さんの口から伝えて下さい」
滅多に感情を表に出すことのないカジの表情が大きく歪んだ。
「そう……だな、また……叱られそうだ……ぜ」
咳き込んだ小野木が血の泡を吐いた。
「小野木さんっ!」
「でけえ……声だな……美代ちゃんか? 来て……くれた……のか」
「仙道です」
「仙……ちゃん……か、すまん……後は仙ちゃんに全……て託す……書いて……くれ……よな」
「書きます! 記事にならなければブログでも自費出版でもして書きます。だからもっと話を聞かせて下さいっ」
濃紺のデニムが汚れるのも厭わず、ひざまずいて見上げる由里に小野木は小さく頷いた。 救急車のサイレンは聞こえても遠ざかるものだったり通り過ぎて行くものだったりで、ここに向かう車影はない。尚人は小野木の居る場所と見通しの効く場所とを何度も行き来していた。
「暗くなってきた……な、もう夜……か」
「何言ってんだよ。目え開けて寝惚けてんじゃねえよ」
尚人の罵倒は涙声になっていた。
「尚……じゃねえのか? なんだ丈(たける)……だったのか」
「タケ坊は八歳だろうが、俺だよ」
「冷てえ……野郎だな……まだ、怒ってんのかよ……言っておくが母さんを恨むんじゃ…ねえぞ 悪いのは全部……俺なんだ……」
「何言ってんだよ。俺だよ、尚だよ。ジュンさってば」
「……ちぇ……そんな…に親父と認めるのが嫌か……毎朝供え……物届け……手も合わせてやったのによ……お」
「誰に言ってんだよ!しっかりしてくれよ」
「……ん? やっぱり尚……なの……か……金……なん……持って帰……れ。苦労し………お前を育て……くれたおふくろさんを……楽させて……やんな」
幻覚でも見ているのか、途切れ途切れの言葉は意味を成さない。
「ジュンさが居なきゃ俺もダメだったかも知れないんだ。すぐに救急車が来るからな、俺を置いてなんかいかせねえぞ。由里さん、声を掛け続けててくれ」
「こえ? 何か……乗っかってる……のか……重くはねえ……何…で……う……動けねえ……ん……だ……冷えて……きた」
「小野木さんっ! 仙道です。あなたのお嬢さんと同じ名前の仙道由里です。分かりますか?」
今やっと小野木への反発の理由が分かった。死んだ父親の面影を重ね合わせていたのだ。全身埃まみれで壁に磔にされた彼の姿は、グレイの鎧を身に纏う勇猛な騎士の姿を彷彿とさせていた。
「ちょうど……い……ボリューム……だ……やれば……出来る……」
小野木の声が止まる。虚空を見上げ見開いた目は光を失い、半開きになったままの口から続きが発せられることはなかった。
「小野木さんっ! 小野木さんっ!」
由里の叫びに尚人が駆け戻る。
「ジュンさっ!ジュンさー」
物言わぬ灰色の骸となった小野木に縋って泣き崩れる尚人の背後に、泣きじゃくる弟をなだめていた海地少年が立った。
「ナオー、ヒゲ魔人どうしちゃったの?」
少年に背を向けたまま、尚人は小さな声で呟いた。
「ヒゲ魔人じゃない。この人は……この人は俺の父さんなんだ」
数時間後、レスキューに拘束を解かれた小野木の居た場所に座り込んだまま、尚人は動こうとしなかった。由里は意見の衝突することの多かった父の葬儀で手足を失ったような喪失感に襲われた自分を思い出した。どんな言葉を以てしても尚人の哀しみを癒すことなど出来ないことは分かっていた。息の詰まるような想いを抱いたまま、由里はただ黙って尚人に寄り添っていた。
ふいに立ち上がった尚人がFJクルーザーへ向かった。「なお……」後を追おうとする由里を制し、バックパッカーの入ったケースを取り出して戻る。小野木が引きずった鉄骨に腰かけると、低音弦のハンマリングオンから尚人の演奏が始まった。
―― Would you know my name if I saw you in heaven ――
救急車のサイレンに集まり、再び散開しかけていた人々の足が止まる。ガレキを掘り返す人々、廃屋を見上げて佇む人々、当てもなく廃墟を彷徨っていた人々、全ての視線が集まる中、尚人の歌声は土煙の街を鎮魂歌(レクイエム)で包みこみ、水平線の彼方――海と空が交わる場所へと流れて行くように思えた。彼が見上げる空を人々も見上げる。エンディングをゆったりとしたダウンスケールでまとめると大きな拍手が沸き起こった。
「これは毎晩、ジュンさが歌っていた曲なんだ。俺は生涯を賭けて謝り続けなきゃいけない人が二人居る。それを忘れないためにも歌い続けなきゃいけないんだってね」
「確か亡くなったお子さんに贈った歌よね? 父がそう言ってたわ」
「うん。何でも『好きにしろ』のジュンさが、この曲だけはコンサートで歌うことを許してくれなかった。スコアも見せてくれなかったんだ。難しい曲じゃないから俺は勝手に覚えたけど人前で歌うことはなかった。これが初めてだよ。そしてこれからはジュンさの代わりに俺が歌ってゆく」
「きっと小野木さんも喜んでくださると思うわ」
「俺はジュンさの遺志を継ぐ。自主制作でいい、曲を作って歌い続ける。一人でも多くの人がこの地に足を運び、何かを感じてくれることを祈って歌い続ける。それがきっと俺の使命なんだ。俺の歌が誰かの心を動かせるなんて大それたことは思っちゃいない。たった一人でも被災地に目を向けてくれる人が居ればいい。この悲劇を忘れないで居てくれる人が一人でも増えればいい。そうなってくれれば俺が歌うことに意味はあると思う」
六~七歳ぐらいの少女が小さな花束を携えて近づいてきた。
「これ……」
一言そう告げると、くるりと体を翻して走りだす。「ありがとう」受け取った尚人の返事が遅れた。
タンポポ、シロツメクサ、ノジスミレと色とりどりの小さな花束だった。尚人は小野木の立っていた場所にそっと置く。血溜まりを避けたそこにはバックパッカーが墓標のように立てかけられていた。