理由(わけ)
車は緩やかな坂道を登り始める。
「私に見せたいものって何なの?」
「もう十分で着くよ」
そこからの話題は、ポン太バンドのベーシストも農園出身者だとか、小野木が燃えてなくなった眉毛を油性マジックで書き足していたとかいった他愛のない思い出話に終始した。今のあなたが知りたい、あなたのことを話して。願いを込め尚人の横顔に送る由里の視線は、交わった瞬間に意気地を失う。
「こんな高台にまで津波が押し寄せていたのね」
「うん、二十メートルの高さがあったんじゃないかって言われている。あれを見てよ、あんなものまで薙ぎ倒すくらいだったんだ」
小高い丘に車を停めて見おろすガレキの町には、五階建て程度のビルが横倒しになっていた。残った建物も扉や窓があった跡は虚ろに口を開き、剥がれ落ちた壁からは鉄骨が剥き出しになっている。墓地に横たわる電車はどこから流されてきたのだろう。声にならない声を押し殺すかのように由里は手で口を覆った。『一度でいい、足を運んでみろ。誰もが何かを感じ取れるはず』小野木が語り、尚人が塗り重ねた言葉が津波のように押し寄せてきた。
「ここだよ」
積み上げられたガレキが邪魔をして校名までは読み取れなかったが、明らかに学校然とした建物の門を抜けて上ってゆく。車から降り立った尚人を、校庭を走り回っていた子供達の一人が目に留め、大きく手を振りながら駆け寄ってきた。遅れて気づいたもう一人も、その後を追う。
「ナオー」
「尚人さんって、言えってば」
その言葉にも表情にも不快の色はない。尚人は少年二人の頭をガシガシと乱暴に撫でた。
「いいじゃん。ヒゲ魔人も鉄仮面もナオって呼んでるんだから」
小野木とカジのことを言っているようだ、安直だが二人の特徴を上手く捉えた子供らしい表現に由里はクスリと笑う。
「ちぇっ、まあいいや。海地も大地も元気にしてたか?」
「あたりきい、俺達から元気を取ったら何も残らないぞ。誰だ? このきれいなねえちゃんは。ナオのカノジョか?」
「バッカヤロー、雑誌の記者さんだよ。お前等を写真に撮ってくれるんだってさ」
そんなに思い切り否定しなくてもいいじゃない――由里の小さな消沈は、次の瞬間、尚人が赤らめた頬にかき消される。思わず声が弾んでしまった。
「仲がいいのね、ここへはよく来るの?」
「うん、ここいらの捜索をしてた時に知り合ってね。時間が許す限り来てる」
尚人がFJクルーザーを指差して、少年達に告げる。
「お土産があるぞ。ちゃんと、みんなで分けるんだぞ」
「わかってるって」
二人の少年は慣れた様子で車のテールゲートを開くと、彼等の上半身が隠れてしまいそうな程の段ボール箱をそれぞれに抱えた。尚人の手招きに他の子供達も走り寄って来る。全ての子供達に段ボール箱の運搬を割り当てると、体育館の入口に辿り着き重いドアを開こうとしていた海地と大地に、尚人は口に手を添えて叫んだ。
「ヒゲ魔人と鉄仮面のおじさんも、金出してんだからなあ。顔見たら礼を言っとけよ!」
「えー、じゃあこれ食ったら俺にもヒゲ生えちゃうのかあ?」
「のかあ?」
弟の大地が語尾だけ復唱する。尚人は楽しそうに笑った。
「あはは、かもな」
PVの中のNAOはこれっぽっちも笑顔など見せなかった。コンサート会場の埋め尽くしたファンの誰一人として、こんなNAOは知らないはず。優越感が由里の胸にこみ上げる。背中でドアを支えながら通りぬけて行く子供達を眺めたまま尚人が呟いた。
「あいつら、両親を津波で流されてるんだ」
「え……」
「うちの隊がここに入ってた頃は、余震も今よりずっとデカくって頻繁で、壊れかけた建物には俺達だって怖くて入れなかった。でも、あいつ等ときたら、どこへでもちょろちょろと入っていっちゃう。危なっかしくて見てられなかった。何を探してるんだって聞いたら父ちゃんと母ちゃん、そう言った。だから俺が探してやるから壊れかけた建物には入るなって約束させた。隊を辞める一番の理由はこれなんだ。あいつ等と一緒に両親を探してやらないといけない。そのために自由な時間が必要になった」
「今も見つかってないのね?」
「わかんない……写真がある訳でもないしね。だから安置されてる遺体の中にあいつ等の両親が居るかどうかさえ確かめる術もない。そこに連れて行くことが正しいのかどうかもわからない。ジュンさ達もそうしないのは、きっと迷っているんだろうと思う。俺はもしかしたら永遠に見つからない方がいいのかも知れないって思う事がある」
ぽつりぽつりと話す尚人の表情は悲しげだ。二人の少年が体育館の窓から顔を覗かせた。隣で会釈する女性は祖母なのだろうか。由里も会釈を返した。
「なおー、さんきゅー」
「可愛い子達ね」
「だろ? 海地が小三で大地は小一。ジュンさもカジさんも養子にしてやるって言ってんだけどあの御面相だからね。あいつ等の方が怯えちゃって――」
小さく笑う尚人の許に、荷物を置いた二人が戻ってきた。
「なおー、歌ってくれよ。いつものヤツ」
「ああ、一緒に歌おうぜ」
春よ来い、春が来た、唱歌と童謡のメドレーは、シャウトもヘッドバンキングもないまま、魅惑のハイトーンが正確な旋律を奏でる。小野木の調子っ外れな歌を伴奏したバックパッカーの音色さえ次元が違うものに聞こえていた。天がニ物を与えたのはカジさんだけじゃないようね――聞き惚れる由里の耳に懐かしいメロディが飛びこんできてサビの部分をハミングした。
「さあ、父ちゃんと母ちゃんを探しに行くぞ。吉井のおばちゃんに出掛けるって言って来い」
うん、分かった。二人の少年は、数十メートルの往復など全く気にならないかのように全力疾走を繰り返す。
「最後のはエリック・クラプトンのチェンジ・ザ・ワールドでしょう? 死んだ父がよく口ずさんでいたわ。バンドの曲はやらないのね」
「あれはここ向けじゃないよ。正体がバレるのもどうもね……チェンジ・ザ・ワールドはジュンさに一番最初に教わった曲なんだ。ここの人たちは当事者なのに情報の絶対量が不足している。星を一つ手にとって真実を照らし出してやろうって歌詞が相応しく感じられて歌ってる。でも、あいつ等に真実を知らせていいのかな。一ヶ月も行方が分からなきゃ、両親を諦めるしかないって真実を」
由里は再び表情を曇らせた尚人への済度を模索する。
「被災孤児の支援には、多くの企業や団体も立ち上がるみたいよ。孤児のための基金だってたくさんあるわ」
「子供のあいつ等がどうやってそれを受け取るんだ? それにあいつ等に必要なのは金なんかじゃない」
「親戚は近くに居られないの? さっきの方はお婆さんではないの?」
「吉井さんのことかい? 隣に住んでたおばちゃんだそうだ。ここでの面倒を見てくれている。ジージとバーバは俺達をここへ連れてきてから、父ちゃん達と一緒に車で家に戻った。海地は俺にそう言ってたよ」
周囲を憚るかのような小声は、肩を並べた由里でさえやっと聞き取れる程度のものだった。
「そうだったん……だ」
「伯父夫婦が千葉に居るって言ってた。でも、あっちも液状化現象で買ったばかりの家が傾いちゃってそれどころじゃないんだってさ。家を買った当初は例の大遊園地が近いから、いつでも遊びに来いなんて自慢してたそうだ。連絡を取ったジュンさが嘆いてたよ。たかがネズミの着ぐるみ見物のために埋立地なんかに家を買うんじゃねえよ、って。――何度も何度も嘆いてた」
尚人も同じ想いだったに違いない。声を落としたままの端正な顔を、苦悩が歪ませていた。