町村尚人
『悪くはない。が、何かに影響を受け過ぎの感もある』
身支度を済ませた由里に、そんなメールが届いていた。私は小野木さんに感化されている? 現地から遠く離れた人々を揺さぶることが出来るのは、惨状を収めた写真だけなの? ここに来てみればいい、誰だって少なからず心を動されることだろう。確かに小野木の受け売りもあったかも知れない。しかし彼の言葉に強く賛同した由里にとって、デスクの批評には受け入れ難いものがあった。
機器を通さない記憶だったが、そのどれもが鮮烈に由里の脳裏に焼き付いていた。指を止めることなく一気に書きあげた原稿を読み直す。それは四万字にも及ぼうかという力作となっていた。
ライティングデスクに貼り付けられた取材プランを何気なく眺める。荒浜から名取か……やはり、被害の甚大なところを見て回れってことなのよね。剥がしてクシャクシャと丸めゴミ箱に投げ入れた。そうじゃない――でも、どこに行けばいいんだろう? 避難所を回ってみる? また取材お断りっって言われたらどうする? 心細さと弱気の虫が由里のなかで不毛な議論を始める。
そこへ小野木から電話が入った。別れ際の沈黙など感じさせない陽気な声が、由里にとって降って湧いたような幸運に思われて頬が緩む。彼なら行くべき場所ぐらいは提示してくれるはずだ。
――まだ、ホテルに居たか? ちょうど良かった。尚が、仙ちゃんに見せたいもがあるそうなんだ。今日明日ぐらいはこっちに居られるんだろう。俺の臭い車で辛抱出来るなら、付き合ってやってくんねえかな。
「是非、お願いします。でも燃料代のこともありますし、私の車で――」
――尚にも事情があって、そうゆう訳には行かねえんだよ。細かいことは気にすんな、米軍のガソリンはタダなんだ――おっと、これはオフレコで頼む。迎えに行かせるよ。三十分後ならいいだろ?」
「ええ、ですが――」由里の論駁は届かず「じゃあな」と言って電話は切られてしまった。町村隊員の端正な顔が思い出され体温の上昇を感じる。取材意欲の表われよ、それにあの顔は絶対に見覚えがある。突き止めるには絶好の機会じゃない。そう言って聞かせるが、鏡に映る顔は期待に綻ぶ。癪に障って、いーっとしてみた。〝いーっ〟か――これを表現するには、どう書いたらいいの? 睨む……強がる……違うわね。
いつの時代も誰に於いても、鬱ぐ気持を取り払ってくれるのは淡い恋心なのかも知れない。不毛だった自問自答は明らかに別の意思を持つそれへと変化を遂げていた。
洗車がなされたのか、FJクルーザーは見違えるように白く輝いていた。ホテルの玄関を抜ける由里に運転席から手を振る自衛官の姿が見えた。会釈して助手席に乗り込んだ。
「せっかくの休暇を取材に付き合わせちゃってごめんなさい」
「俺がジュンさに頼んだんだから謝ることはないよ。こっちこそスケジュールを狂わせたんじゃないかって心配してたんだ。迷惑でなきゃ良かった」
「でも、何でこの車じゃなきゃいけないんですか?」
「汚れたジャッキを積むのと、万が一のためのウィンチが必要でね。どう使うかは、行った先で分かると思う」
自衛官は小野木と同じような台詞を口にした。
「正直なところ、小野木さんに見せられた全てが衝撃的過ぎて、どこへ行けばいいのかさえ一人では決めあぐねていたんです」
小野木やカジと揃いのツナギに身を包んだ美貌の自衛官は、私と同じぐらいの年齢だろうか? 由里の疑問を見越したように彼が自己紹介を始めた。
「町村尚人陸士長――って言っても、任期は終わった。今は元の隊に戻るまでの猶予期間ってとこかな。二十三歳、牡牛座」
「元の隊?」
「こっちには災害派遣で来ているんだ。で、駐屯した所の方面司令が偶然ジュンさの幼馴染だったって訳」
「ハッチね?」 と確認する由里を慌てた様子で嗜める。
「書いちゃダメだよ、それは。一等陸左は雲の上の存在なんだから」
由里は顎を引いて微笑んだ。
「仙道由里、週刊アクティブの記者です。何を見せてもらえるのかしら? あなたはここでどんな仕事をしているの? 小野木さん達とのご関係は? あ、録音してもいい?」
尚人が年下であると判明したからだけではない。会話のイニシアチヴを握ることはスムーズに取材を進める上に於いて不可欠である、由里の口調がフランクになって行く。
「構わないよ。でも何か取り調べにあってるみたいだな」
尚人の人懐っこい笑顔が由里の脈拍を上げる。
「仕事は遺体の捜索だよ。ジュンさ達との関係は……一口じゃ説明出来ないな。農園で一緒に働いていたってとこかな」
「炊き出しとかもしているんでしょう、自衛隊の人って」
「あれは特科の連中、普通科の俺は最前線だよ。重機の入れない南三陸町ではチェーンソー片手に乗り込んでいったもんだ。満潮ともなれば津波で流された遺体もたくさん上がる。長いこと水に浸かってたせいか、身体の一部がなかったり見つかるのが腕だけだったりでひどいもんさ。損傷が激しくって男女の判別さえ出来ないことだってある――前にも言ったっけ? これは。慣れる――いや、今も慣れてはいないけど最初の頃は飯も喉を通らなかったよ。ジュンさが言ってなかったかい、国民総動員令を出せって。あれは冗談でも何でもない。遺体の捜索は手作業なんだ。より多くの人出があれば、それが捗るのはわかるだろう? テレビや新聞が復興、復興って言ってるけど、全ての遺体が見つかってやっと収束。復興はそれからじゃないのかな。少なくとも家族の見つかってない人々にとっては、そうなんだと思う」
「あなたの言う通りなんでしょうね」
「水田は、潮と泥で沼地化してるから、棒を突っ込んで探すんだ。乱暴に掻きまわすと、遺体を傷つけちゃうから慎重にね。警察も消防も出張ってくれてるけど人手は足りていないってのが本当のところだよ」
由里はずっと気になっていた疑問を口にしてみた。
「ねえ、あなたの顔――どこかで見たことがあるんだけど」
くっきりとした二重瞼、美しい曲線を描く睫毛、形の良い鼻の稜線が、記憶のフラグメント(断片)に幾度も引っかかる。一度見た顔は忘れないのが、由里の特技だった。尚人は黙して答えない。
「きれいな顔ね、よく言われない?」
「きれいって言われるのは女みたいで嫌いだ」
尚人の声が尖った。
「あ……ごめんなさい」
「どこにでもある顔だから見たような気がするんじゃないの? ねえ、由里さんはいくつ?」
尚人は自ら露呈した不機嫌と由里の恐縮を、明るい声でまとめて振り払う。
「女性に年齢を訊ねるものじゃないわ――と、言いたいところだけど教えてあげる。二十五歳よ」
「へえ、俺よかふたつお姉さんなんだ。敬語にしようか?」
「いいわよ、そんなの。でも、こんな風に休暇があるのね。自衛隊の人達って、もっとハードワークなんだと思っていたわ」
「休暇じゃなく、退官前の準備期間だってば。捜索は明るいうちだけしか出来ないけど、今も二十四時間体制は変わってない。駐屯地に居られた俺達はまだマシ。テント組なんか風呂に入れない時期が二週間もあったそうだからね。災害派遣がない普段はのんびりしたもんだから仕方ないかな――由里さんはずっと雑誌記者をやってるの?」
「ええ、本当は違う部署に行きたかったんだけど空きポストがなかったの。写真週刊誌なんて何でも屋よ。経済、社会、芸能。言われれば何でも取材……」
自ら口にした芸能という言葉が引き金となって、バラバラだった記憶の断片が由里の中で完璧に紡ぎ合わされた。
「NAO! ――あなたNAOでしょう。ポン太バンドの」
「ちぇっ、ばれちゃったか」
言葉通りの悔しさは感じられない。
やはりNAOか……彗星の如く日本のロックシーンに現われ、立て続けにミリオンヒットを飛ばしたかと思ったら忽然と消息を絶ってしまったポン太バンドのヴォーカル兼ギタリストだったNAO。メディアへの露出が極めて少なかった彼等だったが、社に届いたPVを視聴した時の面影が、ハンドルを握る自衛官にピタリと重なった。
「何で、止めちゃったの? 売れまくってたじゃない」
「中越地震が起きた時のことだ――高校生だった俺達――農園の仲間達ってことだよ。ジュンさに連れられて現地に入ると今回みたいなことをしてたんだ。でも本当に救助が必要な場所には立ち入れない。自衛隊や警察でないと危険だから、って入れてもらえないんだ。かっこよかったよ、どんな危険な場所にも入って黙々と作業をしていた自衛官の人達。だから、俺はいつか絶対に自衛官になろうって思ってた。ポン太バンドはロックを教わったジュンさへの恩返しさ。俺のために随分、迷惑をかけちゃったからね。叱られるかと思ったけど、そう言った俺にあの人は、好きにしろ、とたった一言――拍子抜けしちゃったよ」
遠い目をして語る尚人の声が思考の彼方に響く。芸能の特ダネまでモノにしてしまった……収穫満載の取材旅行だわ。由里の記者魂に火がはいった。
「何でポン太バンドだったの? メンバーの誰かのニックネームだったのかしら」
「俺が飼ってた犬の名前だよ。どうせ、すぐにやめちゃうつもりだったからこれでいっか、って感じでね」
「でも、勿体ないわ、あんなに売れてたのに。ねえ、芸能界に戻る気はないの?」
「由里さんもマスコミに居るなら分かるだろ? 商業ペースに乗っかった音楽なんかうんざりだ。着たくもない服を着せられ、歌いたくもない曲を歌えって言われる。アマチュア時代の方が好き勝手できて楽しかったよ。あ、自衛官も同じだな。組織の中じゃあ俺達は歯車の一つに過ぎない。捜索したい所があっても、命令が出ればそれに従うだけ。やりたい事をやるってのは案外難しいもんだね。勝手にそう呼んじゃってるけどいいよね? 由里さんで」
「ポチやタマでなければ、お好きにどうぞ」
「へえ、冗談も言えるんだ」
混ぜ返す尚人に由里は抗議の声を上げた。
「あなたといい小野木さんといい、私をどんな人間だと思っていたのかしら」
「きれいなお姉さんだと思ってます」
挑発だとは分かっていても、この顔で言われるとドキッとしてしまう。動揺を隠して別の質問を向けた。
「原発へは行ったの?」
「いや、あっちは別の隊が入ってる」
「あなたは原発をどう思ってる? 録音は停めるから正直な意見を聞かせて。政府やT電の対応をどう思う?」
「どうなんだろう? 情報を隠すとか小出しにするとか、いくつかでも炉心を残そうとしてた時点ではそういうこともあったろうけど、実際は放射線がどう人体に影響するか分かんないってのが本当のところじゃないのかな。しっかりした統計がある訳でもなし。参考になるのが二十五年前のチェルノブイリだけってんだから、とりあえず避難させとけって感じなんじゃない? 俺みたいな一兵卒に大した情報は伝わってこないよ」
多くの専門家が持論をまくしたてるテレビや新聞の方が情報は多いのかも知れない。被災者が現状をどう報道されているかを知らないように、現地入りした尚人達にも詳細は伝えられないのかも知れない。由里はどこか釈然としないものを感じていた。
「そういえば、使用済み核燃料はどうなるか知ってる?」
思考に沈む由里を尚人の涼やかな声が呼び戻す。
「処理施設に送られるんでしょう? 使用済み燃料から取り出したプルトニウムとウランを混ぜたのがMOX燃料なのよね。確か、三号機で使ってたのがそれだったはず」
「さすがは記者さん、よくご存知で。でも日本の再処理工場は稼働してない」
「え……? じゃあ、あの六ヶ所村にあるのは何なの?」
「単なる貯蔵庫になってるんじゃないかな? 下手すりゃよその国のまで預かってるのかもよ」
勉強不足だった――ホテルに戻ったら、すぐに裏付けを取ろう。
「そもそも高濃度放射性物質の最終処理が出来るのは世界中でフィンランドに一カ所あるだけだそうだよ。イタリアなんかマフィアが処理を請け負って、船ごと海中に沈めてた時代もあったそうだしね。今だってコンクリ詰めにして地中深く埋めてるか冷却と称して放置してあるんだろう。そんなことばかりやってるから地球が怒ったんだよ。地震も津波もそのせいだって考えたことはない?」
――地球が怒る――そう語る尚人の純粋さが由里には眩しく感じられた。
「だからといって、今まで散々原発の恩恵にあずかってきた連中までもが手のひらを返したようにバッシングに回るのもどうかと思う。今、現地入りしてる人達は決死隊だよ。身に降りかかる危険を顧みずに作業をしてるんだから。Jヴィレッジをベースキャンプにしてたのも震災直後からだったんだけど、報道されたのはつい最近だよね。何であんなことにまで報道管制が敷かれたんだろう? 反対派だって怖くて近寄りやしないだろうに。ただ計画停電を脅し文句にして原発の維持を企んでるとしたら、電力会社も政府もずるいと思う。大企業や病院が自家発電を備えれば、火力や揚水で電力は賄えるんじゃないかな。原発の津波対策にかけるお金があるなら、再生可能エネルギーの開発に回すべきだよ」
「すごく考えてるのね。自衛官の人って、みんなそうなの?」
「情報はあるんだ。考えろ、吟味して組み立てて結論を導き出せ。えへへ、これはジュンさの受け売りだけどね」
そう言うと尚人はペロリと舌を出して笑う。釣られて由里も微笑んでしまった。
「影響力のある人よね、小野木さんって。昨夜送った原稿をデスクからそう批評されたわ。主観が入り過ぎてるって言われた」
「デスク?」
「副編集長のことよ」
「いいんじゃない? 純粋な客観性は成立しえない。少なくとも量子学に於いては、そうなんだそうだ。不確定性原理を拡大解釈しておけばいいさ」
「難しい言葉を知ってるのね」
「このあいだ読んだ小説に書いてあったんだ。でも俺はジュンさの言ってることが間違ってるとは思わない。由里さんもそう感じたから書いたんだろう?」
「そう……かも、知れないわね。ねえ、あの人はなんであんなに一生懸命なの? 確かに被災者の方はお気の毒だわ。でも、見ず知らずの人々のために仕事も奥さんも放りだして来られるものかしら?」
車は女川街道に入っていた。一昨日の苦い記憶が、見覚えのある建物の残骸から視線を逸らさせる。そんな由里には気づいてない様子で尚人はおかしそうに語り始めた。
「昔から変なんだよジュンさは。大きな災害が起きると俺のせいかも知れない、なんとかしなきゃって騒ぎだすんだ。強迫観念だけで生きてんじゃないかってくらい慌てふためく。例えるなら雷に怯える犬みたいなもんだ。美代ちゃん……あ、ジュンさの奥さんのことだ――美代ちゃんも呆れてた。ジュンさはいつも言ってたよ。人は愚かだから間違いを犯すのは仕方ない。俺はもう三十六回も過ちを犯してる。でも、それを恐れて何も出来なくなってしまうんじゃ進歩がない。償いと人の痛みからは絶対に目を逸らすんじゃないって。それを身を以て俺達に示してくれてるんじゃないのかな」
「何の数字? その三十六っていうのは」
「さあ……泣かせた女性の数かな? 訊くと不機嫌になるんだ。ずるいだろ」
そう言えば九年がどうとか言っていたな、とむさ苦しいヒゲ面を思い浮かべる。若いころはモテたのかも知れない。頼もしさと知識は評価出来るとしても、あの言葉遣いとデリカシーのなさは減点対象ね。トータルして男性としての魅力は五十五点といった所かしら――小野木が知ったら大きく肩を落とすことになったろう採点が由里の中でなされる。
「でも、それって不公平じゃない? 小野木さん達が行く所には物資も届けばシャワーも浴びられる。行かない所には――」
「平等とか公平って言葉は数の上でしか成立しない。個人の頭の中でさえ感情と理性が不平を主張し合ってるじゃないか。それが複数になれば言わずもがなだよ。あの人は、そんなことも分かっててやってるんだ。カジさんの器用さが俺にあれば――尚みたいに歌で人を動かすことが出来るなら――そう言っては、いつも悔しがっている。もっと多くの人を呼ぶことが出来ればもっと多くの人の力になれるのに、ってね。人は選択を繰り返すだろう? 時には間違っていることを承知で選ぶことだってある。そしてその選択が正しかったか否かはもたらされる結果で判断するしかない。ただ、その時点での判断が正しかったように思えても未来においてそうだとは限らない。思考錯誤を繰り返すしかないんだよ、俺達は」
反論を看破したかのように尚人が言葉を被せてきた。あなたは本当に二十三歳なの? どうしてそんなに人生を真摯に見つめることができるの? 恋人との会話、上司や先輩社員との会談、膝を詰めて話しあったことがない訳ではない。だが尚人のように真っ直ぐな主張をぶつけてくる男性は初めてだった。シニカルに物事を見ること、熱くならないことが人間としての成長であると考えていた自分が間違っているように思えていた。取材対象と距離を置くことが客観を生むのだとの間違いに気づかされた。拙劣な反論は知らず知らずのうちに彼等に傾倒してしまいそうになる自分を押し止めるための鎧だったのだ。今それには大きな亀裂が入っている。
尚人の表情と言葉が、柔らかさを取り戻した。
「固い話になっちゃってるな、面白いことを教えるよ。俺が知り合う前のことだけど、ジュンさは婚約者を病気で亡くしてるそうなんだ。それも自分のせいだって思い込んでたみたいでね。嘘か本当か知らないけど、その婚約者のお骨を『俺の一部にするんだ』って言って食べちゃったんだってさ。デタラメだろ?」
由里はにこりとしてと頷いた。
「でも、楽しいオヤジなんだよ。ボクシングの世界チャンピオンで鈴木雄一郎って居るだろう? あいつはカジさんの愛弟子。それとモトクロスの世界選手権で去年MX2でランキング4位に入った本田正、あいつはジュんさにバイクを教わった。みんな農園の仲間なんだ、俺達はそこで育ったみたいなもんさ。色んなことがあった。泣いたり笑ったり喧嘩したりもしたけど、あの頃がなければ俺はここに居ないと思う。由里さんも一度遊びに来るといいよ。秋は美味い梨が食えるし、俺達が苗から育てたブドウや野菜もある」
「是非、お伺いしたいものだわ」
――あなたが居るなら――声に出来なかった部分が由里の心の中でリフレインされた。