車の墓場
「莫大な寄付をされた会社社長が居られますよね。あの件については、どう思われます」
「太陽光発電に大金を注ぎ込んでるから原発を非難してるんじゃないかって話だろ? 寄付は寄付だよ。そんなんまで疑ってちゃあ、生きて行くのが嫌になっちまうぞ。芸能人の炊き出しだってそうだ。売名行為と言われようが何だろうが、何もしないで批判してるだけの連中よか遥かにマシじゃねえか」
巷でも意見の分かれるその行為に、小野木は否定的だと思ったのだが違ったようだ。
「カジさんという方について教えて下さい。彼はどうやって、あの暴漢達をあんな一瞬で――」
「詮索されるのが嫌いな人だって言ったろう」
由里が言い終わるのを待たずにそう言った小野木に、調子に乗りすぎたかなと臍を噛んだ。しかし小野木はニンマリ笑って話し始めた。
「俺から聞いたって言うなよ。カジさんは世界を嘱望されたプロボクサーだった。天は人にニ物を与えずと言うが、彼に限ってはあてはまらねえな。優秀な興信所の調査員でもあり、手先の器用さも目を見張るものがある。自動車の整備だって出来ちゃうんだ。羨ましい限りだよ」
プロボクサーか――閃光のようだったカジの身のこなしに得心が行った由里だった。次の質問だ。
「昨夜は、かなり物騒な台詞を口にされていましたよね。全てお芝居だったんでしょう」
「ああ、こっちに来てからは誰も殺しちゃいない」
こっちに来てからは? その返答に内包されたものを考える由里を、胴間声が呼び戻す。
「ここいらが荒浜地区だ。見ての通りひでえもんだろう。あの学校が残ったのが不思議なくらいだよ」
ガレキとヘドロに覆われた街の残骸は道路幅も狭めていた。引かない海水が運河との境界も曖昧にしている。自衛隊や作業用の車輌が正面に見えると、小野木は遥か手前で車を寄せて対向車の進路を確保する。クラクションを鳴らして抜き去って行った後続車が、路肩にも寄れずに右往左往する様を、彼は無言で見つめていた。窓の外ではハイメディックと書かれた救急車がガレキに埋もれている。地震の負傷者のために出動した所を津波に襲われたのだろうか――隊員はどうなったのだろう? 出動依頼のあった所へは辿りつけたのだろうか? 由里の視線に気づいた小野木が言った。
「救急車だけじゃないぞ。消防車もハニーワゴンもあの辺に転がってる」
「何ですか? ハニーワゴンって」
由里の語彙にない単語を訊ねる。
「ああ、バキュームカーだよ。アメリカじゃそう言うらしい。ジェイクに教わったんだ。ここは通過するだけだ。写真を撮りたいならここで待ってるぞ」
「……いえ」
訪れなければ知ることのなかった現実が、由里に喝破を迫っていた。カメラのフレームに収まるもの、テレビ画面に映し出せるものだけでは被害の全容を伝えることなど出来ないのだ、と。小野木は満足そうに頷いて車を発進させた。
フェンスに叩きつけられ動力伝達系を晒け出す車、防潮林に不自然な形で突き刺さった車を眺めながら仙台港へと向かう。民家の少ない地域のせいか、沿岸部であっても先ほどまでの景色とは様相が異なる。ガレキに埋もれた町を眺め続けてきた由里には、少しだがホッとするものがあった。
「火が上がってたのは、あの辺りらしい。消防も来れやしないんだから燃え尽きるのを待つしかなかったんだろうな、可哀想な話だよ。道路のヘドロは随分片付いたみたいだな」
ベニヤ板で施設の入り口を閉鎖されたフェリーターミナルに車を乗り入れた。
「ここは東北の自動車の集配拠点になってたんだ。あちこちにメーカーのヤードがある。津波を食らったのは数十万台の使用過程車だけじゃない。ここだけで数千台の新車が津波の被害を受け、未だ相当数が海ん中で眠ったままなんだ。車の墓場になっちまってるんだよ。こういった被害はここだけじゃない。水戸でも横浜でもある。場所も公開されていない大きな保管倉庫があるんだ。バカでかい立体駐車場を想像してみるといい。あっちでも揺れはひどかったからな。吊り上げられた車同士はベーゼ(キス)を繰り返して傷モノになり、エレベーター孔に落ち込んだのは撤去する見通しも立っていない。それだけで数百億が消えている。間接的な被害はこれからまだまだ増えて行くぞ」
編集室で感じた揺れも尋常ではなかった。東北の凄惨さに相殺された訳でもないのだろうが、コンビナート火災の鎮火と共に報道は激減して行ったように思う。小野木の話は初めて耳にするものだった。
「この先の塩釜港も、まだ僅かしか航路が確保されていないと聞いてます。流された車のせいなんですか?」
「車もガレキも何もかもさ。喫水の深い大型船舶が入れないとなると港の機能はいつまで経っても戻らねえよ。でも全てをさらい上げるなんて不可能だ。沖へ流されて行くのを待つしかないんだろうな」
「何故、小野木さんはそんな事をご存じなんですか? 関東も見て回られたんですか」
「情報はそこかしこにある。目を凝らし、耳を澄ましてさえいれば誰にだって届くさ。後はその真贋を見極めて組み立てて行くだけだ。なあ仙ちゃん、いつからこの国の人間は考えることを止めちまったんだ? 俺はそっちの方が不思議でならねえ。明日は我が身なんだぞ。新たな地震が来る来ないって話じゃない。金を送ったらもう過ぎたこと、支援物資を出したから終わりって話じゃねえんだよ。何で海外のお医者さんや軍隊が来て同じ日本人が来ねえんだ。今こそ高村光太郎を読んでみろってんだ。俺の心配が杞憂に終わるならいい、俺一人が笑われれば済む話だからな。そうじゃねえと思うから必死になってんだ。何で誰も気づいてくれねえんだ?」
ヒゲ面から発せられる高村光太郎の名には違和感も覚えたが、遠い水平線に目を据えたまま語り続ける小野木の怒りは理解出来るように思えた。
「保険は適用されないんでしょうか」
由里は言った途端に後悔をする。自動車メーカーだけが救済されようと、焼け石に水なのだ。間の抜けた質問だと笑うか叱責されるのだろうな――そんな思惑とは裏腹に小野木は真摯に答えてきた。
「津波や地震特約をつけてるのは全契約者の一割程度だろうな。ナンバーの付いてない新車じゃそれにも入っちゃいねえだろうし保険屋にだって払う金が残ってるとは限らねえ。客から預かった金の運用先を海外のインフラファンドか何かに限定してればいいけど、国内の株価はあのザマなんだからな」
出張直前に書いていた記事を思い出した。個人投資家や証券会社が関連被害に晒される中、損保とて例外ではないだろう。小野木が語った言葉が重みを増してくる。未曾有の経済不況が来るぞ――由里は身震いを覚えた。
届かない叫びのもどかしさか、海面に反射する陽光が小野木の瞳に哀しみを浮かび上がらせる。ツナギの袖でゴシゴシと顔をこすると彼は由里に向き直って言った。
「俺のガイドは終わりだ。送ろう、車はホテルに届いているはずだ」
港からホテルまでの間、あれほど雄弁だった小野木が全くと言っていいほど口を開かなくなっていた。由里が提起した話題にも、ああそうだな、と生返事を返すのみ。何か怒らせるようなことを言ったのだろうか? 思い返してみるが心当たりはない。「しっかりな」との言葉を残し走り去る小野木の泥だらけの車を見送る。真新しいタイヤに履き替えられた由里のRAV4は確かに駐車場に届いていた。黒々した人工的な輝きを放つそれが何故だか疲労感を募らせた。歩いた距離などたかが知れている。運転は小野木が受け持ち助手席に座っていただけだ。なのになんでこんなに疲れているのだろう。部屋へ戻ると取材バッグを放り出しベッドに仰向けに体を投げ出した。
天井を見つめ、もう一度小野木の沈黙の原因を推察してみる。寄り添った哀しみの重さによるものだったのだろうか。無骨な外見にそぐわない感受性の強さを彼から感じ取っていた。
これほどの現実を知らされた私は、明日から何を取材すればいいのだろう。彼の助けなしで伝えるべき真実に巡り逢えるのだろうか。一日を回想する由里に緩やかに睡魔が舞い降りて来た。