小野木淳一
「明日の朝、九時に迎えに来る」そう告げて帰った小野木が、時間通りにホテル前の駐車場に車を停めていた。遅くまで原稿を書いていた由里だった。気を抜いたつもりなどないのたが、少し寝坊をしてしまう。窓から覗いた泥だらけの車体に支度を急かされたような気分になった。
「遅れて、すみません」
腕時計に目をやり、五分強の遅刻を詫びる。大柄なRV車は、確かFJクルーザーという車だった。ルーフラックに積まれた黒い大きな樹脂製のタンクが由里の目を引く。
「アイメイクのみか――せいぜい十五分ってとこだな。嫁さんにメールしてたとこだよ、気にすんな」
小野木が黒い携帯電話をポケットに仕舞いながら、由里を見て笑う。品定めされたような気がしてカチンときた。乗り込んだドアを強く閉め、嫌味のつもりで言った。
「可愛い奥様は、さぞやお化粧に時間がかかるんでしょうね」
「何で可愛いって知ってんだ?」
「昨夜、小野木さんが言ったんじゃないですか」
「そうだったか? 可愛いったって、もう四十に近いんだがな」と相好を崩しながら続ける。
「美代ちゃんも確か十分程度だったよ。長かったのはナ――いや、何でもない」
遠い目をした小野木が頭を振った。嫌みは通じず、何か別のことに気を取られていたようだ。一瞬だが、彼の瞳に哀しみの影が過ぎったように見えた。
「じゃあ、行くか」
「かさねがさね、すみません。カメラのバッテリーの予備を車に入れたままなんです」
「そっか、まだ車は動かしてないはずだから寄ってやるよ」
FJクルーザーは長町インターチェンジへと向かった。昨夜は気づかなかった異臭が鼻をつく。
「何の匂いですか? これは」
不躾かとは思ったが、思わずハンカチで鼻を押さえてしまう。
「ん? まだ、残ってんのか――俺達の嗅覚はイカれちまったようだな。津波で着の身着のまま避難した人々だったろ? 取り残されたペットを運んでたことがあってな。猫の小便はたまんねえよ」
思い出したかのように顔をしかめる小野木だった。
「AAか、どこかにですか?」
由里は有名な動物愛護団体の名を挙げた。
「いや、あそこは色々と気になる噂も多い。山間のペットショップで動物達を預かってくれてるってのを聞いてそこに運んだんだ。ぼちぼち飼い主が引き取りに来てるそうで一安心だ。仙ちゃんがこの車に乗るのも今日だけだ。タイヤの手配は出来たみたいだしな。明日には、あの車で走り回れるはずだ。一日だけ辛抱してくれ。使うか?」
小野木はグラブコンパートメントを開けてマスクを取りだす。
「いえ、大丈夫です。でも何ですか、その仙ちゃんってのは」
「由里ちゃんじゃあ娘と混同する。長いと呼び難い。仙道だから仙ちゃんでいいだろう」
馴れ馴れしさへの抗議のつもりだったのだが、小野木は意に介さず飄々と答えてきた。
「ルーフラックの黒いのは何ですか?」
「質問の多いお嬢ちゃ……記者さんだな。説明するより見た方が早い。最初に行く予定の避難所で使うから――おっと、忘れるとこだった。仙ちゃんのお陰だ」
小野木はHと書かれたスイッチを押した。黒いタンクに関係のあるものだったのだろう。
連れて来られたのは自衛隊の駐屯地だった。歩哨に何事か声をかけ、指差された方向へと車を進める。黄色く塗られたレッカー車が停められており、空気の抜けたタイヤが頼りなく由里のRAV4を支えていた。山田レッカーと看板の書かれた車体に手を掛けて話しているのは、カジと昨夜の若い自衛官らしい。小野木に気づいて自衛官が手を上げる。クレーンの付いたレッカー車も鵜飼ンバーだった。
「仙ちゃんが車に忘れ物だってさ。まだあって良かったよ」
「タイヤショップは十時からですからね、もう暫くしたら出るつもりでした」
車を下り、言葉を交わす小野木とカジを離れ自衛官が寄ってくる。ドアを開けようとする由里を右手を挙げて制した。
「取ってあげるよ、どこにあるの?」
バッテリーと空メディアの入ったポーチの在処を告げる。自衛官は身軽な動作でレッカー車に飛び乗ってドアを開けた。これかい? と動く口をみとめると、離れた自衛官にもわかるよう由里は大きく頷いた。
「ジュンさも来るのか? いくら司令の友達だからって民間人が頻繁に出来りしてるところを見られちゃあマズイんだよ。昨夜みたいな呼び出しも少しは遠慮してくれよな」
運転席のドアに体を預け、自衛官が小野木に話し掛ける。陽光の下で見る自衛官の顔は見事な美を象っている。涼しげな目元、きれいな稜線を描く鼻、きりりと引き締った口元、そして陶磁器のような肌は、女性にしてもおかしくないほどのキメの細かさだ。視線が交わった瞬間、由里は耳たぶの温度が上昇するのを感じた。何を赤くなっているの、な女子高生じゃないのよ。自分を叱咤する。小野木達が自衛官を呼びつけたり駐屯地に出入り出来る理由は、彼等の会話から理解出来た。
「しいっ、部外者の前で迂闊なことを口にするんじゃねえよ。ハッチに迷惑がかかるだろうが」
「だからさあ、司令をハッチって呼ぶなって。そっちの方が迷惑だと思うぞ」
「服部だからハッチ。ガキの頃からそう呼んでんだから今更、直らねえんだよ。固いこと言うな」
「町村、出発するぞ」濃いグリーンに塗られたトラックから声がかかる。
「じゃあ、先に行ってる」
町村と呼ばれた自衛官は深くヘルメットを被りトラックの荷台へと姿を消した。
「尚の入ってる亘理まで上って、荒浜地区、港と下ろう。戻るまでには仙ちゃんの車も直ってるはずだ」
「亘理に入るには通行証が要るんじゃないですか?」
関係者以外の車が邪魔になって復旧作業が進まず、町が通行規制を敷いたと聞いていた。
「え? 先週も行ったけど、そんなもん見せろとか言われなかったぞ」
解除されたのだろうか? それとも小野木達の通行が許されているのか――考えを巡らす由里に携帯が震えてメールの着信を知らせる。
『いい記事だ、主観に偏ることなく、要旨を外さない。上川の文体に似ているな。引き続き頼む。以上』
デスクからだった。短い文面だったが、滅多に記事を褒めることなどないデスクの賛辞に由里のテンションは上がった。
東部道路を下る景色は、昨日と変わらないように思えた。しかしやはり沿岸部に近付くほどに悲惨な様相を顕にするのだろう。
「ラクールは何箱買えた? 二十九か……足りねえな――他のMRにもあたってくれ」
誰かと無線で話していた小野木が送信機を置くのを待って、由里は当たり障りのない話題を振った。
「被災地の復興にはどのくらいかかると思います?」
「復興か……何を以て復興って言うんだろうな――俺には分からねえよ。とりあえず、あんな状態になっちまった建物や線路を戻すのは復興じゃない、一からの作り直しだ。こっちの人には申し訳ないけど、七十センチから沈下しちゃった土地は元通りにはならねえんじゃねえのかな。だったらそこにソーラーパネルを張り巡らせて原発の代用をさせちまえ。空いた場所へは、放射線を吸収するひまわりとか菜の花を植えまくるってプランはどうだ? それなりに雇用も生まれるだろうさ」
本気で言ってる? 夢物語のような話を滔々と語る小野木の横顔を由里はまじまじと見つめた。
「だがな、現実はこうだ。一次産業だけじゃない、自動車や鉄鋼メーカー、製紙に製薬、お医者さんも銀行も保険屋も全てが根こそぎやられちまってる。大企業の論理で、生産コストが安くてすむこっちに片っ端から工場を移転してきた。勿論、受け入れる側も企業誘致の恩恵には預かったろう、雇用や税収でな。ただ、その下請けとなった中小企業の扱いはひでえもんだぜ。仕事があるうちは食うには困らないが、正に生かさず殺さずの賃金だ。そんな会社が津波で二ヵ月も休んでみろ。従業員に給料払った時点で倒産だぞ。立て直そうにも蓄えがねえんだからな。いくら国が無利子で貸してくれるったって返さないで済む訳じゃない。どのみち辞めるしか途はねえんだよ。既にあちこちで関連倒産だってあるんだろ? 未曾有の経済不況が来るぞ」
「随分、悲観的な見方ですね。でも日銀総裁の話では、復興需要と相まって秋口には景気も上向くと言ってましたよ」
小野木がうんざりしたような顔をする。
「あのな、日本の財布が『この国の経済はぼろぼろで立ち直る見込みはありません』って言うか? 防衛大臣に、この国に核はありますか? って訊いてみろ。ないって言うに決まってるだろうが」
「あるんですか?」
穏やかでない小野木の発言に由里は身を乗り出す。
「なきゃあ、なんで基地近辺の放射線数値が高いんだよ。自衛隊機が原発を行き来してる訳でもないだろう」
明確な答えは得られなかったが、どこか含みを持った言い方が気になった。しかし昨夜の様子から、しつこく食い下がると口を閉ざしてしまうだろうと思い、次の質問に変えた。アイスブレイクのつもりで始めたそれに完全に惹き込まれていた。外見も言葉遣いも野蛮人を体現しているかのようなこの男に、こんな知識があるとは思ってもみなかった。
「政府の対応は、どう思われます?」
「可愛いお嬢……おっと、失敬。女性とのドライブに相応しい話題でもなさそうだが、まあいい。俺は政治家が全部悪いなんて思っちゃいねえぞ。ただ、船頭が――船の頭の方な、それが多すぎて利害が交錯するから何をするにも時間がかかり過ぎる。会期の150日かけて何ひとつ決められねえような連中には期待出来ねえよ。官僚や議会がヘソ曲げたら政策が進まないって体質も問題だな。有事の際には総理大臣に大統領権限を与えるって法律でも作っちまえばいいんだ。で、動かないヤツ等のケツをぶっ叩くんだ」
「現政権を支持なさるんですか?」
「そうじゃねえよ。でも、自治体や全漁連の陳情を聞いたのは現総理だろ? ここで頭が変わってちゃあ、ただでさえ遅い対応が余計に遅れちまわあ。足の引っ張り合いをしてる場合じゃねえんだよ。勿論、統一地方選なんざ、取りやめるべきだったんだ。こんな時期に選挙やってる場合か? 奴らの演説を聞いてみろ。『わたくしが当選した暁には』じゃねえんだよ。今、出来ることをやれってんだ。私はいざとなったらヤル人間だなんてヤツも信用しちゃいけねえ。そんなのに限って九年は何もしやしねんだから」
「何なんですか?その九年って」
「かつて俺が何もしなかった年月だ」
小野木の表情が曇る。何か訳がありそうだなと思ったが、それに触れるのは憚られた。
「復興庁も復興支援会議も出来ます。総理が変わっても対応が遅れるとは限らないと思われますが」
「こっちの人達は、そんなの待ってらんねえんだってば。未だに現地に足を運んでもいない連中が、のんべんだらりんとやってる会議が何の役に立つ? 頭を使うのは後だ、先ずは身体を動かせ。金勘定の得意な連中を送り込んで、早く義援金を分配しろってんだい」
小野木の語気が激しくなって行く。
「では小野木さんが大統領権限を持ったら、どうなさいます?」
「国家総動員だな。全国民に一人一日でいい、こっちに来てガレキの撤去でも年寄りの相手でもさせるんだ。崩れかけた建物に入って行方不明の身よりや思い出の品を探す人達が居る。手早く片づけないと危なっかしくってしょうがねえ。いくら飽きっぽい国民でも、この惨状を見れば何か感じるものがあるはずだ。誰にだって特技の一つぐらいあるだろう? それをここで生かしてくれねえもんかなと思うよ」
「善意は強要するものではないと思いますが」
「そうだな、じゃあ今後はレイプされそうな女性が居ても放っておこう」
意識の外からの反撃に返す言葉を失った。唇を噛んで睨む由里の視線に気づくと小野木は首をすくめる。
「冗談だよ、おっかねえ顔すんなって。おおかた、声が出せねえ状況だったんだろ? 分かってるってば。俺が言いたいのはだな、善意を失くしちゃった連中には強要するしかないんじゃないかってことだ。あるもんなら自然と沸いてもこようさ。でも、ないものは新たに植えつけるしかない。そうじゃねえか? 自衛隊、警察、ボランティアだけに頼ってちゃダメだ。俺達の国なんだぜここは。十都県、百六十以上の自治体が被災したんだ。どうにか今を乗り切ったとしても、いずれ適応疲労はやってくる。対岸の火事だなんて思ってると、それを乗り切ることなんか出来やしねえぞ」
適応疲労? 何を意味しているのだろう。後で調べてみようと由里は記憶に付箋を付けて仕舞い込む。
「でも人類には幾多の苦難を乗り越えてきた叡智があります。阪神淡路大震災だって、中越地震だって――」
「じゃあ聞くがな、その叡智を持った人類様があの津波に立ち向かえたか? 人間はちっぽけだぞ。一番でっかいアンドレ・ザ・ジャイアントを千人防潮提に並べたって太刀打ち出来やしなかったろうさ」
アンドレ・ザ・ジャイアントってのは誰なんだろう? 何かの比喩なのだろうか。これも検索すべき? 由里は付箋を付けるか付けまいか迷う。
「そして今その、叡智が生み出したものに苦しめられている人々が居る」
「原発のことですね」
「ふぁあ」
腑抜けたような返事の小野木に調子が狂った。欠伸を噛み殺していたようだ。由里は情報を整理して立て直しを図った。