仙道由里
「だからさあ、被災地の今を女目線で見た記事が欲しいんだよ。報道されない真実ってヤツをな。なにも手弁当でやれって言ってる訳じゃない。出張費もはずむ。俺は君の文章力を買っているんだ」
はあ、と曖昧に答えて自分の考えに沈み込む。なんで今更? なんであたしが? それが正直なところだった。デスクの口にした女目線という言葉にも引っかかる。せめて、女性目線と言えないものだろうか。彼の物言いは『記者に男も女もない、仕事さえ出来れば差別はしない』と、公言して憚らない自身のイデオロギーを反証していた。
種々の報道を見る限り、原発事故以外は収束の気配を見せ、復興に向かっているように思える。被災後、すぐに現地入りした先輩記者達が散々書き散らかし咀嚼し切った事案に、自分が書くものなど残っているのだろうか。宿泊施設の機能さえ不明瞭な被災地だった。温かくなったとは言え、未だ氷点下を記録する朝もあるという。つい先日、衣替えを済ませたばかりで、再び冬物を引っ張り出さねばならないのも億劫に思えた。
『リスクヘッジを脅かす過剰なレバレッジ率』経済学者を取材しデリバティブの危険性を書いた記事は、大震災に掻き消され陽の目を見ることはなかった。しかし、それが株価の急落を招くと個人投資家の多くが自己破産を申し立て、ネット証券会社には百億にも上ろうかという貸倒損失を生みだしたという。没記事となったそれを裏付けたのが大震災だったのは、とんだ皮肉といえよう。現地から送りつけてくるデタラメな文章の推敲ばかりを受け持たされていた現状から抜け出せるチャンスではあったが、デスクのいった報道されない真実というものが私に見つけられるのだろうか。おざなりの記事しか書けなければ、更に自身の評価を下げるのではないかといった危惧もあった。気乗りしない依頼であることは間違いない。
仙道由里は二十五歳。地元の大学を卒業後、この出版社に入って四年目になろうとしていた。希望していた文芸誌にポストはなく、この写真週刊誌に記者として配属される。ならばノンフィクションライターとして確固たる地位を築いてやろうと腕ぶしてはみたのだが、記者とは名ばかり、推敲担当の現状に髀肉之嘆をかこう毎日だった。。
肩までの髪をポニーテールにまとめ、聡明そうな広い額と意志の強さを湛える切れ長の瞳は、端正だがそこはかとない儚さを感じさせる。バランスの取れた四肢と姿勢の良さは、彼女の身長を実際の百六十四センチより高く見せていた。アイメイクのみ、ピアスなし、ネイルなしで、あまり笑顔を見せないせいもあったのだろう。他人を寄せ付けない雰囲気を纏う由里に、気安く声を掛ける同僚は少なかった。
電力会社や経産省の官僚、おちょぼ口の官房長官達が繰り返す 『ただちに健康に影響を及ぼす数値ではない』 との文言には違和感を覚えた。放射線障害は挽発性だ。その言葉に担保能力がないことなど、中学生でも分かる。読者の目を引くような新事実に巡り逢えなければ、原発事故の影響が残る地にも足を伸ばさねばならないのではないだろうか。鬱塞が蔓延る屋根へと躊躇いがちに手を伸ばす。
「いま、かかってる原稿はどうしましょう」
「それを書き上げてからでいい。あの有様だ、一日や二日到着が遅れたところで、被災地の状況に大した変化もないだろう。じゃあ頼んだぞ。車は持ってたよな。まだまだあっちではガソリンは貴重品だそうだ。現地に入る前に満タンにしておけよ」
「車で行けってことですか?」
「当たり前だろう。まだ全ての交通機関が復旧している訳ではない。そうでなくても、車がなければ不便な地方なのだからな。いい記事を期待しているぞ」
仕方ない。ここで断れば、また推敲に明け暮れる日々が待つのみだ。病気がちな母を独りにして家を空けるのは気が重かったが、苦境を成功への扉と変えた先人達に倣ってみよう。由里は鬱ぐ気分に鞭を入れ、固い表情で頷いた。
「わかりました、行きます。私が書く予定だった、統一地方選の記事はどうなりますか?」
「あれは、谷口に任せる。こんな時期でさえ他政党の攻撃に終始するだけの連中だ。どこが議席を占めようと、何も変わりゃあせんよ。被災地には迷惑千万な選挙だってことぐらい、あの子にも分かっているはずだ。お手並み拝見と行こう」
入社二年目の谷口晴美は、同性の由里から見てもチャーミングな笑顔の持ち主で、男性記者達の受けは、すこぶる良かった。しかし、客観性に欠け、終助詞の多用される文章は、お世辞にも記事向きとはいえない。おそらく贔屓の作家でも真似ているのだろう。見かねて意見をしたこともあったが「わたしは、こうしか書けないんですう」と、甘えた口調だが明瞭な輪郭で拒絶が返ってきた。
「この編集室じゃあ、二人きりの女性部員だ、面倒を見てやってくれ」そう、編集長に頼まれてはいたが、以来、彼女の記事に口出しをすることはなかった。由里を飛び越えてデスクに届くそれは、シュレッダー行きとなっていたはずだった。
『君の文章力を評価する』といった舌の根も乾かないうちに、その代理に谷口晴美を指名するデスクに、同列の評価をされたような気がして、痛くプライドが傷ついた。女は愛嬌か――使い古された言い回しが頭を過ぎり徒労感が湧き起こる。諾否の返答を急ぎ過ぎたのでは? しかし、これは依頼でも提案でもない。デスク直々の命令ともいってもいい。今更、不満を口にすれば彼の機嫌を損なうだけだった。軽く唇を噛みしめた由里は、沈黙を以って抗議に代えようとするのだが、かかってきた電話を合図に、会話の終了を告げられる。
「発てる準備が出来たら知らせてくれ。以上だ」