第36話「たった一つの布団と、絶対不可侵の結界」
風呂上がり、少し火照った体を夜風で冷ましながら、僕たちは宿の帳場に立っていた。
そこでは、宿の女将(実はミレーヌ商会の息がかかった従業員)が、申し訳なさそうに、しかし目は笑いながらこう告げた。
「申し訳ございません、お客様。手違いで他の部屋が全て埋まってしまいまして……。空いているのは、こちらの『特別室・連理の間』のみとなります」
「えっ? そ、それって……?」
「はい。カップル様専用の、お布団が一組だけ敷かれたお部屋でございます」
セレスティアが「ひゃうっ!?」と変な声を上げる。
もちろん、これは僕とミレーヌが事前に仕組んだ茶番だ。本来なら宿は貸切なのだから。
「仕方ないね、セレス。野宿するわけにもいかないし」
「う、うん……。そうだよね、仕方ないよね……(ドキドキするぅ……!)」
セレスティアは真っ赤な顔で自分を納得させている。
僕たちは案内された部屋へと足を踏み入れた。
◇
8畳ほどの和室。
その中央には、真っ白な布団が二枚、ぴったりと隙間なく並べられていた。いや、これは実質「一枚の巨大な布団」だ。枕の距離が近すぎる。
「ち、近い……! これじゃ寝息がかかっちゃうよ……」
セレスティアがモジモジと正座する。
風呂上がりの浴衣姿、うなじから漂う石鹸の香り。そして「混浴」の興奮が冷めやらぬままのこのシチュエーション。
最高の舞台だ。
――ただし、観客がいなければ、だが。
(……やれやれ。害虫駆除の時間だ)
僕は部屋の四隅に視線を走らせた。
天井裏、床下、そして隣の部屋との襖の隙間。そこから無数の『覗きの糸』が伸びている。
天井裏にはクロエ。『主様の寝顔、録画する……』
床下にはヴァレリー。『二人の重み……軋む床板になりたい……』
襖の向こうにはミレーヌとオメガ。『初夜のデータ、高値で売れますわ』『心拍数上昇ヲ検知シタラ即座ニ突入シマス』
彼女たちは、ここぞとばかりに監視体制を敷いていた。これでは落ち着いてイチャイチャもできない。
「セレス、ちょっと待ってて。……蚊がいるみたいだ」
僕は立ち上がり、部屋の中央で指を鳴らした。
空間に張り巡らされた『監視の因果』をまとめて鷲掴みにする。
ジョキン。
『外部からの干渉』の完全切断。
そして、『認識阻害結界(二人だけの世界)』の展開。
「君たちの役目は監視じゃない。……それぞれ自分自身の『欲望』と戦うことだ」
僕は切断した糸を、彼女たち自身の脳内へと逆流させた。
――天井裏のクロエには、『最強の猫じゃらしが目の前で揺れ続ける幻覚』を。
「にゃっ!? これ、気になる……! 取れない……!」(バタバタ)
――床下のヴァレリーには、『高級羽毛布団に包まれ続けるという極上の安らぎ(彼女にとっては拷問)』を。
「やめろぉぉ! フカフカすぎる! 体が癒やされてしまうぅぅ! もっと硬い床をくれぇぇ!」(悶絶)
――襖の向こうのミレーヌとオメガには、『国税局の強制捜査が入る幻覚』と『システム強制アップデート中の砂時計画面』を。
「いやぁぁっ! 裏帳簿は見ないでぇぇ!」(パニック)
「……更新プログラムヲ構成中……残り99時間……」(フリーズ)
ドタバタという音が遠ざかり、部屋は完全な静寂に包まれた。
これで、この部屋は宇宙から隔離されたも同然だ。
◇
「……蚊、いなくなった?」
「ああ、退治したよ。もう誰も入ってこない」
僕は電気(行灯)を消し、布団に入った。
隣にはセレスティアがいる。
暗闇の中、彼女の緊張した呼吸音が聞こえる。
「……ヴェイン、起きてる?」
「うん」
「私、眠れないかも。……心臓がうるさくて」
布団の中で、彼女の手が恐る恐る伸びてきて、僕のパジャマの袖を掴んだ。
その小指の『恋の糸』は、暗闇の中で淡くピンク色に発光し、僕の小指へと絡まりつこうとしている。
「こっちにおいで」
僕は彼女の手を取り、引き寄せた。
枕の距離がゼロになる。
おでことおでこが触れ合う距離。
「……っ! ヴェイン……」
「何も心配いらないよ。僕たちは『家族』以上の関係になるために、ここに来たんだから」
僕は彼女の額に、優しく口づけた。
それだけで、セレスティアの体から力が抜け、代わりに蕩けるような安堵感が広がっていく。
「……うん。ヴェインの匂い、落ち着く……」
彼女は僕の胸に顔を埋め、そのまま腕を回してきた。
今夜はそれ以上、何もしない。
ただ、互いの体温と鼓動を感じながら、同じ布団で眠る。それだけで、「幼馴染」という殻を破るには十分すぎる儀式だった。
◇
翌朝。
小鳥のさえずりと共に目を覚ますと、僕の腕の中にはスヤスヤと眠るセレスティアがいた。
そして、部屋の外はカオスだった。
「にゃ……猫じゃらし……疲れた……」と力尽きたクロエ。
「健康になってしまった……屈辱だ……」と肌がツヤツヤになったヴァレリー。
「税務署は!? 税務署は帰りましたの!?」と錯乱するミレーヌ。
「……再起動完了。……朝デスカ?」とポンコツなオメガ。
僕たちは彼らを跨いで、爽やかに宿を出発した。
セレスティアの顔は、昨夜よりも少し大人びて、そして僕を見る目が明らかに「雄を見る目」に変わっていた。
「ねぇヴェイン、次はどこに行くの?」
「そうだね。……少し、昔話をしようか」
旅は続く。
次なる舞台は、僕とセレスティアが出会う前――僕がまだ「ただの転生者」だった頃の記憶が眠る場所。
(第36話 完)




