第9話「秘湯の煙と、沈黙する竜」
標高3000メートル。
本来なら猛吹雪で遭難必至の雪山だが、僕たちは快適だった。
ミレーヌの『走るスイートルーム』馬車は、結界魔法による空調完備だからだ。外が氷点下だろうと、室内は春のように暖かい。
「ヴェイン様、この先に天然の秘湯がございますの。当商会が開発予定のリゾート地なのですが、今はまだ誰も知らない穴場ですわ」
「温泉!? 入りたい入りたい!」
ミレーヌの提案に、セレスティアが目を輝かせて食いついた。
勇者の旅に休息は必要だ。僕は微笑んで頷いたが、視界には警告色が見えていた。
温泉がある洞窟の奥から、極太の『灼熱の糸』が伸びている。
――火竜。
この山の主であり、本来なら物語の中盤でセレスティアを苦戦させる相手だ。
(……温泉に入っている間にドラゴンに焼かれる、なんて展開は三流映画だけでいい)
現地に到着すると、そこは岩肌から湯気が立ち昇る絶景の露天風呂だった。
セレスティアは歓声を上げて脱衣所(ミレーヌが即席で設置した天幕)へ飛び込んでいく。
「ミレーヌ、セレスと一緒に入ってやってくれ。背中を流すついでに、周囲の警戒……いや、君はただ楽しんでいればいい」
「あら、ヴェイン様はご一緒されませんの? 混浴でも構いませんのに……」
「僕は湯加減を見てくるよ」
残念そうにするミレーヌを送り出し、僕はタオルの代わりに『剪定の鋏』のイメージを強く握りしめた。
背後の雪原から、白い湯気と共にクロエが現れる。
「……主様。竜の気配、濃厚。殺しますか?」
「いや、殺すと血の匂いで温泉が台無しになる。……『黙らせる』ぞ」
◇
女湯からキャッキャという楽しそうな声が聞こえてくる。
その岩壁一枚隔てた奥、灼熱のマグマが流れる空洞で、僕は全長20メートルの巨竜と対峙していた。
『グルルルァァ……!』
火竜が目を覚まし、侵入者である僕に殺意を向ける。
大きく息を吸い込み、全てを灰にするブレスを吐こうとした――その瞬間。
「うるさい。客が入浴中だぞ」
僕は火竜の喉元から伸びる『咆哮の因果』をジョキンと切断した。
「……ッ!?」
火竜は口をカッと開いたが、音も、炎も出ない。
喉が詰まったような顔で咳き込む竜に、僕は冷酷に告げる。
「君の役割を変更する。破壊の化身から、……『全自動給湯システム』へ」
僕は切断した糸を、地下の水脈へと繋ぎ変えた。
さらにクロエが素早く竜の背後に回り込み、急所の逆鱗に冷たい短剣を突きつける。
「……動くな。動けば、刺す」
「そういうことだ。君が大人しくマグマを温め続ければ、僕たちは何もしない。だが、少しでも暴れて向こうの湯に波を立てれば……その首を落とす」
竜の目から涙がこぼれた。
食物連鎖の頂点に立つ最強種が、一人の人間と一人の暗殺者に完全屈服した瞬間だった。
◇
「はぁ~、生き返るぅ……」
白濁した湯に肩まで浸かり、セレスティアは極楽の表情を浮かべていた。
「それにしても、ここのお湯、温度が絶妙だね! 熱すぎずぬるすぎず、ずーっと入っていられそう」
「ええ、本当ですわね。(さっきまで少しぬるかった気がしますけれど、急に最適な温度になりましたわ……さすがヴェイン様)」
ミレーヌは岩の向こうで何が行われているかを察し、頬を赤らめて熱い吐息を漏らした。
最強の魔物をボイラー代わりに使う男。その圧倒的な支配力に、彼女の身体が疼いて仕方がないのだ。
「あ、ヴェインの声がする! おーい、ヴェインー! そっちも気持ちいいー?」
岩越しにセレスティアの声が響く。
僕は竜の頭の上に座り、怯えて縮こまる竜の眉間を撫でながら答えた。
「ああ、最高だよ。すごく『大人しい』湯だ」
風呂上がり。
肌を桜色に染めたセレスティアは、湯冷めしないようにと僕のマントに包まりながら、満面の笑みを見せた。
「ありがとうヴェイン。私、旅に出てからの方が肌の調子がいいみたい!」
「それはよかった。……さあ、行こうか」
僕たちは洞窟を後にする。
その奥では、すっかり従順になった火竜が、僕たちが去った後も真面目に温泉を温め続けるというシュールな因果が定着していた。
勇者の肌は守られた。
伝説の竜の尊厳と引き換えに。
(第9話 完)




