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十年という歳月が流れ、寂れた山間の町は少しずつ変わった。大きな宿ができ、エトランゼ亭の周りにも、新しいレストランやカフェが建ち並ぶようになった。


そんなある日、エトランゼの扉を叩く一組の客があった。


それは、恰幅の良い、初老の男と、彼より少し年若い青年の二人組だった。男の立ち居振る舞いには、旅慣れた雰囲気があるものの、その瞳にはどこか頼りなげな、ぼんやりとした影が宿っていた。


「ごめんください。ここで「一途」という名のローストビーフをいただけると聞きましたが?」


男はそう言って、カウンターに腰を下ろした。


セフィーラはいつものように、完璧な焼き加減のローストビーフを、シンプルなグレービーソースと、地元産の新鮮な野菜を添えて提供した。


男は静かに一切れを口に運んだ。

フォークの先で切り分けられた、ほんのりピンク色の肉片が、彼の口の中へと消えていく。その瞬間、男の顔色がさっと変わった。目を見開き、噛みしめるたびに、彼の表情に驚きと懐かしさが混じり合った。


彼は目を閉じ、まるで遠い記憶を辿るように、ゆっくりと咀嚼した。


「……これは……」


男は一言だけ呟いた。そして、目を開けると、セフィーラをまっすぐに見つめた。彼の瞳の奥に、深い感情が揺らいでいた。


「この味は……まるで、俺の魂の故郷のような味がする……」


男は再び肉を口に運んだ。今度は、自分の味を確かめるように、料理人の真剣な眼差しで味わう。肉汁が口いっぱいに広がり、鼻腔を抜けるハーブの香りが、彼の記憶の扉を叩いているようでもあり、魂の飢えを満たすようでもあった。


食後、男はセフィーラに尋ねた。


「このローストビーフのレシピは、どなたから教わったのですか?この調理法、この火入れ……尋常ではない情熱を感じる」


セフィーラは、静かに答えた。


「十数年前、この街に立ち寄った旅の料理人から教わった、ただ一つのレシピです」


男の瞳の奥に、強い光が灯った。


「その料理人の名は?」

「リオネルと申します」


セフィーラが答えた瞬間、初老の男は雷に打たれたように固まり、代わりに彼の連れが話し始めた。


「私は、この人の世話役をしている者です。この人は、五年ほど前、異国の地で疫病に倒れました。

命は取り留めたのですが、過去数年間の記憶をひどく曖昧にしてしまったのです。

特に、自分が世界を股にかける料理人だったこと、そして、旅立つ前の記憶が、ほとんど消えてしまいました…彼の名前がリオネルなのです」


男は、自分の名をリオネルと告げられたにもかかわらず、どこか他人事のようであり、しかし、じっとセフィーラを見つめていた。


「彼は記憶を失っても料理への情熱だけは失いませんでした。彼は、失った記憶を取り戻す手がかりとして、自分が過去に追い求めた味を探し求めて、世界を旅し続けているのです」


連れの男性はわずかに微笑んでセフィーラに告げた。


「このローストビーフこそ、彼が求めていた味なのでしょう。この味は、彼の記憶ではなく、彼の魂が覚えている味なのです。彼は、この地を、決して忘れていなかった……」


セフィーラは、静かに、しかし強く、男の言葉を聞いていた。


リオネルは、約束を破ったわけではなかった。

彼は、病と戦い、記憶という最も大切なものを失いながらも、セフィーラとの愛の証である「味」を求めて、無意識のうちに、約束の場所へと帰ってきていたのだ。


「私が待っていた時は決して間違いじゃなかった…」


セフィーラの瞳から、一筋の涙がこぼれ落ちた。

それは、深い安堵と、愛しい人がすぐそこにいるのに、まだ遠いという、胸の奥に秘めた哀切の涙だった。



・・・・・・



舞台の上、セフィーラは静かに立った。

観客たちの視線が彼女に集まる。


そして、踊りが始まる。

足音もなく、風のように軽やかに舞うセフィーラ。

手先から指先まで、ひとつひとつの動きに、十数年の思いが宿っている。


リオネルは席から動かず、その舞を見つめる。

胸の奥が熱くなる。

かすかに震える手。呼吸が止まる。


セフィーラの体が一瞬止まったかと思うと、次の瞬間、再び空間を切るように舞う。

笑顔でもなく、悲しみでもなく、ただ魂の叫びが形になったような舞。


「一途という名の舞。愛しい人の記憶を求め、命を懸けて踊る、奇跡の舞」

そう誰かが囁く。


リオネルの目に、昔の情熱が戻る。

体が前のめりになり、自然と立ち上がる。


彼女は踊りながら、二人の過去、約束、愛のすべてを紡ぐ。

一歩、また一歩、舞台を駆けるたび、リオネルの胸に記憶の断片が蘇る。

岩塩とハーブの香り、白いハンカチ、約束の言葉、そして愛しい人の笑顔と約束……。


「セフィーラ!」


声が空間を震わせる。

リオネルはカウンターを飛び越え、舞台へ駆け上がる。

その瞳に、かつての料理人リオネルの鋭い光が宿っていた。


セフィーラは微笑む。

嗚呼、帰ってきた…。


二人は、十数年の時と記憶の壁を越え、舞台の上で再会した。





・・・・・・



リオネルは、すべての記憶を取り戻したわけではなかった。

しかし、セフィーラへの愛と、究極のローストビーフの味、そして料理人としての魂という、最も大切な記憶が鮮明に蘇った。


彼はこの町に留まることを決めた。


「俺の旅は終わった。約束通り、帰ってきたよ、セフィーラ、待たせすぎてごめん」


リオネルとセフィーラは、エトランゼ亭を「ランプ」と名を変え二人でやって行く事にした。


リオネルは、セフィーラの愛が完成させたローストビーフを、「一途」の名で守り続けた。彼は、記憶の曖昧な部分をセフィーラの愛で補いながら、その技術と情熱を再び潮風の街で燃やした。


セフィーラは、もう誰かを待つ踊りは踊らない。

傍らのぬくもりを守るのみである。

彼女の舞は、愛する人を繋ぎ止めた、「奇跡の愛」として語り継がれる。

そして、そのお話の向こうには彼らの愛の証である最高の肉料理が、いつも優しく灯をともし続けている。



エトランゼ亭(灯)の扉は、今夜も静かに開かれる。

店内にはローストビーフの香りが満ち、厨房から聞こえる小さな音が、二人の息づかいと重なる。

セフィーラはカウンター越しに微笑み、リオネルはその笑顔に応える。


誰も知らない小さな奇跡が、ここにある。

十数年の時と、記憶の壁を越えて、二人の愛が、静かに日常の中で生きていた。

そして、街に灯るランプは、今も変わらず、優しく道を照らしている。


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