第9話 無有恐怖
【緊急報告 003】 2024年9月23日
居酒屋で酔い潰れてしまった山本をタクシーに押し込んだ後、すぐに私は自宅アパートに戻った。熱いシャワーを浴び、山本との会話内容を調査記録として整理し終えた時のことだった。
スマートフォンの通知が鳴った。
差出人は、Yahweh!知恵袋。
「あなたの質問への回答」だった。
私は質問などしていない。悪戯か、バグか。
恐る恐る通知をタップした。画面に表示されたのは見覚えのない質問と、それに対するᕫからの一方的な回答だった。
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【掲示板ログ】
投稿者: sato_pen
質問日時: [データ破損により表示できません]
ぼくの弟はどこに行ったの?
何か約束していたと思うんだけど、それも分からなくなっちゃった。
投稿者: ᕫ
回答日時: 2024/09/23 21:13:04
幼い頃に亡くした、あなたの弟、翔太くんについてですね。
彼は赤いミニカーを欲しがっていました。
あなたは、お兄ちゃんとして、それを買ってあげると約束していました。
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回答を見た瞬間、忘れていた風景が蘇った。
脳にデフラグが起きたかのように、鮮明に。
公園の砂場。泣きじゃくる幼い弟、翔太。
翔太が欲しがっていた、私の赤いミニカー。
「かして、にいちゃん、かしてよぉ……」
私は、それを貸すのが嫌で、同じ赤いミニカーを買ってあげると約束したのだ。それでも、しつこく泣きついてくるのが、うっとうしくなってしまい、翔太を突き飛ばして、一人で家に帰ってしまった。
「もう知らない! 勝手にしろ!」
それが、私が翔太に言った、最後の言葉。
――「忘れたうた」。
翔太は、その日、トラックに轢かれて死んだ。
私は、弟がいたことを忘れていたのではない。
弟を見捨てたという罪を、忘れたかったのだ。
脳裏に「耳なし芳一」の物語がちらつく。
これか。これだったのか。私の人生の中心にあった、あまりにも巨大な「情報の空白」の正体は。
ᕫは、初めから知っていたのだ。私の心の、最も醜く、最も深い罪の在り処を。
絶望が、全身を駆け巡った。ᕫは、空白を見つけると、そこに侵入する。
――レシピノートの「空白」。
山田さんの思い出は、偽りの料理に書き換えられ、元の情報は破壊された。
――卒園アルバムの「空白」。
佐々木くんの思い出は、存在しない先生の名によって、過去は書き換えられた。
――加藤教授の「空白」。
それは判然としないが、その明晰な頭脳で、私よりも早くᕫの真相にたどり着いたのだろう。彼の理性は、たった一度の遭遇で侵食され、その人格は乗っ取られた。
では、私の場合は?
私の記憶にある、この巨大な罪の「空白」。
これを奪われたら、私はどうなる?
加藤教授のように、中身のない人形になるのか?
いや、違う。私は、この怪異の根源に誰よりも深く触れてしまった。私が最後に奪われるのは、人格だけではない。私という存在そのものが、この世界から完全に消去されてしまうのだ。
その絶望の底で、奇妙な闘志が燃え上がった。
まだだ。まだ、私は「私」だ。
ᕫに喰われる前に、抵抗する。
私はPCの前に座った。
「耳なし芳一」の比喩が、唯一の道標だった。
全身に、経文を書くのだ。
私という存在を、情報で、テキストで、完全に定義し、塗り固める。
ᕫが入り込む「空白」を、1ミリたりとも残さないために。
Wordファイルを開き、私は、ひたすらに自分自身を書き連ねていく。
「私、田中聡は、1992年4月10日、東京都で生まれた。父は田中一郎、母は田中良子。弟がいた。名前は翔太。私は彼の存在を忘れていた」
「私は、〇〇小学校、〇〇中学校を卒業した。友人は、山本……」
「私は、フリーライターとして、ᕫ現象を調査していた。きっかけは……」
経歴、思い出、家族構成、友人関係、身体的特徴、好きだった食べ物、見てきた映画。「私」を証明する全ての情報を、一字一句、書き連ねていく。写真、音声記録、戸籍謄本のスキャンデータまで、ありとあらゆる「情報」で自身を定義し、塗り固めていく。
それでも足りない。何かが足りない。
気づいた時、私はブラウザで「魔除け」「呪文」と検索していた。そして、そこに現れたテキスト。
観自在菩薩行深般若波羅蜜多時照見五蘊皆空度一切苦厄舎利子色不異空空不異色色即是空空即是色受想行識亦復如是舎利子是諸法空相不生不滅不垢不浄不増不減是故空中無色無受想行識無眼耳鼻舌身意無色声香味触法無眼界乃至無意識界無無明亦無無明尽乃至無老死亦無老死尽無苦集滅道無智亦無得以無所得故菩提薩埵依般若波羅蜜多故心無罣礙無罣礙故無有恐怖遠離一切顛倒夢想究竟涅槃三世諸仏依般若波羅蜜多故得阿耨多羅三藐三菩提故知般若波羅蜜多是大神呪是大明呪是無上呪是無等等呪能除一切苦真実不虚故説般若波羅蜜多呪即説呪曰羯諦羯諦波羅羯諦波羅僧羯諦菩提薩婆訶般若心経
意味も分からぬまま、ただひたすらに、自分の経歴書の末尾にコピー&ペーストし続けていた。




