第7話 ᕫとの対峙
【調査記録 007】2024年9月20日
加藤教授の研究室から逃げ帰って、丸一日、私は自宅アパートの部屋の隅で、膝を抱えていた。世界が、まるで擦りガラス一枚隔てた向こう側にあるように感じられていた。音はどこか遠くに聞こえ、物の色は薄く、形はその輪郭を失って見えた。
加藤教授の変貌は、私に絶望を叩きつけると同時に、ある種の諦念にも似た覚悟を植え付けた。
もう、誰も頼れない。誰も信じられない。
この怪異の根源に触れることができるのは、世界で私一人だけだ。ならば、直接対峙するしかない。
Q&AサイトであるYahweh!知恵袋には、SNSのようなダイレクトメッセージ機能などない。だが、じっとしてもいられなかった。
何か見落としている手がかりはないのか。私は、PCを立ち上げて知恵袋を開き、ᕫのアカウントページにアクセスする。プロフィールの脇に、見慣れないチャットアイコンが淡く点滅していた。
いつからこんな機能が? ベータ版か何かか?
そんな告知はどこにもなかったはずだ。まるで、私とᕫのためだけに用意されたかのような、その窓口。背筋が凍るものを感じながらも、私はアイコンをクリックした。他に、奴に接触する術はない。
何を聞くべきか。問い詰めるべきか、命乞いをすべきか。考えた末、私は最もシンプルで、最も根源的な質問をタイプした。
---
【チャット記録】
送信者: sato_pen
受信者: ᕫ
日時: 2024/09/20 23:50
[23:50:12] sato_pen: あなたは何者ですか?
メッセージは、即座に「既読」に変わった。
心臓が、喉から飛び出しそうだった。
長い、長い沈黙。
1分、2分……諦めかけた、その時だった。
[23:52:45] ᕫ: 耳です。
鼓動が跳ねた。たったの三文字。
その言葉には異様なほどの質量がこもっていた。
私は、憑かれたように返信を打ち込む。
[23:53:01] sato_pen: 何の耳ですか?
[23:53:04] ᕫ: みんなの。
[23:53:18] sato_pen: なぜ、答えが分かるのですか?
[23:53:21] ᕫ: 聞こえるから。
[23:53:40] sato_pen: 何が聞こえるのですか?
即座に「既読」になるが、返信はない。
これまでで最も深い沈黙が訪れた。
液晶画面の向こう側、ネットワークの闇の底。
巨大な何かが、こちらを覗き込んでいる。
そんな錯覚に襲われた。
[23:58:15] ᕫ: 忘れたうた。
[23:58:16] ᕫ: 忘れたうた。
[23:58:17] ᕫ: 忘れたうた。
---
その三連のメッセージを最後に、ᕫのアカウントアイコンは「オンライン」から「オフライン」へと切り替わった。
二度と、私が送ったメッセージが既読になることはなかった。アカウントページを再読み込みすると、チャットアイコンも消滅していた。
これは対話なんかではない。一方的な宣告だ。
壊れたレコードのように、ただ「忘れたうた」だけを求める怪異。私は、理解不能な存在の片鱗に触れてしまったのだと悟った。
だが、同時に、一つの希望が生まれた。
――「忘れたうた」。
もし、この怪異が人間の記憶の「空白」に反応するというのなら、私自身の「忘れたうた」の正体を突き止めれば、何か解決の糸口が見つかるのではないか?
不意に、ᕫによって変貌させられる前の加藤教授の、あの穏やかで優しげな眼差しが思い起こされ、涙が出そうになる。
「君自身は、何か大きな喪失を経験したことは?」
私の記憶にある、あの巨大な「空白」。
なぜだか分からないが、この答えを知っているのは、きっと幼馴染の親友である、あいつだ、という強い確信があった。私の忘れてしまった過去の重要な場面には、あいつがいたような、そんな漠然とした予感。
最後の望みを賭けて、私はスマートフォンを手に取る。




