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第6話 理性の崩壊

【調査記録 006】2024年9月18日


 三日後。私は約束通り、収集したデータを追加で整理し、再び加藤教授の研究室のドアをノックした。希望を胸に。


---


【面会記録 003-B:加藤教授(面会2回目)】

日時:2024年9月18日 17:00

場所:東都大学 加藤研究室


 ドアを開けると、加藤教授はデスクで分厚い専門書を読んでいた。顔を上げた彼は、私を見て怪訝そうな表情を浮かべた。


「……失礼だが、君は?」


 空気が凍った。


「た、田中です。先日、お約束させていただいた……」

「田中くん? どこの誰だね。アポイントは取っているのかね。見ての通り、私は今忙しいんだが」


 教授の口調は冷たく、事務的だった。先日見せた、真摯で知的な好奇心に満ちた眼差しはどこにもない。


「何をおっしゃるんですか! 三日前、ここでお会いしたじゃないですか! ᕫ現象の調査を一緒にやっていただけると……!」

「ᕫ現象? なんだね、それは。新手の宗教の勧誘かね?」


 教授は心底うんざりしたという顔で、私を一瞥した。


「君のような、突飛な妄想を抱えた学生が、日夜私の研究室に押しかけてくるんだ。悪いが、君と会った記憶など、私には一切ないね」


 足元が崩れ落ちるような感覚。

 違う。この人は、こんな人間ではなかった。

 私は必死に、記憶の糸をたぐり寄せた。


「うそだ! 先生は、私の『耳なし芳一』仮説に興味を持ってくれたじゃないですか!」


 私がその言葉を口にした瞬間、教授は初めて興味深そうな表情を浮かべ、ペンを手に取った。


「ほう、『耳なし芳一』か。面白いことを言う。……そういえば、人間の記憶というものは、実に曖昧で、脆弱なものだ。特に強いストレス下においては、存在しないはずの会話を、さも実在したかのように鮮明に記憶してしまうことがある。虚偽記憶、というやつだ」


 教授は私を観察しながら、まるで珍しい症例を記録するかのように、メモ帳に何かを書きつけている。


「君のその『記憶』は、素晴らしい研究対象だ。君自身が、私の新たな研究テーマになりうるかもしれん。よければ、もう少し詳しく話を聞かせてもらえないかね? 君が『私と会った』と信じ込んでいる、その日のことを。……さあ、早く。早く、こっちに来たまえ」


 教授は口元を歪ませ、歯茎をむき出しにして笑う。ヤニの染み付いた、黄ばんだ歯が口から覗いた。その目は腹を空かせた獰猛な肉食動物のようにも思えた。

 全身が粟立ってしまう。私は、もはや言葉を発することができなかった。


 悟ってしまったのだ。


 ᕫは、私と加藤教授が会った「初日の面会」という事実そのものを、消去したのだ。教授の記憶から、私との出会いを、ᕫ現象への興味を、すべて洗い流し、彼の思考や人格すらも、完璧に修正してしまった。


 唯一の理解者。理性の最後の砦。

 その存在が、今、目の前で、ᕫの恐るべき力を証明する、生きた証拠に成り果てている。


「どうしたのかね、田中くん。顔色が悪いぞ」


 ギィと椅子の軋む音がした。教授は巨体を揺らしながら、椅子からゆっくりと立ち上がった。

 彼のワイシャツは汗で湿っぽく、だらしなく肥えた体に窮屈そうに張り付いている。シャツの腹回りは、破裂寸前の風船のように膨らんでいて、ボタンの隙間から、よれた肌着が覗いていた。

 私を品定めするかのように、彼の目が、ねっとりと細められる。恍惚を思わせるその表情。分厚い唇が、わずかに吊り上がり、半開きの口元からは、ため息が漏れた。


 彼は一歩、私に近づいた。


 汗と煙草の匂い。それらが、皮脂が酸化したような甘ったるく酸っぱい、彼独特の体臭と混じり合って、私の鼻腔を直接殴りつけるようだった。

 私は、思わず吐きそうになってしまい、踵を返して研究室から逃げ出した。


「待ちたまえ、田中くん!」


 背後から聞こえる教授の低い声は、息を荒げながらも、どこか喜悦に満ちているようだった。


「素晴らしい! その恐怖に歪んだ表情、リアルタイムで記憶が変質していく際の典型的な認知的不協和だ! これは大変貴重なデータになる! ああっ、こんな幸運に巡り合えるとは! 神に感謝を!」


 狂っている!


 誰もいない大学の廊下を、私はただ必死に走った。ハア、ハア、という吐息に、ドタドタと不格好に鳴る革靴の音が、ずっと背中に張り付いている。


 角を曲がり、階段を駆け下り、無我夢中で研究棟の裏口までたどり着いた時、ふと、その足音が真後ろでピタリと止んだ。


 振り返る勇気はなかった。


---


 すでに夕暮れだった。膝をつき、ぜえぜえと呼吸を整える。冷たいコンクリートの塀に額を押し付けた。大学の研究棟の向こうに見える太陽が、血のように赤く、やけに眩しく感じた。


 もう、味方はいない。この怪異の異常性を共に分析し、立ち向かってくれるはずだった唯一の協力者。その理性の砦が、今、目の前で崩れ落ちた。

 ᕫは、私の希望を的確に嗅ぎつけ、それを最悪の形で奪い去っていく。これから先、私が誰かに助けを求めても、きっと同じことが繰り返されるだけだ。ᕫは、私に差し出された救いの手を、ことごとく腐らせていくのだろう。

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