第5話 真相への接近
【調査記録 005】2024年9月12日
もはや、自分一人では限界だった。記録は汚染され、自分の記憶すら信じられない。このままでは、狂気に飲み込まれる。
私は最後の望みを賭け、かねてより著作を敬読していた認知科学の権威、東都大学の加藤教授にコンタクトを取った。半ば無視されることも覚悟の上で送ったメールだった。意外にも教授本人から「興味深い。一度研究室に来なさい」と短い返信があったのは、まさに僥倖だった。
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【面会記録 003-A:加藤教授(初回面会)】
日時:2024年9月15日 14:00
場所:東都大学 加藤研究室
紫煙の微かな匂いが漂う研究室。加藤教授は、その大きな体を軋む椅子に深く沈めていた。彼は、肉付きのよい顔から覗く鋭い目で、私が持ち込んだ資料の山を検分していく。
掲示板のログ、体験者の証言、そして矛盾をきたした音声データの解析レポート。あっという間に目を通していく。その眼差しには、成熟した怜悧な男性らしい理知的な光が宿っていた。
「……なるほど」
教授は低く唸ると、積み上げられた資料の束を、節くれだった太い指でトントンと叩いた。その巨体には、おおよそ似つかわしくない、繊細な仕草だった。
「これは、実に興味深い。単なる集団ヒステリーや記憶違いで片付けるには、パターンの規則性が強すぎる。特に、存在しないはずの情報が現実世界に具現化する、という君の報告。これは無視できない」
私は、初めて自分の調査が肯定されたことに、安堵で体の力が抜けそうになるのを感じた。
「先生、これは一体……」
「まだ結論は出せんよ。だが、非科学的と切り捨てるのは早計だ。データが示すパターンは、何らかの未知の外的要因が、個人の潜在記憶にアクセスし、それをトリガーに現実の事象を再構成している可能性を示唆している。まるで、量子論的な観測者効果が、マクロなレベルで発生しているようだ」
教授の言葉は難解だったが、彼の真摯な態度は、暗闇の中で見つけた一筋の光のように思えた。彼はいくつかの体験談を指差しながら、さらに分析を進めた。
「君の報告で特に興味深いのは、このᕫという存在が反応する『記憶』の質だ。ただの忘却ではない。山田さんの『亡き母の味』、佐々木くんの『懐かしい恩師』……いずれも、ノスタルジアや愛情といった、強い感情と結びついている。そして、その中でも特に強く干渉しているように見えるのは……」
教授はそこで一度言葉を切り、私の目をじっと見つめた。
「『喪失感』や『罪悪感』を伴う忘却だ。まるで、心の傷という最も深い『情報の空白』を、ことさらに嗅ぎつけ、埋めたがっているようにすら感じる。体験者の中には、報告には上げていないが、亡くしたペットや、喧嘩別れした友人のことを質問した者もいるのではないかね?」
その指摘は、私の調査内容と不気味なほど一致していた。私は息を呑んで頷くことしかできない。
「だとしたら、この存在は極めて危険だ。人の最もデリケートな部分に土足で踏み込んでくる。……ところで、差し支えなければ聞きたいのだが、田中くん。君自身は、何か大きな喪失を経験したことは? 例えば、近しい誰かを亡くしたとか……」
教授の質問は、純粋な学問的興味から来たものだろう。
「いえ。特に、そういう経験はありません。家族も健在ですし、一人っ子ですから」
教授は「そうか、それならいいんだが」と頷き、再び資料に目を落とした。
「ともかく、田中くん。君のこの調査は、非常に価値がある。もしよければ、私にも協力させてくれないか。このᕫという存在の回答パターンを、より詳細に分析してみよう。何か法則性が見つかるかもしれん」
「ありがとうございます!」
私は深々と頭を下げ、追加の資料を整理して後日改めて伺うことを約束し、研究室を後にした。
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共同での分析の約束。これほど心強い言葉はなかった。だが、私の心の奥底では、先ほどの教授の質問が、小さな、しかし消えない棘となって突き刺さっていた。
「君自身は、何か大きな喪失を経験したことは?」
そんなものは、ないはずだ。ないはず、なのに……なぜ、これほど胸がざわつくのだろう。




