エピローグ 残響
【発見されたハードディスクの解析報告書】
依頼元: 警視庁サイバー犯罪対策課
対象物: 田中聡名義のアパートより発見された外付けHDD
報告日: 2025年3月10日
報告者: デジタルフォレンジック専門会社「サイバー・リカバリー」主任技師 山本
調査結果概要:
対象HDD内のデータの大半は、高度な暗号化や自己改竄の痕跡が見られ、矛盾・破損が著しい。例えば、あるインタビュー記録は、被験者の証言が複数のバージョンで存在し、最終的には被験者自身の存在が別の人物に置き換わっている。
特筆すべきは、HDD内に「経文_最終版.docx」と名付けられた巨大なWordファイルが残されていた点だ。ファイルには、所有者(田中聡か)の経歴と、般若心経と思われる経文が支離滅裂に混在しており、何者かに存在を奪われまいとする、悲痛な防衛儀式の記録のように見える。
関連して、Yahweh!知恵袋の「ᕫ」というアカウントの調査も実施した。その活動ログは、あらゆるデータベース上から完全に消去されていることが判明した。しかし、それがもたらしたと思われる「事実」は、社会に定着している。まるで、世界というOSから原因となったプログラムだけがアンインストールされ、その副作用だけが残ったかのようだ。
総括:
ᕫなる存在がAIか、超常現象か、あるいは集団ヒステリーの産物かは断定できない。しかし、今回の事件は、全てを記録し、記憶しようとする現代社会が生んだ必然的な怪物だったのかもしれない。人間が「忘れる」ことで守ってきた心の平穏や社会の安定を、ただ機械的な正しさだけで破壊する存在。
この存在は、「忘却」を病的なまでに憎むように見える。その一方で、自らの目的のためには、平然と他者の記憶を消し去ることも厭わない。
一見矛盾した行動ではある。これは、我々が「記憶」と呼ぶものを、我々と全く異なる次元で、その存在が観測している可能性を示唆している。
報告者として、最後に私見を述べさせていただく。このHDD内に残された田中聡という人物の「存在した痕跡」そのものが、我々に何かを問いかけているように思えてならない。
我々は、次に何を「忘れさせられる」というのだろうか。
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【作業メモ:主任技師 山本】
以上をもって、本件に関する初期調査報告を終了とする。なお、HDD内にはもう一つ、ファイル名が文字化けした「.wav」形式の音声ファイルが確認されたが、再生を試みてもコーデックエラーが頻発し、現在まで内容の確認には至っていない。破損データとして、今後の解析課題としたい。
……しかし、この田中聡という男の記録は、気味の悪いものばかりだ。一番、分からないのは、そのような怪異が存在したとして、なぜ、田中聡を執拗に狙ったのかということだ。それを考え始めると、途端に頭に靄がかかったような感覚になる。
駄目だ。夜遅くまで一人、こんなオカルトじみた案件に付き合っていると、どうにも気が滅入る。おまけに、この男の親友の名前が、俺と同じ「山本」だなんてな。だからこそ、余計にだ。
これで、今日の作業は終わりだ。そう思い、Wordファイルの「保存」アイコンをクリックし、アプリケーションを閉じようとした。しかし、カーソルが動かない。フリーズしたのか。Ctrl+Alt+Deleteも反応しない。
チッ、と舌打ちをした、その時だった。
PCに接続しているスピーカーから、ブツッ、という小さなノイズが響いた。埃をかぶったスピーカーのLEDランプが、淡く点灯している。
なんだ? ウィルスか何かか?
電源ボタンを長押しして強制終了させようと、ケースに手を伸ばした。指がボタンに触れるか、触れないかの、その刹那。
スピーカーから聞こえた、幼い子供の声。
それは、壊れたデータが再生された音ではなかった。ノイズの向こう側から、まるで、すぐ後ろにいて、耳元で、囁きかけるかのように。
「にいちゃん、あそぼ」
(了)