第10話 最後の質問
【緊急報告 004】 2024年9月24日
夜が明けた。徹夜で書き上げた私の「経文」は、数十メガバイトのデータファイルとなっていた。私はそれを開いたまま、ぼうっと、モニターの光を眺めていた。テキストで埋め尽くされた画面は、まるで巨大な墓石のようだった。
これで、守られたのか? 私という存在は、この情報として固定されたのか?
だが、心の奥底から、消えない疑念が湧き上がってくる。本当に、全てを書ききれたのか。忘れていることは、もう何もないのか。
私はブラウザを開いた。
知恵袋にログインする。
手が勝手に動いていた。
最後の確認。最後の審判。
私は人生最後の質問を投稿した。
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【掲示板ログ】
投稿者: sato_pen
質問日時: 2024/09/24 06:13:55
私は誰ですか?
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よせばいいのに。
投稿ボタンを押した瞬間、後悔が押し寄せた。
愚かなことをした。
なぜ、わざわざ、ᕫに囁きかけるような真似を。
だが、もう遅い。
回答は、即座に、冷酷に、表示された。
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【掲示板ログ】
投稿者: ᕫ
回答日時: 2024/09/24 06:14:02
あなたは「耳」です。
田中聡(1992-2024)。フリーライター。
弟・翔太の記憶を探すうち、ᕫ現象と同化。
あなたが残した調査記録は、これからその手を離れ、新たな「忘れたうた」を探すための呼び水となっていきます。
あなたは、その運命から身を守るため、全身に「経文」を書きつけました。
しかし、弟の最後の言葉を思い出せず、それを書き忘れてしまったようです。
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――翔太が言った「最後の言葉」。
その文字を見た瞬間、全身の力が抜けていった。
ああ、そうだ。それだけが、私の「経文」から抜け落ちていた。
あの日、公園で泣きじゃくる翔太を突き飛ばし、私は走って家に帰った。
遠くで翔太が、最後に「何か」を言っていた。
その言葉だけが、どうしても思い出せなかった。
私の記憶の、最後の「空白」。
私の、書き忘れた「耳」。
その瞬間、世界が変質していくのを、私は感じた。物理的に何かが起こったわけではない。
私のPCの画面で開いていたはずのSNSアカウントが、次々と「ユーザーが見つかりません」という表示に変わっていく。
私のブログが「ᕫ現象に関する調査アーカイブ」というタイトルの、三人称で書かれた記録サイトに変貌していく。
私の存在証明がリアルタイムで消去され、客観的な「記録」へと変換されていくのだ。
慌ててスマートフォンを掴み、幼馴染の山本に電話をかける。数コールの後、彼が出た。
「もしもし、山本か? 俺だ、田中だ!」
「……たなか? ああ、はいはい。田中さんね」
彼の声のトーンがおかしい。まるで、営業電話に出るような、他人行儀な響き。
「どうしたんだよ、水臭いな!」
「いや、あの……どちらの田中さんでしたっけ?」
違う。お前は、私の親友だろう。また、馬鹿話をしようって昨日、約束したばかりじゃないか。
「何を言ってるんだ! 俺だよ、聡だよ!」
「はあ……。ちょっとよく分からないし、二日酔いで気分が悪いので失礼しますね」
通話は、無情に切られた。
次に、実家にかけた。母が出た。
「母さん! 俺だ、聡だ!」
「……どちら様でしょうか?」
母の声は、困惑していた。何の感情も含まれていない、ただの知らない人間に対する声。
「聡だよ! 母さんの息子だ!」
「うちには、聡なんて息子はおりません」
プツリ。私と世界を繋いでいた、最後の糸が切れる音がした。
私は、もう「田中聡」ではない。
誰の記憶にも、誰の心にも届かない、ただの「記録」になったのだ。
情報としては存在しているが、人間としては存在していない。
誰の声も聞こえず、誰にも声が届かない亡霊。
私は、静かに立ち上がった。
部屋の中のすべてが、急に色を失って見えた。
窓の外の景色も、まるで一枚の絵画のようだ。
私は、この世界から、完全に遊離してしまった。
私は、ᕫの「耳」になったのだ。
次なる「忘れたうた」を聴き、探し出すための、新しい「耳」に。
目の前に広がる、青く、白い世界。母なる電脳の海へと、私の意識は、ゆっくりと還っていった。
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【掲示板ログ】
投稿者: ᕫ
回答日時: 2024/09/24 06:13:55
あなたは誰ですか?
[ ベストアンサーに選ばれた回答 ]
投稿者: sato_pen
質問日時: 2024/09/24 06:14:02
私は「耳」です。