第1話 最初の質問
以下の文書は、2025年2月、東京都杉並区のアパートの一室から発見されたハードディスク内に残されていた記録である。部屋の元契約者、フリーライター・田中聡(当時32歳)は、数ヶ月前から行方不明となっている。我々はこの記録を、極力原文のまま公開するものである。
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【調査記録 001】2024年6月6日
発端は、ありふれた好奇心だった。
フリーライターという仕事柄、私はネット上の集合知、特に人間の曖昧な記憶をAIがどう処理するかに興味を持っていた。検証の場として選んだのは、日本最大のQ&Aサイト「Yahweh!知恵袋」。
実験用の質問は、昔から私の記憶の片隅に引っかかっている、ある歌の断片だ。
たしか、小柳ルリ子の『雨ふるふる』だったと思う。幼い頃、母が誰かの耳元で、あやすようにそのメロディーを口ずさんでいたような、いないような、そんな霞のかかった記憶。
なぜか、その光景を思い出すと、胸が苦しくなる。赤いミニカーのおもちゃが、視界の隅に転がっていたような気もする。私は一人っ子だった。だから、あれが誰の耳だったのか、それすらも思い出せない。
ただ、「ふるふる、ゆらりら」という、雨と揺れる何かを連想させるオノマトペだけが、頭の引き出しの奥底にこびりついている。
これをAIはどう捌くか。私は匿名のアカウントで、以下の質問を投稿した。
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【掲示板ログ】
投稿者: sato_pen
質問日時: 2024/06/06 14:31:15
曲名が思い出せません。昔の歌謡曲で、「ふるふる、ゆらりら」みたいな歌詞があったと思うのですが……。
女性ボーカルだった気がします。雨の歌だったような……。
何か心当たりがある方、いらっしゃいますか?
[ AIアシストからの回答 ]
回答日時: 2024/06/06 14:31:18
ご質問ありがとうございます!
「ふるふる」という表現から、ショパンの『雨だれの前奏曲』のような、雨粒が落ちる様子を表現したクラシック音楽が連想されます。また、「ゆらりら」という言葉は、童謡などに見られる表現かもしれません。例えば――
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予想通り、AIはキーワードを拾って的外れな連想ゲームを始めた。まあ、こんなものだろう。私はコーヒーを一口飲み、人間の回答者が現れるのを待った。
その瞬間は、唐突に訪れた。
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【掲示板ログ】
投稿者: ᕫ
回答日時: 2024/06/06 14:31:47
小柳ルリ子の『雨ふるふる』(1983年リリース)です。
作詞:麻生京太郎、作曲:筒美香平。
ご質問の「ふるふる、ゆらりら」は歌詞には直接ありませんが、間奏のバックコーラスでそのように聞こえるフレーズです。雨が降り続く様子と、それに揺れる心を表現した楽曲の世界観を的確に捉えた表現と言えるでしょう。
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鳥肌が立った。
AIの回答から、わずか29秒。人間がタイピングしたとは考えにくい速度だ。
だが、問題はそこではない。
間奏のバックコーラス?
そんな記憶はなかった。私は慌てて動画サイトでその曲を検索し、イヤホンを耳に押し込んだ。何度も、何度も間奏部分をリピート再生する。すると、ストリングスの裏で、微かに、本当に微かに、女性コーラスが「Furu... Furu...」と囁いているのが聞こえた。「ゆらりら」も、そのコーラスの節回しがそう聞こえなくもない。
私の曖昧な記憶は、間違いではなかった。だが、それは歌詞ではなく、私自身すら意識していなかった、音の痕跡だったのだ。
誰だ、こいつは。
私はᕫのプロフィールをクリックした。そこには、ただ「非公開」の三文字と、「グレード8」というやり込み具合を示すレベル表示があるだけ。過去の回答履歴も一切閲覧できない。
まるで、質問者の脳を直接スキャンし、誤った記憶の断片から正しい情報を完璧に再構築したような回答。
私は、この得体の知れない存在に、強い興味と、ほんの少しの畏怖を覚えた。
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【メモ:知恵袋ユーザー「ᕫ」について】
AIとは明らかに異なる。AIがデータの海から確率的に「正しそうな」答えを提示するのに対し、ᕫは唯一無二の「真実」を断定的に突きつけてくる。その精度には、機械的な正しさだけでなく、忘却を許さないかのような、ある種の執念めいたものを感じる。
なお、ᕫという文字は、カナダ先住民文字に含まれる文字の一つで、「ッテ」と発音するようだ。この文字は「tthe」と転写される音節を表していて、舌先を歯茎の裏あたりにつけて「t」の音を二重に発音し、その後に軽く「he」の音を続けるようなイメージらしい。