結婚相手の幼馴染から敵対視されてますが、何をされようと私が妻なので
寒さ厳しい北の大地へと嫁いできた、一人の少女。
初めて体感する肌を刺すような寒さに、彼女はこれから先の人生が苦難の連続であろうことを悟っていた――。
暖かく過ごしやすい気候が特徴の春の国において、北部は唯一の寒冷地帯である。
もともとは北部も他の地域と同様、暖かな日差しが降り注ぎ、色とりどりの花が咲き乱れる豊かな土地であった。
しかし数百年前、北部と接する地に異類異形が現れたことで、その環境は一変することとなる。
邪悪な気を放ち、人々を蹂躙する異形。
春の国は春の妖精によって守られていたが、異形とは非常に相性が悪かった。
そこで春の国ひいては春の妖精を守るため立ち上がったのが、冬の妖精だ。
冬の妖精は北部に冬の加護を与え、あらゆる邪気からその地を守った。
そして今尚続く冬の加護により、北部は一年中雪が降り積もる極寒の地となっているのだった。
そんな北部を取り纏めている北部侯爵家に、少女はやって来た。
北部は土地柄、作物が育ちにくく、日照時間の短さゆえ心の病を発症する者も多い。
それらの問題を解決すべく、北部侯爵家には代々春の加護を持つ女性が嫁ぐしきたりとなっている。
北の大地が春の恩恵を受けるべく交わされる婚姻……要するに政略結婚である。
春の国と言うぐらいなので、春の加護を持つ人間は珍しくない。
かと言って多いわけでもなく、尚且つ北部侯爵のもとへ嫁げる身分の女性となると、その数は限られた。
そこで今回選ばれたのが十七歳の少女、シェルリスだった。
シェルリスはまだ十七歳だが、相手の北部侯爵スニルヴァンは二十八歳。
一回り近くもの年の差があるけれど、政略結婚ではままあることだ。
シェルリスの両親も同じくらいの年の差があるし、彼女としても何ら問題はなく。
婚姻の話が出た際も、それが自身の務めならばと二つ返事で了承した。
そうして馬車に揺られること一月以上。
途中、雪道仕様の馬車に乗り換え、えっほえっほとやって来た北の大地は、さながら異国の地であった。
痛みを伴うほどの寒さと、体ごと持って行かれそうな強風。
暖かな気候に慣れた体には、殊更厳しく感じられる。
しかし、想像以上の過酷さではあるものの、シェルリスが挫けることはなかった。
これが貴族令嬢として生まれ、更には春の加護を持つ自分に課された役目なのだと理解しているからだ。
「こんなに寒いところへ来てくれてありがとう。私みたいなおじさんが相手でごめんね」
寒さで頬や鼻、耳を真っ赤にしているシェルリスに、スニルヴァンは初手でそう伝えた。
眉尻を下げ、申し訳なさそうに微笑むスニルヴァンの姿は、幸いにもシェルリスの目には大変印象良く映っていた。
シェルリスの結婚相手、北部侯爵スニルヴァン。
彼は落ち着いた大人の男性といった雰囲気ではあるものの、整った容姿のおかげか年齢よりも幾ばくか若く見えた。
後ろで一つに結ばれた、冬の加護を持つ者特有の白髪に、満天の星を思い起こさせる深い青色の瞳。
まさしく冬の妖精のようにキラキラと輝く浮世離れした美しさに、シェルリスは一瞬で心を奪われた。
――ただ。
ただ一つだけ気になることと言えば。
「シェルリス嬢、初めまして。私はフィエンデ。スニルヴァンとは幼馴染なの。よろしくね」
そう言って、スニルヴァンの横で笑みを浮かべる女の存在。
この女の存在だけが、気になった。
フィエンデは腕組みをしたまま、シェルリスの姿を上から下まで品定めするように見ている。
よろしくねと言いながらも、よろしくする気は全くなさそうだ。
そもそも今はシェルリスとスニルヴァンの初顔合わせである。
何故そこに幼馴染の女が同席しているのか。
シェルリスは不思議に思い、フィエンデからの挨拶に応えることなく、スニルヴァンへと向き直った。
「何故ここに彼女が?」
言外に、たかが幼馴染の分際で、と言っているのだ。
フィエンデの口端がひくりと引きつった。
一方、スニルヴァンには意図が伝わらなかったようで、にこやかに話を進めてくる。
「フィエンデは二十二歳で君と年も近いし、専属侍女にどうかと思ってね。北部出身の者が一人ぐらい居た方が良いだろう?」
シェルリスには実家から連れて来た侍女が数名いる。
決して楽とは言えない北部の暮らしにも関わらず、シェルリスのためならと進んでついて来てくれた者達だ。
とは言え、スニルヴァンの言うことはもっともだった。
北部はその特性から他の地域に比べると閉鎖的で、西部出身のシェルリス達には分からないことも多々あるはずだ。
ならば、とシェルリスは提案する。
「お気遣いありがとうございます。彼女以外にも侍女候補はいますか? できれば他の方でお願いしたくて」
まさか断られるとは思っていなかったスニルヴァンは、きょとんとした顔でシェルリスを見つめた。
にこにこと笑っているシェルリスに、思わず聞き間違いだろうかと悩んでしまう。
「っ、いくら幼いからって礼儀知らずにもほどがあるわ! せっかくスニルヴァンが気を遣ってくれたと言うのに、彼の気持ちを無駄にするつもり!?」
反応の遅れたスニルヴァンに代わって声を荒げたのはフィエンデだ。
正面切って「彼女以外で」なんて言われてしまい、顔を真っ赤にして憤っている。
彼女はスニルヴァンの幼馴染ということもあり、北部の令嬢達の中ではそれなりの地位を築いていた。
なので、このように屈辱的な扱いを受けるのは、彼女の記憶にある限りでは初めての経験だった。
憤慨するフィエンデを見て、シェルリスはより一層笑みを深める。
そして指先を揃え、手のひらでフィエンデを指し示した。
「これが理由です」
「……? どういうことだい?」
「彼女以外の侍女を望む理由です。これから仕えるかもしれない主人に向かって、この無礼な態度。敬語も使えない人間に、侯爵夫人付きの侍女は難しいでしょう」
「!!」
「……そうか。確かにフィエンデの態度は、とてもじゃないが侯爵夫人に対するものとは言い難い。幼馴染だからって見る目が甘くなってたみたいだ」
「っ!? ちょっとスニルヴァン!」
「シェルリス、すまなかった。侍女候補は他にもいるから安心して欲しい。……そういうことだからフィエンデ、すまないが今日はもう帰ってくれるかい?」
「!!」
いつだって自分の味方だったスニルヴァンが、まさかシェルリスの要求を呑むなんて思いもしなかったフィエンデ。
目を見開き、食い入るようにしてスニルヴァンを見つめている。
けれどスニルヴァンの意思が変わることはなく、近くにいた執事によって退出を促されてしまう。
フィエンデは怒りと羞恥で顔を赤くしたまま、シェルリスを強く睨みつけた。
目が合っても尚、変わらずにこにこと笑っているシェルリスが、余計に苛立たしくて気に障る。
だが、ここでシェルリスに言い募っても、スニルヴァンが味方をしてくれることはないだろう。
フィエンデは自身の態度が、北部侯爵夫人相手に許されるものではないと分かっていた。
結局フィエンデはギリギリと歯噛みしながらも、その場を後にするほかなかった。
フィエンデの後ろ姿を見届けた後、スニルヴァンはシェルリスに向かって頭を下げる。
「すまない……。来て早々、嫌な気持ちにさせてしまったね」
「いいえ、あれくらい大したことありません。次に会った時にでも謝罪してもらえれば、それで」
「あぁ、そうだね。伯爵家にも今回のことは伝えておくよ」
フィエンデの母は昔、北部侯爵家のメイドとして働いていた。
結婚を機に退職したが、嫁ぎ先の伯爵家が北部侯爵領と近かったこともあり、退職後も細々と交流は続いた。
伯爵側からすれば、みすみす北部侯爵家との繋がりを失ってたまるか、という打算もあった。
そうした伯爵家の思惑もあって、フィエンデはスニルヴァンの幼馴染という立場を手に入れることができたのだ。
兄弟のいないスニルヴァンにとって、赤ん坊の頃から見てきたフィエンデは幼馴染であり、妹のような存在でもあった。
ただ、妹のような存在ではあるが、本当の妹ではない。
スニルヴァンはそのあたり、ちゃんとしている。
いくら二十年以上の付き合いがあり、親しい間柄であろうと、シェルリスに対して礼儀を欠いて良い理由にはならないのだ。
十一も年上の男に嫁いできてくれたシェルリス。
厳しい環境の北部まで、親元を遠く離れて来てくれた。
自分にできる限りのことはしてやりたい、いや、しなければならない。
スニルヴァンはこの結婚が決まった際、シェルリスを必ず幸せにするのだと、そう心に決めていた。
一方で侯爵家を追い出されたフィエンデは、怒りが収まらず、周りに当たり散らかしていた。
自室に飾られた花瓶を投げ、絵画を叩きつけ、カーテンを引き千切り、部屋の中はひどい有様だ。
フィエンデ付きの使用人達は怯え、彼女の両親は頭を抱えている。
フィエンデの人生は、これまでそこそこに順調であった。
幼い頃からスニルヴァンに可愛がられ、そんなフィエンデを周りの大人達も甘やかし、友人達も彼女には一目置いていた。
唯一上手くいかなかったことと言えば、恋愛だ。
幼い頃はスニルヴァンのことを兄のように思い、慕っていた。
思春期にもなれば異性として意識しだし、そこから好きになるまではあっという間だった。
そして恋心を自覚してすぐ、絶望と共に失恋をした。
北部侯爵の後継者であるスニルヴァンの相手は、春の加護を持つ女性と決まっている。
フィエンデは、春の加護を持っていない。
何をどうやったって、フィエンデとスニルヴァンが結ばれることはないのだ。
失意の中、フィエンデは考えた。
そして思い付く。
結ばれることが叶わないのなら、せめて彼の伴侶は私が見定めてあげよう、と。
伴侶となる者は、器量が良く、性格も良い女性でないと認められない。
どこか抜けたところのあるスニルヴァンを支えてくれる頼もしさと度胸、賢さも必要だ。
北部侯爵夫人となるのだから、北部の人間を尊重する謙虚さもなければ。
なんて考えていたところにやって来たのが、フィエンデより五つも年下のシェルリスだ。
春の加護を持つ者特有の桃色の髪は、幼いシェルリスをより一層幼く見せた。
これはよくよく躾けてやる必要があるな、とフィエンデは内心嘆息していた。
加えて、あの態度である。
大人しそうな見た目からは想像もできない、傲慢で生意気なあの態度。
フィエンデは許せなかった。
「あの女、見てなさいよッ……」
怒りのあまり、宥める両親の言葉は、フィエンデには届いていなかった。
◇
数週間後、北部の有力貴族が集まったお茶会で、フィエンデはあの日のシェルリスがいかに無礼だったかを皆に言って聞かせていた。
北部の令嬢達の中では、リーダー的存在のフィエンデ。
彼女がシェルリスを悪く言えば、同じ席に着いた令嬢達もそれに続くしかなく。
なんてひどい、なんて礼儀知らずな、スニルヴァン様がお可哀想……と、一緒になってシェルリスを悪く言う周りに、フィエンデも気を良くする。
そこへ、遅れて茶会に参加したシェルリスが声を掛けた。
「フィエンデ嬢」
「……あら、やっといらっしゃったのね。時間も守れないなんて、私達のこと馬鹿にしているのかしら」
フィエンデはチラリと視線を向けるのみで、立ち上がることもせず、つんとした態度でシェルリスを見下した。
フィエンデ以外の令嬢達は、一斉に口を閉じている。
この茶会は数百年もの歴史がある特別なものなのだ。
北部の女性達にとってこの茶会に参加できることは一種のステータスであり、例え熱が出ようと這ってでも参加する、決して失敗の許されない場であった。
なのでフィエンデは、初めて参加するにも関わらず遅れてやって来たシェルリスを、ここぞとばかりに糾弾した。
しかし、シェルリスが遅れることは事前に主催者へ連絡済みであるし、彼女には大義名分があった。
春の加護を持つシェルリスは、決められた場所、決められた日時に、春の儀式を行わなければならない。
北の大地が春の祝福を受けられるよう、数時間にも渡って祈りを捧げるのだ。
北部侯爵夫人に義務付けられている、重要な仕事の一つである。
そしてこれが茶会に遅れた理由だった。
春の儀式は大々的に行われることもあれば、内密に取り行われることもある。
今回は後者であったため、フィエンデやこの茶会に参加している貴族女性達は、誰もシェルリスが遅刻した理由を知らなかった。
所用のため、とだけ伝えられている。
本来であれば、その説明で事足りた。
北部侯爵夫人の予定に口を出す人間など、普通はいない。
これまでも北部侯爵夫人の『予定』が茶会と重なることは何度かあった。
なにせ百年以上の歴史を持つ茶会である。
『予定』により遅刻したことも、途中で退席したことも、欠席したことだってある。
そのことに文句を言う者は、一人もいなかった。
茶会に呼ばれるほどの立場にいる女性達は、弁え、理解しているのだ。
北部侯爵夫人が、自分たちにとってどのような存在なのかを。
「言いたいことは色々ありますが……フィエンデ嬢、身分が上の者から話しかけられたら、まずは挨拶をしなければ。それとも北部のマナーは違うのですか?」
「いいえ。ですが、まずはシェルリス嬢が、遅れて来たことを皆様に謝罪するのが先ではなくて?」
「主催の方には既に挨拶と謝罪を済ませています。それでも皆様に謝罪して回れと?」
「ふんっ、それが誠意と言うものですわ。幼いあなたにはまだ分からないかもしれないけどね、侯爵夫人になるのならそれぐらい考えられるようにならないと」
「なるほど。では私が謝罪し終えたら、次はフィエンデ嬢の番ですね」
「……何? どうして私が謝罪しなければならないのよ」
「だってフィエンデ嬢ったら常識もなければ礼儀もなっていなくて、格式高いこの茶会の品位を落としているでしょう? 茶会を大事に思う皆様に失礼だわ」
「私のどこがッ――」
「フィエンデ嬢」
フィエンデの言葉を遮ったのは茶会の主催者、モア侯爵夫人だ。
北部には、北部全体を取り纏める北部侯爵の他に、二つの侯爵家が存在する。
三家は一丸となって北部の発展と守護、安寧に尽力している。
ちなみに、春の儀式を取り仕切っているのもこの三家である。
モア侯爵夫人とフィエンデは、スニルヴァン経由でよく親交があった。
フィエンデにとっては自分のことを可愛がってくれる大人の一人でもある。
「モア夫人! 夫人からも言ってください、シェルリス嬢ったら」
「彼女が遅れたのには、正当な理由があります。それを皆に伝える必要はないし、謝罪して回る必要もありません。ましてやフィエンデ嬢、あなたが謝罪を強要するなど以ての外。あなたと、それから他の令嬢達も、これ以上無礼な行いをするのであれば退席していただきますよ」
「え……」
ピシャリと言い放つモア侯爵夫人に、フィエンデはポカンと口を開けて呆けてしまう。
そして徐々に言われたことを理解し、顔を赤く染めた。
「も、申し訳ございません……」
小さく呟かれた謝罪に、シェルリスは満足そうに頷いている。
「先日もお伝えしましたが、フィエンデ嬢はもう少し教養を身に付けた方がよろしいかと。このままではやはり侯爵夫人付きの侍女は難しいでしょうね……。もしもまだ諦めていないのであれば、良い家庭教師を紹介することもできるので仰ってください」
「〜〜〜っ! ぉ、お気遣い、感謝いたします」
立ち上がり、頭を下げるフィエンデ。
ドレスをギュッと強く握り締める手から、彼女の悔しさが伝わってくる。
シェルリスは「どういたしまして」とだけ言い、その場を離れた。
もともと先日の無礼を謝罪してもらおうとフィエンデに声を掛けたのだ。
大人しく謝罪するとは思っていなかったが、自滅してくれたのでもう言いたいことはなかった。
以降、北部でのフィエンデの立場が急速に落ちて行ったことは言うまでもない。
ところが、公衆の面前で恥をかいても尚、フィエンデは懲りていなかった。
むしろシェルリスに対する怒りは増すばかり。
どうにかしてシェルリスを陥れ、恥をかかせ、スニルヴァンのそばから引き離してやりたかった。
そこでフィエンデは改めて謝罪がしたいと言って、侯爵家へとやって来た。
嘘だな、とシェルリスにはバレバレであったが、追い返すことはしなかった。
何を企んでいようと、何をされようと、受けて立つ以外の選択肢は、シェルリスにはないのだ。
「シェルリス様、これまでの数々のご無礼、どうかお許しくださいませ」
フィエンデは深く深く頭を下げ、シェルリスに謝罪した。
侯爵家の応接室には、彼女達二人のみ。
この状況で、さてさて次は何をしでかすか。
シェルリスは笑顔でその時を待っていた。
「謝罪は受け取ります。これからは気を付けてくださいね」
「……はい、シェルリス様」
顔を上げたフィエンデは、なんとも歪な顔をして笑っていた。
そして目の前に置かれたティーカップを手に取ると、中身を自分の頭上にぶちまけた。
突然目の前で行われた奇行にも、シェルリスが慌てることはない。
優雅な仕草で自身のカップに口をつけながら、熱くないのかしら、なんて呑気に考えている。
「キャーーーー!! 熱い!! 誰か、誰か助けて!! 」
フィエンデは本気で熱がっていた。
カップを投げ捨て、頭を振り乱し、熱い熱いと叫んでいる。
もっと冷めてからかぶれば良かったのに、とシェルリスは呆れていた。
フィエンデが侯爵家に来てからというもの、次はどんな手を使って攻撃してくるのか、シェルリスはあらゆるパターンを考えていた。
シェルリス自身を傷付けるか、あるいは反省した姿を見せて懐柔しようするか、もしくは泣き落としか。
なんて考えていたが、正解は“罪を被せようとする”であった。
フィエンデの叫び声に、侍女や護衛達が慌てて駆け付ける。
その中にはスニルヴァンの姿もあった。
「一体何が……」
「スニルヴァン! た、たすけてっ、私、シェルリス様にこれまでのことを謝罪しようと……うぅっ、でも、シェルリス様は許してくださらなくて……! うっ、私に、私に紅茶をッ……!」
介抱してくれていた侍女の手からすり抜け、スニルヴァンの胸へと泣きつくフィエンデ。
スニルヴァンがフィエンデを抱き止めることはなく、何があったとシェルリスに目で訴えている。
シェルリスは肩をすくめ、なんてことないように説明をする。
「フィエンデ嬢が自ら紅茶をかぶったんです」
「嘘よ! そんなことするはずないじゃない! こんなに熱い紅茶をかぶるなんて、そんな危険なことできないわ!」
確かに普通の令嬢であれば、火傷痕でも残ったら大変だ。
けれど、先ほどフィエンデが見せた歪な笑顔。
きっと彼女は今、正常な思考をしていない。
シェルリスを陥れるためならば、自分自身を傷付ける行為すらも厭わないのだろう。
シェルリスとフィエンデ、二人が出会ってまだ数ヶ月。
顔を合わせたのは、ほんの数回だけ。
けれどこれまで甘やかされ、特別扱いされてきたフィエンデにとっては、耐え難いほどの屈辱の日々だった。
スニルヴァンを奪われ、ちやほやしてくれていた友人達からは距離を置かれ、味方だと思っていたモア夫人までもがシェルリス側についてしまった。
自分に甘い両親からも、何度もキツく叱られた。
それらは全てシェルリスのせいである。
シェルリスさえいなければ、フィエンデは今も楽しく幸せな日々を過ごすことができていたのだ。
そんな彼女の心情を知ってか知らずか、シェルリスは眉尻を下げ、さも心配していますと言わんばかりの表情でフィエンデに問い掛ける。
「仮にあなたの言う通り、私があなたに紅茶をかけたとして……それで? 私がどうなると言うの?」
「ハッ、スニルヴァン、聞いたでしょう? シェルリス嬢が私に紅茶をかけ、怪我をさせようとしたの。あれはそういう女なのよ!」
「シェルリス……」
スニルヴァンは口ごもり、どうしたものかと悩んでいた。
それもそのはず、スニルヴァンはシェルリスから「口を挟むな」と言われているのだ。
シェルリスが北部へ来た初日、フィエンデが帰った後のこと。
フィエンデからの敵意をしっかり受け取ったシェルリスは、スニルヴァンにお願いをしていた。
『今後フィエンデ嬢が何かしてきても、まずは自分でなんとかしてみます。スニルヴァン様は何もせず、口も挟まず、ただ見守っていてくれませんか?』
『いや、何かあったら君のことは私が守るよ。夫なんだから、もっと頼ってくれ』
『お気持ちは嬉しいのですが……私、自分でなんとかしたいんです。北部侯爵夫人になるんだから、それぐらい自分でなんとかしないと』
『嫁いで来てくれただけで十分さ。君には本当に感謝してるんだ』
『……正直に言うと、自分でなんとかしないと気が済まないんです』
『ん?』
『売られた喧嘩は自分で買う。舐められたまま、誰かに守られるなんて絶対に嫌。私の手で殴り返さなきゃ気が済まない。だからスニルヴァン様、私が良いと言うまでは、絶対に手出ししないでください』
『……そ、そうか。分かった。ただし必要なことはするよ。例えば伯爵家への報告はさせてくれ。あとはあまりにも危険な状況や、私が看過できないと判断した場合は口を挟む。良いね?』
『はい! ありがとうございます!』
そして現在、口を挟むべきか否か、スニルヴァンは悩んでいた。
このままではシェルリスの名誉が傷付けられてしまう。
フィエンデの自作自演だろうとは思っているが、決定的な証拠がない。
かと言って、シェルリスがやった証拠もないのだ。
シェルリスを守るならば今か、と口を開こうとした時、シェルリスと目が合った。
彼女は首を横に振り、スニルヴァンからの助けを拒んだ。
「フィエンデ嬢、それで? あなたは私がどうなると思っているのです?」
「はぁ?」
シェルリスは不思議そうに首を傾げ、フィエンデを見つめていた。
感情の読めない瞳にジッと捉えられ、フィエンデは思わず言葉に詰まる。
「私があなたに紅茶をかけたとして、そうしたところで私はどうにもなりませんよ」
「な、なによ、どうにもならないって」
「私が北部侯爵夫人……スニルヴァン様の妻であることは変わらない、という意味です。フィエンデ嬢がどんなに怒り狂っても、嫉妬して私を排除しようとしても、私が妻なので」
フィエンデの目が大きく見開かれる。
その目の奥には、シェルリスへの嫉妬やら怒りやらが轟々と燃え盛っていた。
「私は春の加護を持っている、スニルヴァン様と結婚できる条件を満たす数少ない人間です。そんな私を排除しようだなんて……。フィエンデ嬢、あなたは北部に住む人々を殺したいのですか?」
「そ、んなわけ」
「ではどういうわけです? なんの加護も持っていないあなたが、私を排除してどうするつもりだったのです?」
「加護を持ってるからって、良い気にならないで!!」
「良い気も何も、本当のことですから。私には春の加護があって、だから私とスニルヴァン様は結婚したのです。私の加護は、北部のために使うと決めたのです。たかが好きな男を取られた嫉妬で、邪魔をしないで」
「ッ……!」
貴族というのは、恋愛感情だけで動いて良い存在ではない。
と、少なくともシェルリスはそう思っている。
スニルヴァンも同様である。
彼等には自身の感情よりも、優先すべきものがある。
顔には出さないけれど、スニルヴァンはフィエンデから好意を向けられていることを、ここに来て初めて知った。
知ったところで彼には何もできないし、しようとも思わない。
幼馴染であり、妹のような存在であろうと、彼の第一優先事項は北部の平穏なのだ。
それにここで声を掛けたり慰めたりしてしまえば、変に期待させてしまうしれないからと、彼は黙って見守ることを選んだ。
「フィエンデ嬢、あなたは伯爵領が加護の恩恵を受けられなくなっても良いのですか?」
シェルリスの言葉に、フィエンデは顔を青くする。
北部の人間にとって、春の加護は必要不可欠。
春の加護を持つ者が祈れば、その地には豊穣の祝福が与えられる。
厳しい環境下の北部に命が芽吹き、人々の心を支え、癒してくれるのだ。
そんな春の加護を待つ北部侯爵夫人を、フィエンデは害そうとした。
加護を受けられなければ、伯爵領はどうなるのか。
厳しい環境ゆえに人々の結束は強いけれど、北部侯爵夫人に無礼を働いたとなればその限りではない。
育たない作物、心を病んでいく領民、助けを得られずに孤立していく領地。
フィエンデとて考えなかったわけではない。
考えたけれど、自分の感情を優先した。
優先して、少しぐらい良いだろう、大丈夫だろうと考えた。
「ぁ……私、そんなつもりじゃ……。お、脅すつもり……!?」
「事実を言ったまでですが、まだそんなことが言えるのですね。 家族も領民も、あなたのくだらない嫉妬心のせいで苦しい生活を強いられるというのに」
「っ、くだらなくなんて」
「今のうちに罪を認め、謝れば、まだ間に合うかもしれませんよ?」
フィエンデはくしゃりと顔を歪め、震える拳を握りしめた。
今ここで謝れば、許してもらえるかもしれない。
けれど、愛する男の前で醜い姿を晒すなんてしたくない。
幼い頃からずっと好きだったのだから。
でも謝らなければ、伯爵領は……
ちらり、縋る思いでスニルヴァンを仰ぎ見れば、彼は無表情でフィエンデを見下ろしていた。
初めて見る冷たい表情に、フィエンデは思い出す。
スニルヴァンがいかに北部を愛し、大切に思っているのかを。
彼の愛する地を、自分は危険に晒してしまったのだ。
「………………るわ」
「え?」
「……謝るわ」
小さな小さな呟きだった。
フィエンデにとっては一大決心であり、非常に勇気のいる決断だった。
ただ残念なことに、これで許してくれるシェルリスではなかった。
「それが謝罪のつもりですか? おまけに侯爵夫人に対してその口の利き方」
「っ、も、申し訳、ございませんでした」
「何に対する謝罪なのかしら」
「……私は自ら紅茶を被り、侯爵夫人に罪を着せようとしました」
「それから?」
「それ、から……口の利き方も、なっていませんでした」
「それと?」
「それと……それと……」
「それと?」
「……侯爵夫人の悪評を流し、孤立させ、北部から追い出そうとしました。北部を危険に晒す、貴族としてあるまじき行為でした。申し訳ございませんでしたッ……!」
俯き、ボロボロと大粒の涙を溢すフィエンデ。
彼女を慰める者は一人もいなかった。
「シェルリス、君の望むようにするが、どうしたい?」
「ありがとうございます。おかげで気は済みました。彼女は暫く謹慎でもさせましょう」
「分かった。あとは伯爵も交えて話す必要があるから……ひとまずフィエンデは家に帰りなさい」
「っス、スニルヴァン……!」
シェルリスのもとへ歩み寄るスニルヴァンの背中へ、フィエンデが手を伸ばす。
しかしスニルヴァンが振り向くことはなく、フィエンデは一人、その場で泣き崩れた。
数ヶ月後、謹慎の解けたフィエンデは、そのまま北部から遠く離れた地へと嫁いで行った。
彼女が北部を去る日、両親以外に見送る者はいなかったと言う。
謝罪したとは言え、北部の生命線とも言える北部侯爵夫人を排除しようとした罪は重い。
伯爵はこのことを真摯に受け止め、彼自身も引き継ぎが済み次第、伯爵位を息子へ譲ることに決めたそうだ。
「スニルヴァン様は見送りに行かなくて良かったのですか? 妹のように思っていたのでしょう?」
「良いんだ。それが彼女のためにもなるだろう」
「あら、お優しいんですね」
「優しいというより、今回のことは私にも責任があるからね。妹のようだからと特別扱いをし、彼女に誤解を与えてしまった。距離感を間違えていたと今更気付いたよ……」
「もしかしてスニルヴァン様、他にも同じように誤解を与えてる女性がいらっしゃるのでは?」
「えっ、いないいない! いないよ!」
じとりと胡乱げな目を向けられ、スニルヴァンは慌てて首を振る。
可愛らしくも頼もしい妻、シェルリス。
スニルヴァンは彼女の尻に敷かれる未来を予見しながら、必死に疑いを晴らすのだった。
登場人物にはなるべく聞き馴染みのある名前をつけるようにしているのですが、今回は民族っぽさが欲しくて少し変わった名前にしてみました。
読みにくくはなかったでしょうか。
シェルリスは作中、誰よりも肝が座った覚悟ガン決まり女子なので、例えスニルヴァンが小汚いおじさんでも何も問題はありませんでした。
でも実際会ってみたらイケメンだったので「お、ラッキー!」と密かに思ってます。
そして当初は14歳と32歳設定だった二人。
あかーーん!となって17と28に変更しました。
それでもギリギリアウトか、いやしっかりアウトかもと不安に思いつつ……
ここまで読んでいただきありがとうございました!