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識別No.0631_3  作者: 良木眞一郎
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04

 未起動都市ランファンの攻略は無事に完了した。高速稼動個体はあれから一体も出なかった。例の言葉を調べたかったリグは内心残念がったものの、高密度群体も一体いただけで大きな被害も出ず、人的損耗という点では結構なことであった。

 リグの未練を隠し、631は都市アンバースに帰還した。

 戦闘詳報を書き終え、つまりユウの校閲とGMS、戦略部への提出が終わったリグは、こっそりあの言葉について調べはじめた。あの言葉を検索語とし、GMSに旧文明から収められた膨大な情報を対象に検索すれば手っ取り早いのだが、それをするとGMSにあの言葉を知られてしまう。なぜかそれはためらわれた。事実とすればあまりに重大であり、また幻聴の可能性が消えないことから、戦闘詳報にも書かなかったのだ。同じ理由で誰かに相談するわけにもいかない。こっそり一人で調べるしかなかった。

 さっそく取り掛かろうとして、リグは速やかにつまずいた。小隊の部屋の椅子に座り込んでいようものなら、何しろ隠し事について怒られたばかりであるからユウが怪しむのは必然だ。怪しまれずに考え事ができる場所と時間が必要だった。

 リグはまず長期間こもったことのある喫煙室を思い浮かべたが、すぐ却下した。隊長が長時間行方不明となればユウでなくとも不審に思うし、居場所がバレたらバレたで隠し事をしていますと白状するようなものだ。いつぞやのように戦闘機の中はどうだろう。これも駄目だ。戦闘機に乗る以上、シミュレータで訓練をしなければ不自然になる。他の部隊はどこも関心を持たないだろうが、ユウたちは怪しむ。訓練内容は記録されるし、誰でも閲覧できる。何もしていないとバレるのに時間はかかるまい。戦闘機に乗ってシミュレータを起動しなければ記録はされないが、それこそ隊長のくせに何をしているんだという話になる。

 こうしてみると自然に一人で長時間考え事をできる場所は、意外と都市には少ないことがわかった。どうしたものかと思い悩みつつ寝たリグは、次の日あっさりと解決策を見つけた。それはスケジュールにしたがって足を踏み入れただけの受講室だ。脳の記憶野に焼き付けられた情報が劣化しないよう、再活性化させるための講義。これが最適だった。以前は寝てばかりで戦術コンに覚醒信号を叩き込まれていたが、起きてさえいればいい。講義など全部聞き流せば調べ物に集中できるのだ。講義内容は神経接続により脳に送られるだけなので、外見からは座っていることしかわからない。受講記録は残るものの、本当に聞いていたかどうかの判定は行われない。そんな不真面目な兵士はいなかったからだ。

 リグはこれに飛びついた。スケジュールはある程度、個々の裁量に委ねられる。とりあえず受講の時間を倍に増やし、本来の講義時間とあわせてあの言葉の調査にあてた。リグはすべての講義を聞き流すことになるが、どうせ誰もわかりはしない。

 こうして時間と場所を確保しておいて、リグは慎重に調査をはじめた。何しろ手がかりがないので、検索をしないように注意しつつ、思いついたところから手当たり次第に情報を探る。

 ジ・ノ。ジノ。じの。Gino。一連の単語なのか、二つの音が連なるだけなのか、どうとでも捉えようがあった。The・No? なんのことやら。

 他階層では通じる用語かと思いつき都市で使われる主要な単語を閲覧したが、該当するものはなかった。都市の人名も見てみたが該当なし。少々苦労しながら他都市でも同じことを探ったが、かすりもしなかった。

 現代で該当しないとなると、旧文明の言語である可能性が浮上した。何しろ、旧文明を滅ぼしたのはフェムトだ。関連がないとは言えない。

 ところが旧文明は厄介なことに、腕が十本あっても数え切れないくらい多様な言語があった。これでどうやって意思疎通していたのか。そりゃ戦争も起きるよ、とリグは喉元でぼやいた。数多の言語からジノと発音する言葉を探すとなると、気が遠くなりそうな作業になる。幸いにして発音記号なるものを見つけたので、リグはそれで検索しようとしてギリギリで思いとどまった。危ないところだ。検索しようとしていた。言い逃れできない足跡を残すところだったのだ。

 リグは道のりの長さに歯噛みしつつ、まずは使用率の高かった言語から根気よく調査を続けるしかなかった。

 そんなリグは当然のことながら、いつもの二倍熱心に講義を受けているように見えるのである。数日して昼食のプレートを取ったリグの肩をユウが叩き、上機嫌で「講義もいいけど、根を詰めないようにね」などと言って先に行った。リグは正直、返事をしなくてすんだことを喜んだ。返事をすればユウはなにか感づいたかもしれない。

 周囲の評価と違って、リグは嘘をつくのが苦手とは思っていない。だが、ユウとユキだけは騙せる自信がなかった。この二人はどういう手を使うのか、知られたくないことほど明確に察知する。

 動揺を隠しつつプレートに食事をよそってもらうと、リグはいつもの席に向かった。631は常に戦術の考案を迫られた経験から、いつも四人で食事を摂っている。毎回席を変えるのも面倒なので、自然と631の席というものができあがっていた。今日はガスとユウが先に席についている。

 普通の兵士は小隊編成からしてバラバラだし、スケジュールの裁量も認められているので同じメンバーで食事したりはしない。631と同じ固定編成のWFですらそうである。しかし状況は変わりつつあった。兵士たちは顔見知りであれば言葉を交わすようになったし、気の合う者たちは集まって会話を楽しむ。ユキもエマやレオたちと食事するのは珍しくない。リグが蘇生したころは食器の音しかしなかった食堂は、いまやさざ波のように話し声が絶えることはなくなった。

 感慨のようなものを覚えつつ、リグはユキを探そうとしてやめた。意味のない行為だった。ユキに会いたい気持ちはあって何度も展望室に足を運びかけたが、結局行けないでいる。いま会えば、確実のジ・ノとやらのことがユキにバレる。バレるというより、話さずにはいられなくなるだろう。

 重い胸の内の上澄みを、リグはそっとため息にのせて漏らした。

 そうして何日もリグの調査が実も結ばないうちに戦略部から呼び出しがかかった。今度はリグ一人にだけだ。副長であるユウを呼ばないということは、たいした用事ではない。リグはユウに呼び出されたことを告げて、小隊の部屋を出た。後ろでガスとテオが今度こそいい知らせかどうか賭けをするのが聞こえた。

 さて、リグが出ていったのを見計らってユウはある人物に連絡した。その人物はすぐに部屋のドアをくぐった。

「邪魔をするぞ」

 ユキである。選り抜きのWFのなかでも、さらに抜きん出たトップエースだ。リグとは紆余曲折あったものの、現在は親密な仲である。

「いらっしゃい。呼び出してすまないね」

「構わない。私も最近妙だと思っていたところだ」

「……気づいたのは僕が最初だと思うけどね」

 この二人は別に仲が悪いわけではないのだが、リグのこととなると妙な緊張感が漂う。つきあわされるガスとテオはなにか言いたげに視線を交わした。

「ここのとこ、リグが妙なんだ。講義の時間を倍にして受講室にこもってる。講義嫌いのリグがやることじゃない。なにか目的があるんだ。それも、僕たちにも話せないような」

 ガスは密かにリグに同情した。リグがリグでさえなければ、ここまで行動を注視されることもなかったはずだ。

「何かしら秘密を抱えているのは明らかだ。あいつは展望室にもさっぱり来なくなった。理由は簡単だ。私に会えば最後、秘密とやらを私が見つけ出すとわかっているからだ」

 いまいましげにユキは伸ばした髪をかきあげる。怒りながらでも会ってさえしまえばリグの秘密を見抜く確信のあるユキに、テオは感心した。もっとも、ユキの怒りは心細さと不安の揺り返しなのだ。

 ユウは片足を抱いて憂鬱そうに膝に顎をおいた。

「リグは言わないと決めたら、どう問い詰めたって口を割らないだろう。たぶん懸念事項の根拠が薄いんだ」

「私もそう思う。根拠のないことをリグは嫌う。あいつが取り組むことはいつだって理由と目的がある。あいつは意味もなく隠したりしない。隠す理由がある」

「いや、忘れていただけのうっかり案件があったばかりだろ……」

 口を挟むガスにユキは、そんなことか、と動じなかった。

「ポインターの連射設定のことなら、あれはあいつの中で優先度が低かったんだろう。実際、あの戦法がなくても通常の侵入個体なら問題なく対処できていた。どうにもならなそうなことをなんとか解決するのがあいつの性分だ」

「同感だね。リグは対処済みの問題にわざわざ取り組んだりはしない。通常の侵入個体に対するあの戦術は、本当にたまたま思いついただけだと思う」

 二人がリグを信用していないわりに理解度が高く、傍で聞いていたテオは面食らう。

「いつか話してくれると信じているけど、何かあったときのために動向は掴んでおきたいんだ。協力して欲しい」

「言われなくてもそのつもりだ。しかし残念ながら、私にその機会はほとんどないだろう。あいつは私との接触自体を避けているからな。くそっ、私も同室ならちゃんと探れたのだが」

「いや、そりゃまずいだろ……」

 おもわずガスが漏らす。交配自体制限されるこの現代、性欲は問題の種でしかない。脳内伝達物質は厳しく管理されていて、性に関して市民はほぼ無欲である。それでも万一のことがあっては性能が低下するので、兵士に対しての対策は念入りだった。隊舎やシャワールームなどは厳密に男女別となっている。

「そのあたりは僕らが注意しておくよ」

「私だけでは効果が薄い。レオたちにも協力を仰いでいいだろうか」

 ユウは少し考え込んだが、うなずいた。

「そうだね、監視の目は多いほうがいい。でも、誰でもいいわけじゃない。監視者からリグへの信用を落としかねないからね。いま問題なのはリグの慎重さからくる秘密主義だけだ。WF第一小隊ならすでにリグを信用しているし、問題ないと思う」

「もっともだ。第一小隊だけのことにしておこう」

 監視って言ったな。

 自然に監視って言いましたね。

 ガスとテオはまた視線を交わす。

「話は以上か。では、私はこれで失礼する」

「よろしくお願いするよ。来てくれてありがとう」

「礼を言うのは私の方だ。ではな」

 ユキが出ていくと、なんとも言えない沈黙が降りる。

 額に手を当ててユウはため息をついた。

「まったく、秘密はないと言った直後にこれだもの……」

「隊長が嘘をついたようには見えませんでしたが……」

「嘘はついていなかったと思うよ。あの時点ではね。あれから秘密にしなきゃいけないような、なにかを見つけたんだ。実際リグはあのあと、僕たちにはわからなかった高速稼動個体の戦闘方針を見抜いている」

 高速稼動個体の戦闘でガスを筆頭に疑問を持ったのは、高速稼動個体が攻撃をしては移動を繰り返したことだった。同じ攻撃目標にあの速度で何度も攻撃すれば簡単なはずなのだ。なぜ回りくどく散発的な一撃離脱を繰り返したのか。リグはその答えを戦闘詳報に書いていた。

 もし高速稼動個体が同じ攻撃目標に固執するなら、たしかに目標にされた兵士はやられる。しかし戦術コンはその兵士を犠牲にして他の兵士に、高速稼動個体を攻撃するよう命じるだろう。一人の犠牲で済めば安いものだからだ。全員生還を至上命題とする631に効果はないが、戦術コンの指示に忠実な部隊ならそうする。高速稼動個体はその事態を避けるために一撃離脱戦法をとったのだ。これはフェムトの戦術コンへの理解が進んでいる証拠である。この事態になんらかの対処をしなければ戦術コンの指示がすべて裏目に出る日が来ると、リグは警告していた。

 ユウたちはそれを読んで、目から鱗が落ちる思いだったのである。

 一撃離脱は行動としては単純だから、あまり繰り返せば簡単に対処される。あのときリグが撃破せず回避だけをしていたら高速稼動個体はいったん逃走し、どこかに潜んでまた奇襲の機会をうかがったのだろう。レオたちが出会ったときもそうだった。都市侵攻においては奇襲の警戒を基本行動とすべきだ、とまでリグは踏み込んでいた。

「僕たちが隊長に追いつくのは当分先になりそうですね」

「まあな。だからって他にやることもねえ。成果が出ていないわけでもなし、俺たちは隊長のあとを追っかけるしかねえのさ」

「その通りだ……僕たちは確実に前に進んでいる。リグの背中は遠いけど、遠いだけだ。歩き続けていれば、いつかたどり着くことができるんだ」

 ユウは唇を噛む。ガスとテオもうなずいた。

「戦略部はなんの用で呼び出したんだろう。無茶振りじゃないといいけど」

「やることは変わらねえさ。隊長を守り、追いかける」

「僕たちは僕たちのことに集中しましょう」

 そうだね、と同意しつつ、ユウの表情は晴れなかった。

 そのときリグはおなじみとなった戦略部のハルの部屋で目を丸くしていた。

「異動ですか」

「そうだ。本来は命令書の送信ですむところだが、なにぶん初めてのことだからな。我々の意図を理解しておいて欲しくて呼んだのだ」

 それだけじゃなさそうだな、とリグは額の裏側で考える。ハルの言うとおりなら、命令書に意図を記せばすむ話だ。戦略部はリグが納得せず怒鳴り込んでくるのを予想し、その手間を省いたのだろう。

「命令の内容は先ほど伝えたとおりだ。631は都市ランファンへ異動する」

「都市ランファンはすでに稼働状態にあるのですか」

「ある。都市イオミン・ペイでの経験が生き、迅速に対応できた。動力とGMS、大気浄化装置の起動は完了し、生存に不可欠な各施設も稼働している。冷凍保存個体の蘇生や遺伝子からのクローニングは実行中のため人間は揃っていないが、その点は大きな問題ではない」

「都市の稼働に人間は不可欠です。結構な問題だと思いますが」

「本都市アンバース市民の三分の一近くを都市ランファンへ移住させる計画だ。それに都市ランファンから生まれた人間を加えれば人の問題は早期に解決する。ごく初期のみ、物資を輸送に頼ることになるがね」

「それで兵士も異動というわけですか」

「そうだ。というよりも、兵士の入れ替えこそが本命なのだ」

 言いながらハルは机の上に地図を表示させた。

「見ての通り、都市ランファンの稼働により戦線は都市ランファンを北、南を都市イオミン・ペイで結ぶラインへと移動する。本都市アンバースは戦線の後方になるのだ。本音を言えば一安心というところだが昨今の状況を見る限り、戦術開発に熟練した君たちを後方に置くのはあまりにも損失が大きい、とGMSと我々は判断した」

「普通、兵士は所属都市にずっといるものだそうですが」

「この状況も、君たちも普通ではない」

 ハルは身も蓋もない言い方をした。

「フェムトは新型や新戦術を採るようになった。戦術開発能力はいまや不可欠だ。ゆえに都市ランファンへ戦術開発に優れ、また熟練兵である君たちを異動させる。代わりに都市ランファンで生まれる兵士たちは新兵として本都市で教練する。これで人類の戦線は練度を落とさず維持できる」

「兵が死んだ場合、補充はどうします? 都市ランファンに我々の遺伝子情報はないでしょう」

「それは討議され、結論が出た。本都市と都市ランファンのあいだで、互いの市民の遺伝子情報を共有することになる。人類初の試みだが、都市間協力はこれからの対フェムト戦において重要だ。そのための不可欠の一歩だと判断した」

 リグは腕を組む。別に文句があるわけではなく、基本的に保守的なGMSと戦略部がここまで大きく動いたことが意外だったのである。

「他の市民の移住にも似たような狙いがあるわけですか」

「そうだ。ノウハウの伝授という意味でな。もっとも、本都市が戦線の後方となっても兵士以外の市民はあまり動かせない。兵士の重要度は下がるが、都市稼働に関わる市民の価値は変わらないからだ」

「僕らは戦いっぱなしというわけですね」

「不公平だということは承知している。何らかの配慮がなされるよう、検討中だ」

「異動というか、移住者全員のリストはありますか。あるなら拝見したいのですが」

 返事の代わりにハルの戦略コンから通信が来た。移住者リストだ。リグはそれをざっと眺めた。WFを含めた兵士はほぼ全員、整備班も半数、食糧生産層や浄水層など非戦闘員もぼつぼついた。中核となるリーダーなどは含まれていない。ドクターや工廠層の知り合いたちとはお別れになる。

「問題があるなら言ってもらいたい」

「ありません。高速稼動個体に対応した戦術コンのアップデートも終わりましたし、いい時機ですね。更新情報は他の都市に高く売りつけるんでしょう?」

 ハルは痩せた顔を嫌そうに歪めた。

「実態としてはそのとおりだが、意地の悪い言い方ではないかね」

「すみません。命がけで作ったものなので、安売りしてほしくないだけなんです。それで、異動はいつですか」

「明日だ。フェムトの動きはまだ読めない。早いほうがいい」

「わかりました」

 リグは机上の地図を見つめる。

「もし異動が完了してもフェムトに動きがなければ、ここを攻めることになりますか」

 リグが指したのは、都市ランファンの北、都市アンバースから北東にあるもう一つの未起動都市だ。未起動都市ヘルムート。

 ハルはうなずく。

「フェムトに動きがなければ、だ。都市ランファンへの異動が無事済んでから判断することになる」

「もし都市ヘルムートを起動し本格稼働できれば、この都市は完全に戦線の後方ですね」

「そうなるな」

「承知しました」

 リグは立ち上がって頭を下げる。

「いままでお世話になりました、ハル」

「兵士の補佐は戦略部員としての仕事だ。気にすることはない」

「言葉を間違えましたね。これまでご迷惑をおかけしました。もう僕たちに悩まされることはないと思いますので、ご安心ください」

「嫌味な言い方をしないと気がすまないのかね」

 ため息をついてから、ハルは薄く笑った。

「君には脅されすかされ、手を焼かされた。しかし、そのたびに我々は新たな情報を手にし、生き残り、戦略が改善されたのも事実だ。個人的な所感ではあるが、君たちがいなくなるのを大いに歓迎すると同時に、少し寂しくも思う。この矛盾した感情は人間の弱さだな」

「人間は矛盾した感情を同時に持てる生き物だそうですよ」

「戦略部員がそうあってはならない」

「そう言うと思いました」

 リグは退室しようとドアまで歩いて、ふと振り向いた。

「検索や記録をしないで答えてほしいのですが、ハル。ジノという単語に聞き覚えは?」

 瞬間、ハルは考え込む。

「……いや、ないな。なんだねそれは」

 怪訝そうなハルに、リグは首を振った。

「今朝見た夢の話ですよ。早く忘れてください」

 ドアをくぐったリグは余計なことを言ったな、と反省した。異動に文句はないが、どうせもうここからいなくなるのだ、という捨て鉢な気持ちがなかったとは言えない。相手がハルでまだよかった。リグの言葉を怪しんだともしても検索や記録はしない。つまりGMSに知られないように動いてくれるだろう。現在生存する人類の取扱い方針の違いから、戦略部はもはやGMSのおまけではない。いまを生きる人々の生き残りをかけて、独自の戦略を立てつつあるからだ。

 リグはハルの部屋の前で立ったまま気を静めると、ドクターのいる兵器開発室へ向かった。本来はまっすぐ隊舎へ戻ってユウたちに異動命令を伝えるべきなのだが、兵器開発室は隊舎より近くにある。別れの挨拶もしたいし、異動についてドクターの意見も聞きたいのだった。

 ユウたちを後回しにしたことに罪悪感を覚えないでもないリグだが、棚に上げた。どうせ順番が多少前後するだけだからだ。ちなみにこのとき、ユウはユキとリグの監視について話し合っている最中である。

「こんにちは」

 兵器開発室のドアを開けると、ドクターが飛び上がった。

「……またお前か。ノックをしろといつも言っているだろう」

「しましたよ」

 毎度のごとく嘘である。

「今度はなんの用だ」

「ご挨拶がてら、世間話に」

 椅子に腰掛けるリグ。ドクターも座りながら眉をひそめた。

「挨拶だと?」

 リグは先ほどのハルとの会話をそのまま伝えた。

「ふうむ……」

 ドクターはしばらく神経質に指で膝を叩く。

「聞いていないな。ということは、私はリストから漏れたのか。役立たず扱いか」

「前線にいなくてもできる仕事だからでしょう」

「……ほとんどすべての兵士を、いわば交換するわけか。お前たちがいなくなって清々しているところに、すぐさま戦術コンの奴隷のような新兵どもがやってくるわけだ。静かになって結構なことだな。この部屋に来る馬鹿者はいないだろう」

 モゴモゴとぼやいてから、ドクターはリグを睨んだ。

「お前はそれでいいのか? あれだけ貢献したというのに、まだまだ生命を危険にさらせというのだぞ」

「一応考えてみたんですけど、文句ないんですよねえ」

 頬杖をついてリグはどうしようもなさそうに返す。

「敵が新戦術や新兵器を作り出すから、それに対応できる可能性が高い部隊を前線に置く。ぐうの音も出ないほど合理的ですよ」

「だがこれを認めれば、お前たちはどれほど勝利しいくつの都市を救おうと、移動する戦線を追いかけることになる」

「兵士なんてそんなもんでしょう。ドクターや工廠層のメグやジムとはもう会えなくなる。それは残念ですが、ドクターたちの居場所がより安全になった証拠でもあります。悪いことばかりじゃない」

「仲間たちはどうだ。死なれるのは嫌なのだろう。危険にさらされ続けるぞ」

「ユウたちを置いていくことも考えましたが、結果から言うとお互いの生存率を下げますよ、それは。僕は慣れない仲間と一からやり直しつつ、フェムトの新型を相手にしなきゃいけない。もし戦線が突破されれば、ユウたちも同じ状況になるんです。それくらいなら前線だろうとどこだろうと、一緒にいるほうがいい。上手くいってるチームをバラバラにする合理的な理由なんてないんです」

「ユキはどうだ」

 リグは眉を寄せた。

「生きていて欲しいですよ。危ないところにはいて欲しくない」

「なにか画策したらどうだ」

「駄目なんです。ここのWFは戦術開発能力をもった最高級の兵士たちです。後方に置いておく合理的な理由が一つもないんですよ。それにユキたちも望まない。もしここに置き去りにできたとしたら、彼女は僕を殺しに来るでしょうね。証拠がなくても僕のせいだと決めつけて」

 憂鬱そうなため息がリグの口から漏れ出る。

「GMSと戦略部は合理的な判断をしたんです。立派なもんですよ。少しでも保身の気があるなら、WFは手元に置いておくでしょうから」

「……そうだな」

 わずかな沈黙のあと、ドクターは切り出した。

「異動はいつだ」

「明日です」

「では、いまのうちに話しておこう。まだ確証はないのだが仕方あるまい」

「お願いしていた件ですか」

「そうだ。場所はここで構わんだろう? またあそこに閉じ込める気なら私にも考えと手段がある」

「手段てなんですか。大丈夫ですよ。その件ならGMSと戦略部は想定内でしょうから、ここでいいです。音声会話で、ですが」

 咳払いを一つしてから、ドクターはやや前のめりになる。

「先に言ったように、確証はなにもないぞ」

「はい」

「システムログを探ってみたが、妙な動きはない。いまのところはな。他都市も同様だ」

「でも話をしたくなるくらいには妙なことがあったんでしょう? システムログでないとすると、どこから?」

 ドクターは珍しく自信なさそうに眉尻を下げた。

「訓練データだ」

「は?」

「お前たちがシミュレータで戦術開発をしているのは聞いている。私はそれを時々見ていた。先日、ある隊員に明らかな変化があったのだ」

「誰です」

「ユキだ」

 リグの目つきが険しくなる。

「なにが変なんです」

「対人格闘訓練の時間が大幅に増えている」

 落ち着くよう、リグは意識的に机の上で両手を開いた。

「うちのガスもやりますよ」

「やるどころではない。ここのところ毎日だ。シミュレータ訓練の時間を倍にして、増やしたぶんだけ対人格闘をやっている。対フェムト戦になんの効果もないと言われるあれをな」

「……ユキが変なのはわかりましたよ。でもそれ、人型と関係あります? 僕をボコボコにしたくなっただけかもしれない」

「それなら訓練する必要はあるまい。確証はないと言ったぞ。私もいったんは関係ないと判断したが、ユキの身に起こったことを時系列で並べると無関係とは言いづらくなる。都市ランファン攻略時、ユキが一時的に部隊からはぐれたことは?」

「知っています」

「そこがそもそものはじまりだろう。その後、無事に部隊と合流した。そして緊急で帰還する。高速稼動個体の情報提供のためにな。数時間してお前たちは呼び出され、提供元不明の情報を得る。間をおかずWF第一小隊は都市ランファンの攻略へ復帰した。攻略作戦完了後、ユキはそれまでほとんどやっていなかった対人格闘訓練を毎日行なっている」

 ドクターはいったん言葉を切って、リグの様子をうかがう。

「どうだ。並べてみると、一連の流れがあるように見えんか」

 リグはどこか不満そうに腕を組んだ。

「ユキ自身が情報源、もしくは情報源と会った、と言いたいんですか」

「WF第一小隊の動きを追うと、その可能性は高い」

「彼らの戦闘詳報にはなにも書いてませんでしたよ」

「書くわけあるまい。戦闘詳報は公開される。機密を書き散らすものか」

「彼らが高速稼動個体と遭遇したことは事実でしょう」

「そうだな。その戦闘中にユキは部隊とはぐれた。あるいは差金だったのかもしれん」

「誰のですか」

「知らんよ。それを示唆する情報はなにもない。だが、ほぼ間違いなく、ユキは何かと出会った。それを否定するのは勝手だが、タイミングが良すぎるのも事実だ」

「だとすると、その何かは高速稼働個体、つまりフェムトに言うことをきかせられることになります」

「かもしれん。指示ではなく習性を利用しただけかもしれんし、ただの偶然かもしれん」

 ドクターはいつもよりゆっくりと指で膝を叩く。

「いずれにしても情報源はユキ、あるいはユキの出会ったなにか、おそらく人型だと私は睨んでいる。それ以上のことは仮定に仮定を重ねるだけで、妄想と区別がつかなくなるだけだ」

「根拠は、タイミングが良すぎるから、ですか」

「気に入らんか?」

「……ま、確証はない、という前提のお話ですからね」

 受け入れたような言い方をしたものの、気に入らないのは事実だった。これは完全にリグのわがままなのだが、そういった厄介なものからユキは遠ざけておきたかった。

「ユキからなにか探れないか」

 気軽に言い放ったドクターに、リグはぎょっとした。

「無理ですよ。象一頭分の自白剤を飲ませても、戦術コンが脳内伝達物質を操作して無効化します」

「それは知っとる。お前になら、ユキの意志でなにか言うかもしれん」

「それこそ無理です。ユキの気性を知ってます? 口を割らせるより頭をかち割るほうがまだ希望がある。それにしたって、この都市の人間は全員返り討ちでしょうけどね」

 ふん、とドクターは鼻を鳴らす。

「さすがトップエースだ。まったく、戦術開発能力を持ったやつはどいつもこいつも扱いづらいな」

「ユウやテオみたいな素直なのもいます」

 自分でも半ば信じていないことを言いながら、リグは首を鳴らした。

「ユキが関係していそうだ、というのはわかりました。対人格闘訓練をしていることからもなにか推測できそうですね。相手が人型だと?」

「もしくはそれに準じたなにかだ。確信があるんだろう。対人格闘が通用する相手だという」

「他都市の人間でしょうか」

「だとするとフェムトと一部の人間が通じている可能性が生まれる。胸糞の悪い仮定だが、それはそれで悪い話ではない。うまくいけばフェムトとの意思疎通手段を得ることができる」

「他都市の人間でない場合は?」

「人型、人型でないフェムト関連のなにか、もしくは未知の人類だろう。未知の人類についてはどうとでも考えられるから放っておくとして、フェムトの場合が厄介だ。なぜ人間を真似た?」

「奴らが地上戦でも銃を使うとなると、かなりまずいですよ。いままでの戦い方が通用しなくなる」

「それだけではない。奴らは兵器の構造自体を変えた。いままでは密閉した外殻の内部にフェムト群体が潜む、昆虫のような外骨格だった。フェムト群体の発する力場で動作し、関節らしいものがないことと、外殻が硬すぎるので対人格闘技術は意味がないとされていた。ユキが対人格闘訓練をはじめたということは、人間と同じ内骨格になったということだ。しかも人間の力が及ぶ程度の強度でな」

「そこまで真似する利点あります?」

「兵器としてはないな。性能が悪くなりすぎる。それこそ装備で補わなくてはならん。戦闘向きではない。都市内に紛れ込ませる手法が使えるな」

「でも識別No.も個体名もないから、潜入はできない。なにがしたいのかわからないですね。ヘルメットに人間の顔だけ貼り付けて、戦闘スーツの中身はフェムト群体にしたほうがよっぽど作りやすいし、性能もいいでしょう」

「ふむん。ユキはどうやって内骨格だと知ったんだ?」

「人型が戦闘スーツを脱いで、X線で自撮りでもしたんじゃないですか」

「馬鹿め。冗談を言っとる場合ではないのだぞ」

 リグを叱りつけてから、ドクターはしばし考え込んだ。

「わからんな。情報が足りん。だが、事実としてユキは対人格闘が有効だと判断した。あれだけの性能と戦術開発能力をもった兵士がだ。その判断は信用できるだろう」

「……まあ、確かに信用はできます」

 リグは再び憂鬱なため息を吐いた。背後関係も原因も過程も不明のまま、数少ない情報に右往左往する中で結果と事実だけがぽつぽつと現れる。そのことに軽いいらだちと疲労を感じていた。

 ユキは何かと出会った。通信をした。音声会話もしたかもしれない。そもそもハルの伝えてきた情報がすべてとは限らない。もっと核心的なものを、ユキや戦略部は握っているかもしれないのだ。あの言葉のように。

 ジ・ノ。

 胸の中がざわめいて、リグは唇を噛んだ。

「推測ばかりですまんが、いま言えるのはこれくらいだ」

「いえ、助かりました。ユキの動きに気づけていませんでしたから」

「お前なら、会えば気づきそうなものだが」

「いまちょっと会いづらいんですよ」

 ドクターはなにか言いたそうにしたが、結局別のことを口にした。

「この件に関して、これからも注意を払おう。個人的な興味もあるしな。ただし、お前たちがいなくなる以上、何かわかっても即時連絡はできんぞ。都市間の長距離通信は戦略部を通さねば使えん」

「戦術コンのアップデートがあるとき、兵士がその情報を持って来るはずです。そいつを利用してください。方法はおまかせしますよ」

 勝手な奴め、とドクターが毒づいて話は終わった。そのはずだったのだが、すこし待っていろ、とドクターは部屋の奥へ行く。作業場のそこかしこに積まれたガラクタの山を漁ると、何かを見つけて戻ってきた。

 机の上で手を広げる。

 それは繭のような形の大気ボンベだ。戦闘スーツのベルトにつけてヘルメット内に大気を供給するのが目的の道具だが、最近の都市攻略では敵性大気に漂うフェムトに対して手榴弾のような扱いをされる。

 通常、光を反射しないように表面処理されるだけの鈍色のそれは赤く塗装されていた。

「餞別だ。くれてやる」

「なんです、これ」

 赤いボンベを受け取り、リグは手のひらで転がした。

「超過集束剤と言うそうだ。生化学部が作った。新型侵入個体への対策としてな」

「高速稼動個体ですか? 生化学部はいつから仕事が早くなったんです?」

「まさか。高速稼動個体専用ではなく、新型全般への汎用性のある対策として前から開発されていた。フェムトの新型に備えているのはお前たちだけではない、ということだ」

「嬉しい話ですね。効果は?」

「認識能力の拡大が主だ。脳活動と神経伝達系の電気信号経路を一種の超電導化によって加速するとか言ってたか。ま、生化学のことはよく知らん。ようは認識力が倍以上になり、相手の指が引き金を引くのを見てから反応できるほどになる。さすがに発射された弾までは見えんそうだ。ついでに反射速度と筋力を二、三割増加させる。侵入個体の外殻を傷つけるほどではないがな」

「認識力に身体の強化がついていかないわけですか」

「身体能力は筋肉や骨の強度も関係する。どうしても限界があるだろう。使用感としては水の中にいる状態に近いそうだ。だが認識力が拡大するということは相手の動きに即対応、あるいは動きを事前に察知できるようになるということだ。この重大さがわからんお前ではあるまい」

「そうですね。銃口の向きから射線が読めれば、銃も怖くない。侵入個体へも足止めなしで積極的に攻めにいけるし、高速稼動個体の動きにも……これは難しいかもしれませんが、少なくとも対応は楽になります。ありがたいですよ。どうやって使うんです?」

「通常のボンベと同じだ。戦術コンでボンベを指定しろ。薬剤がヘルメット内に噴霧され、口内粘膜や呼吸器系から吸収する。おかげで効果が出るのは早い。三秒で効果が発揮され、一分間続く」

 一分、と口の中でつぶやいてリグは考えを巡らす。最悪の瞬間を逃れるのが精一杯、というところだろう。しかし効果の汎用性は高い。どんな状況でも使える。

「一つだけですか? 四つあれば小隊ごと高速化できるんですが」

「それだけだ。お前の言う通り、小隊単位で活動する兵士が一人だけ高速化しても意味は薄い。しかし、お前は頭がアレだからな。不測の事態でアレな行動に出るかもわからん。持っておいて損はないだろう」

「アレとか言ってますけど、隠せてないですからね」

 馬鹿にされている気配をひしひしと感じ取り、リグは苦い顔をする。

「いいことばかり聞きましたけど、悪いところは?」

「生命の安全は確認されている。だが戦闘スーツはただでさえ兵士の性能を上げるために様々な薬品を肉体に投与している。その上でこいつを使えば薬品の過剰投与による副作用だけでなく、急激な変化に対する体組織の損傷も相当だ。個人差はあるだろうが、使用後の作戦行動については保証しないそうだ。それと、一回使ったらニ日は空けること。肉体に残留する薬物が抜けきらないと、効果が低くなるばかりか副作用まで大きくなる」

「安全って言いましたよね?」

「死なないという意味だ。薬も毒も、肉体に作用する点では同じようなものだ。しかも本来ゆっくりであるべき変化を急激に引き起こすのだから、反動があって当然だろう。むしろ、この効果でよく死なないものだと感心したくらいだ」

 リグはため息を吐く。今日はため息ばかりだ。

「使わないほうがよさそうですね」

「それに越したことはない。実はまだ微調整しているらしくてな。暇なら先行して試してみてくれ、と試作品が私のところに回ってきた。自分で使う気はなかったからお前で試すつもりだったのだが、なにぶん忙しくてな」

「ずっと忘れていればよかったのに」

 丁寧に毒づいたリグに、ドクターは肩をすくめてみせた。

「お守りがわりにでもしておけ。そのうち改良した制式品が出回るかもしれん。どの程度改良されるかは生化学部の腕次第だ。見ものだな」

 また、ため息をついてリグは赤のボンベをつまみ上げる。そして、しっかりと手の中に収めた。

「こいつを使わなくてすむよう、お祈りでもしますよ」

「すまんな。私がしてやれるのはこれくらいだ」

 珍しくしおらしいドクターを見てリグは思い出した。

 ドクターに会うのは、きっとこれが最後なのだ。

「ドクター」

 リグは立ち上がって頭を下げた。

「いままで、ありがとうございました。本当にいろいろなことを助けてもらいました」

「リグ。お前だけが感謝することではない。お前はお前の見地から、我々に新しい道を示してくれた。この都市ごと救いもしたな。それだけでお前は威張り散らしてもいいくらいなのだ。頭を上げろ。私個人としても、思いもしなかった考え方や発見にめぐりあうことができた。まだまだわからないことがある。知らないことがあると知る。それが素直に嬉しい。それを研究し、役立てる方法を考える喜びが保証されるからだ。出会えたこと、ともに困難を分かち合えたことに感謝するのは私の方なのだ」

 頭を上げたリグはうなずいた。

「お世話になったのは僕の方だと思いますが、お互い様ということにしておきましょうか。数値化しづらいので主張は噛み合わないでしょう」

「私は世話した回数のほうが多いと思っとるから、妥協せんでいいぞ。もっとも、大人の義務として当然のことだ」

「その大人子供論だけは納得できませんね。年齢が違うからなんだっていうんです。問題は能力でしょう」

「それがわからんうちは子供だ」

「あ、ずるい言い方ですね」

「次代へ引き継ぐ尊さと責任を覚えないうちは大人ではない。たしかに年齢は関係ないが、子供は自分のことで手一杯だし、それでいいのだ。余裕のある大人がやればいい」

 不満げなリグに、ドクターは微笑んだ。

「お前は仲間を連れて行くのが最善だと言ったが、本意ではあるまい。合理性と感情は時に対立する。お前、本当は仲間たちを戦闘の可能性がゼロの場所へ異動させたいのだろう。だが、お前の合理性と戦術開発能力がそれを許さん。自分で自分を板挟みにするのは辛いだろう。ここに来た時のお前の顔、廃棄寸前の機械油みたいだったぞ」

 リグは唇を噛む。意識していなかったが、言われてみればそのとおりだ。そのことに悔しさを感じる。

「ものは考えようだ。いままでともに戦い抜いてきた仲間たちなら、そう簡単にはやられん。私はお前の合理性を支持する。同時にお前の気持ちも尊重しよう」

「それ、どういう意味です? 綺麗事で問題回避してませんか。物事を解決する方法は、どう行動するか、それだけですよ」

「行動としては簡単だ。生き残れ」

「簡単に言いますがね、失敗したらユキやユウたちが……」

「失敗を恐れるな。自分の考えに従って判断しろ。誰かに判断を委ねるな。一生その誰かのせいになるぞ。成功も失敗も、すべてお前のものにしろ。そうでなければ生きているとは言えん。誰かの言う通りは、戦術コンの言いなりと同じだ。生き残るための最善と思われることをしろ。そのために仲間が必要ならそれは正しい。その仲間を失いたくないという気持ちも、また正しい。失わないための最善の努力をしろ。何度でも言うぞ、失敗を恐れるな。失敗を恐れるあまり、するべき判断すら避け、何もしないでいるようにはなるな。何もしないということは、何も失わないということではない。ぼけっと突っ立っている間にもフェムトは攻めて来る。我々は動きを止めず、対抗し続けるしかないのだ」

 肩を落としてリグは床を見る。自分でも弱気な顔をしているのがわかった。

「難しいことを平気で言いますね」

「難しいさ。現にこうして穴ぐらに押し込まれている。しかし、我々はまだ戦える。降伏はありえん。そんなものが通じる相手でもない」

 ドクターも立ちあがる。リグと視線があった。

「私は仕事を続ける。特定の誰かのためではない。それが誰かを救うと、人類に貢献すると信じているからだ。そういった考えとは別に……生き延びてほしい個体がいることも事実だ」

 無理をして睨んでいるようなドクターに、リグは笑いたいような呆れたような、妙な気持ちになった。

「……いつもいつも、回りくどくて説教臭いんですよ。あなたの話は」

 むっとしたドクターに背を向け、リグはドアに向かって歩く。

「生き残りはうちの隊の至上命題です。誰ひとり諦めません。その点はご心配なく」

 開いたドアの外側に立って、リグは振り向いた。

「お元気で」

 ドアが閉じる。

 その無粋で無機質な物体を見通すようにドクターは目を細めた。しばらくして、寂しそうに肩を落として作業場に戻る。

 ゆっくりと仕事を再開していく。

 大人であるドクターは知っている。残念ながら知っている。

 人間一人ができることなど、そう多くはないのだと。それでもやるしかないのだと。

 その後、リグは隊舎に戻ってユウたちに異動命令を告げた。必要なら関係者に挨拶を済ませ、荷物をまとめるように言うと、ユウたちは笑った。

 クローニングでいつでも補充ができる兵士に、まとめるべき私物などないのだ。

 表面上だけ同意しておいて、リグは過去に世話になった人々へ挨拶回りに行った。工廠層のメグやジム、対空射撃装置の量産製造に関わった人々。格納庫の整備班。食堂に勤務する馴染みの人々。いつも無神経な生化学部。

 翌日、予定通り631とWFを含めた大部隊が都市ランファンへ飛び立ち、拠点を移した。


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