友人と悩み事
ゆっくりとお読み下さい。
夜明けを両目に感じるのは
一体、いつぶりだろう。
胃が食物を素直に受け入れてくれるのも
いつぶりなんだろう。
寝起きの強ばった背筋を両手を持ち上げる事で伸ばす。
腕に付いた砂埃も振り上げてしまい幾つか口に入った。
身体も軽く、心音も呼吸も乱れていない。
醜い烙印は赤赤とその身に焼き付いたままだが
今はもう、気にも留まらなかった。
頬を撫でる朝の風が少し冷たくて気持ちがいい。
人間、健やかになると思考も表情も柔らかくなるらしい。
石の様に固まっていた頬が粘土くらいの硬さになり
多少動いている気がした。
「―――起きたか」
「おはようディディさん、いい朝ね」
「すっかり良くなったみたいだな
ただ、無理はしない様にな」
「昨日の今日だものね。
多少身体を動かして、その後は養生するわ」
「そうするといい」
晴天の下にボロ屋が建ち並び、隣には大恩人の姿。
また頬が一段階緩んだ気がした。
今日もディディが生きていてくれて良かった。
私は能天気に空を眺め、ふと隣を見ると
ディディは険しい表情で遠くを見ている。
「何か、あったの?」
「いや、辺りが騒がしいと思っただけだ。
昨晩、旅の曲芸団が首都に向かう途中
この近くで一泊したらしい。
その喧騒であろう」
案ずるな、とディディは小声で言う。
いくら耳を澄ましても風の音くらいしか聞こえない。
旅の曲芸団?
何か国の催し物でもあるのかしら。
そもそも、此処がどの国の領土なのかも知らない。
「さぁ、日が登る前に朝の水汲みに行ってくる。
何かあるといかんでな、其方は建家に入るといい」
古びたバケツを手にディディは目の前の道を歩いて行く。
その先に湧き水でもあるのだろうか。
ある程度見送り、背後の建家に目を向ける。
「とりあえず、入るしかなさそうね」
昨日の今日で本当に助けられてはいるけれど
もし私が泥棒とかだったらどうするのだろう。
老人の警戒心に疑念を持ちつつ、私はドアノブを回した。
◇
とても古い家。
それ以外に上手い表現が見つからなかった。
部屋の何処を歩いても床板は唸り
砂埃があちこちに積もる。
ディディもボロを纏う身なのだから
勿論靴なんて履いている訳がない。
「少し、掃除でもしようかしら」
軽く身体を動かすのに丁度いい。
そう思い部屋の中を見渡すと
床に落ちた箒を見つけたのでしゃがみ、手に取る。
そのまま立ち上がると今居る部屋の隅にドアが見えた。
裏口か部屋がもう一つあるのだろうか。
「開けたら、怒られるわよね」
好奇心は猫をも殺すらしい。
一先ずは気にしない様にしよう。
そう心に決めて床の砂を掃く。
立ち上る砂埃に噎せていると
件のドアの先から声が聞こえた気がした。
「……誰か、居るの」
返事はない。
でも、何やら蠢く音が聞こえる。
物乞いでも寄って来たのだろうか。
「気にしない方がいいわね」
ディディもそう遠くへ行った訳ではない
と思う。
彼が帰り次第伝えよう。
気を取り直して箒を手にすると
今度はハッキリと声が聞こえた。
「だ……誰か、たす、け―――」
これまた掠れた声で、誰かが助けを呼んでいる。
どう考えても老人の声。
それがディディの友人であったならば尚更助けなければ。
意を決してドアを開ける。
私の目に飛び込んで来たのは、裏口の風景ではなく
ベッドが二つ置かれた一つの部屋だった。
そして、床には蠢く影が。
「あの、大丈夫ですか」
恐る恐る、その影に声を掛ける。
返事も無いまま、蠢き続けるそれは
「―――あ……誰か、助けておくれ」
「そこに、誰か!、おるんじゃろ……」
ベッドから落ちたお爺さんとお婆さんだった。
身体の何処かを抑える様な素振りはなさそうで
落ち着かないのかジタバタとしている。
「大丈夫ですか!!」
非力な私でも何とかベットに乗せられるくらい
二人の老人は痩せこけていて
とても自力で動ける状態ではなかった。
「おお……何方かは存じませんが、ありがとうございます」
「声からして、お嬢さんじゃな!……ありがとう」
「い、いえ、全然……っ
全然大丈夫ですからっ……」
なけなしの筋肉と潤いの足りない関節が悲鳴を上げてる。
中身は健やかになっても根本的な体力はやはり
健康的な食事や適度な運動でなければ戻らないのだろう。
節々の痛みに震え
明日以降に来るであろう肉体の痛みを想像していると
老人達から話しかけられた。
「お嬢ちゃん、お名前は?」
「おお、そうじゃ!命の恩人に名も聞かんとは
何たる事だ!」
丁寧に話すお婆さんと少し声の大きなお爺さん。
見た目の年齢はディディと同じくらい。
違う所は……
もう自分で歩く事すら難しそうな所か。
「いやいや、恩人だなんて、
そんな大層な事してません。
私の名前はマノアです。
お二人の名前も、よろしければ教えてください」
話して居ても二人共こちらを見ない。
いや、きっと目が見えていないんだ。
「私は、ルーノよ。
マノアちゃん、よろしくお願いしますね」
「わしはサントンじゃ!
マノアちゃんか、その名前忘れんぞい!」
「ルーノさん、サントンさん。
よろしくお願いします。
お二人はディディさんの御家族なんですか?」
「いいえ、家族ではありませんよ」
「あぁ、血縁じゃぁない。―――だが……」
「だが……?」
「家族以上の信頼は寄せていますね」
「家族以上の信頼があるのじゃ!!」
老人達はお互いの想いが揃っている事を
直球で教えてくれた。
「じゃあ、お二人は御夫婦なんですか?」
「違いますね」
「違うわ!!」
これまた息の合った返答。
とんでもない仲良しな御老人方だという事がわかり
なんだか、とても暖かい気持ちになった。
私も、仲のいい人
友達とか、そういう関係の誰か
ちょっと……欲しかったな。
「私達は、老い先長くないのだけれど」
「恩人に、友とは烏滸がましいんじゃが」
「……え?」
「友達にしてくれませんか?」
「友達にしてくれんかの?」
「―――――」
この人達は心を読む魔法の使い手なのかしら。
こんなにも思っている事を読まれたのは
産まれて初めてだった。
人間、たとえ言葉にしたとしても思いは伝わらない
長い長い拷問と陵辱の日々で染み付いた感情。
泣き喚いでも
怒鳴り叫んでも
願い頼み込んでも
人の心は欲に潰される。
信用や信頼なんて素敵な言葉
今日初めて聞いたのかもしれない。
十四歳になるまで親兄弟は多く居たけれど
末の小娘に信用も信頼も語る事ではないわよね。
あれからもう六年。
流石にもう大地の一部に
星の一つにでもなったかしら。
聞き慣れない言葉に
急に跳ねた心臓に
驚き目を泳がせる内に
懐かしい記憶が垣間見えた。
「お二人共、ありがとうございます。
初めてお友達が出来ました
今日と言う日を大切にしたいので
どうか……、長生きして下さい……」
私はこの日、悩みというものを覚えた。
身体が健やかになった所為か
飲み食いが多少出来る様になった所為か
偶然心優しい人達に出会った所為か
涙腺が少し緩くなった気がする。
またいつか、どこかで。