聖竜の恵
ご貴重なお時間を頂き誠にありがとうございます。
気がつくと私は地面に横になっていた。
まだ日の高い時、ディディと名乗る老人と出会ったのは
夢だったのだろうか。
姿勢はそのままに、ゆっくりと辺りを見渡し
視線を自身と地面の間に向ける。
「この布……」
私の萎びた体躯を覆う白い布。
その下にはディディと私が座っていたボロ布。
極力白い布が汚れない様にとの配慮なのか
ボロ布が二枚並んでいる。
「……どこに」
名前も知らない病に侵された身体から出る
弱々しい声が夜闇に溶ける。
所々に松明の火が揺れ
三つの月が頭上を漂う。
私は悪夢さえ見る事なく
久方ぶりに安眠していたらしい。
起き上がり左右を確認する。
私の両脇にはディディの姿が無い。
背後には家屋の壁。
壁に立てかけられた朽ちた槍。
辺りには多少の人影は有るものの
動いている影は無い。
あの御老人は、何処へ行ったの?
彼は今日ほんの少しだけ会話した老人。
私に焦りは無かった。
何処かで息絶えてしまったのか。
それとも人攫いに連れ去られたのだろうか。
微睡みの最中
瞬きをする間に
背後の家屋から音が聞こえた。
誰か、来る……。
ゆっくりと立ち上がり出入口であろうドアに注目する。
そして耳を澄まし周囲の音を集める。
小さな足音に、ガラスの揺れる音
そして蝶番の軋む音と共にドアが開く。
「起きたのか、マノア」
「……ディディ、さん」
身体に入った力がスルスルと抜けて行く。
手入れのされていない毛髪で表情が見えないけれど
何かを喜んでいるのは声でわかった。
私の背後の家屋は彼の持つ家なのだろう。
再び蝶番を鳴らしドアを閉めるディディ。
飲水と思しき液体の入ったガラス瓶と空のグラス
それらをトレイに乗せ、私の眼前へ差し出す。
良かった……生きていてくれて。
昨日の今日でお別れとあっては寝覚めが悪い。
また少し、頬が緩む。
ディディの手からトレイを受け取り中身を覗う。
松明の明かりに照らされて、少し黄色がかった……水。
「身体を冷やしてはいないか」
「……平気」
「そうか、では今はそれを飲み
また横になるといいだろう」
「………これは」
「"聖水"と呼ばれる万能薬だ。
その身に焼き付いた烙印は消せぬが
毒や傷は癒せるはずだ」
「……聖水」
それは伝説級アイテムと聞いた事がある。
あらゆる病や傷を癒し
失った部位を再生させる事も
泉に聖水を飲ませ精霊にしたという言い伝えもある。
ただ、スラムの住人が手に入れられる訳もない代物。
考えざるを得ない事が一つ……
「―――昔、書物で偽物は人間や家畜の尿と書かれて……」
「いやいや、本物だとも」
隣の老人はカッカッカッと高笑いをしているけれど、
不安だ。
でもディディの目は信頼できる。
数時間前から少し話した程度だが
この老人からは悪意を微塵も感じない。
良くも悪くも私は悪意に敏感な身だ。
安心して、グラスに一杯。
「……………苦い」
「良薬口に苦し、だな」
「っ!!、身体が―――」
一杯を飲みきった時、全身が発光し
身体を蝕んでいた複数の毒が消えてくかの様に
四肢が軽くなっていく。
快楽にも等しい感覚が私の脳内を支配する。
私は固く目を閉じ、正常な心臓の鼓動を堪能した。
そして、再び目を開くと
「嘘―――」
「やはり揃っていた方が美しい」
数年閉ざされていた右半分の世界が
堕天教会に奪われた宝物の片割れが
乾き固くなっていた空洞が
聖水に癒され、光の世界が帰還する。
大恩人が切ってくれた、牢獄に繋がれた両小指も
気付かない内に再生していた。
数多の男共に犯された身体が
清められたのかは調べる気になれないが
私は感動と共に人生最大の感謝をディディに送った。
でも、私の唇は動かなかった。
言葉は無くともディディは気持ちを察した様に頷く。
「"聖竜の恵は万病を癒し
神々の泉を精霊へと昇華した"
伝説は………本当だったのね」
「そうだとも。流石は"聖竜の小便"だ」
「―――――――」
「残り二杯分はあろう。余さず飲みなさい」
「―――あり、が、と、う………」
六年の流浪の末、辿り着いた名も知らぬスラム街にて
私は二人目の大恩人と出会ったのだった。
聖人でも騎士でもない、道端の老人ディディ。
只者ではないはずの彼の事を
私は知りたいと思った。
そんな事を考えてる間に瓶は空になり
マノアの身体は烙印以外の外傷や病から解放された。
琥珀の双眸に光が満ち満ちている。
そして何故かマノアの足元に生えている三輪の野花が
瑞々しく濡れ輝いていた。
またいつか、どこかで。