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残り香

 仕事から帰宅したら、部屋が水浸しになっていた。何事かと思ったが、対応してくれた管理会社の社員によると、どうやら上の階で水道関係のトラブルがあったらしい。その夜はどうにか無事だった着替えだけを持って、管理会社が手配したホテルに向かった。

 詳しい状況が分かったのは次の日のこと。配管の一部が破れていたらしく、大規模なリフォームを行うということだった。ついては、仮の住まいとして不動産屋から別のマンションの一室を紹介された。駅からもほど近い場所にあり、間取りは1LDK。一人暮らしには広すぎるし、何よりも家賃が心配だったが、家賃は元住んでいたワンルームの金額でいいという。試しにと内見させてもらうと、日当たりも良くて部屋全体が輝いて見えた。一も二もなく同意して、早々に引っ越しを済ませた。


 引っ越して数日、休みを利用して荷物を片付けていると、クローゼットの奥から見覚えのない物が出てきた。前の住人が忘れていったのだろう、一台の黒いポケットラジオ。何の変哲もないラジオなのだが、ひと目見て気に入ってしまった。広く明るい部屋に、ラジオまである。人生は捨てたものではないらしい。

 さっそくその日の晩、夕食を食べながらラジオをつけた。上部の音量ダイアルを回すと、すでにチューニングは合っていたのだろう、ラジオ番組が聴こえてくる。

 どうやら、リスナーからの投稿をメインにした番組であるらしかった。投稿されたメッセージをパーソナリティが読み上げる。投稿内容は様々で、近所の誰それが憎い、家族が気に入らない、上司を殺してやりたいなど物騒な内容が続く。それに対してパーソナリティが、投稿内容を罵倒し、投稿してきたリスナーをこき下ろし、聴いているこちらにまで侮蔑の言葉を吐く。それを聴いていると、ささくれだった心が落ち着いていった。投稿の合間に流される派手な洋楽のロックンロールが耳に心地よい。夕食を食べながらラジオを聴くことが習慣になった。




 パーソナリティが盛んに口にする言葉がる。


『お前の憎い奴は誰だ?』


ぼんやりと頭の中に顔が浮かぶ。始めははっきりとしなかったが、何度も聴いているうちにだんだんと像は鮮明になっていった。一週間もする頃には、その顔がはっきりと見えるようになっていた。上司の顔だった。

 上司は嫌味な奴で、少しのミスでもねちねちと指摘してくる。厳しく叱責されたこともあり、前々から鬱陶しく思っていた。


『お前の憎い奴は誰だ?』


 パーソナリティが煽る度に上司の顔が浮かぶ。何度も顔を思い浮かべる毎に、憎しみは増していった。


『お前の憎い奴は誰だ?』

「あいつだ」


 パーソナリティの声に応える。最初は小声で呟くように。次第にはっきりと声に出すようになり、終いには叫びながら夕食を掻き込んだ。振り上げた拳で強く食卓を叩く。憎しみはぐつぐつと煮詰まって、殺意に近くなっていた。



 マンションに越して一ヶ月が過ぎた頃、仕事中に上司に声を掛けられた。とくに注意を受けるような心当たりは無い。何かと訝しんでいると、じっとこちらの顔を覗き込んでいた上司が言った。


「お前、大丈夫か?」

「何がですか?」


また言い掛かりをつけてきた。うんざりしているこちらを気にせずに、上司は続ける。


「いや、だってお前、顔色が。今日はもう仕事はいいから、今すぐ病院に行ってこい」


 有無を言わさず会社を追い出されて、渋々病院に向かった。病気でもあるまいに、大げさな。



 医者から険しい顔で告げられた。


「極度の疲労と栄養失調です。こんなになるまで、一体何をしていたんですか」


そのまま緊急入院となり、会社はそのまま休むことになってしまった。

 就業後に駆けつけてきた上司は、点滴をされてベッドで横になっている姿を見るなり、


「申し訳ない。様子がおかしいことには気がついていたんだが、まさかここまでとは。もっと早くに言うべきだった」


開口一番、頭を下げた。


「仕事のことは心配するな。とりあえず、体調を戻すことだけを考えろ」


そう言ってその日は帰っていったが、入院期間の一週間の間、仕事の合間を縫っては見舞いに訪れてくれた。


「退院したら、また一緒に呑みにでも行こうか」


 笑う上司の顔を見ながら、考えていた。何故、あんなにもこの人を憎んでいたのか。この人は教育係として、右も左も分からない新人時代から何くれとなく世話を焼いてくれていた人だった。感謝こそすれ、憎しみを向ける相手ではない。仕事が上手くいけば褒めてくれ、ミスした時は取引先で共に頭を下げてくれた人だった。そのことをすっかり忘れてしまっていた。

 不思議なことに、病院のベッドで一晩を過ごした次の日には、あれほど胸の中に煮えたぎっていた憎しみが消えて無くなっていた。



 退院して一週間ぶりに帰宅したマンション、部屋に入った瞬間に違和感を覚えた。明るいと思っていた室内は電気をつけてもなお暗く、陰気な気配が渦巻いている。食卓にぽつんと置かれたままのポケットラジオが禍々しく思えて仕方なかった。とてもこんな所には住んでいられない。

 すぐに部屋を出て、不動産屋に電話をかけた。今すぐ引っ越したい旨を伝えると、「はい、分かりました」の一言で了承された。とくに理由を聞かれることもなく、解約に際しての費用も一切請求されなかった。

 逃げるように引っ越しをする中、ポケットラジオをどうするかだけが問題だった。いっそ捨ててしまいたかったが、そんなことをすれば今度こそ取り返しのつかないことになりそうで恐ろしい。かといって、新居に持っていくなんて論外だ。散々悩んだ挙げ句、クローゼットの中に置いてきた。


 あのポケットラジオが、その後どうなったのかは分からない。

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