EX. 在りし日の夢Ⅲ
……夢を見た。
◇
『傷は痛むか?』
『いいえ。大丈夫です』
誰だろう。
懐かしい声が聞こえる。
『まさかバトラックスの兵隊がここまで侵攻していたなんて……』
『あなた、もう町へ戻りましょう。やっぱり私達だけで国境越えなんて無理だったのです』
『ダメだ。このままブレスタムに留まっていれば、きみの命が危ない。次に捕まれば、目を焼かれるだけでは済まないぞ!』
『でも、この子だっていますのよ』
『この子のためにもだ。もうブレスタムにはいられない』
この子?
……誰のことかしら?
なんだか目がぼやけて、よく顔が見えない。
だけど、男の人と女の人が私のすぐ傍で話をしているのはわかる。
……あれ?
体が動かない。
それに私、抱かれてる?
『この時期は雪が深く積もっている。国境を超えるには今しかない』
『でも……』
『大丈夫だ。事前に手紙を送ってあるから、迎えが来ているはずだ』
『セントレイピアのご兄弟ですか』
『僕の父の兄弟だがな。直接会ったことはないが、彼の息子にはちょうどこの子と同じくらいの女の子がいるそうだ。向こうの生活は寂しくないさ』
男の人が私の頬を撫でた後、女の人が私の体をギュッと抱きしめた。
とても心地がいい。
なんて懐かしい匂いだろう。
間近で見る女の人は顔が白い。
いいえ、違うわ。
顔に包帯を巻いているのね。
まるで目の周りを隠すように……。
それにこの女の人の髪の毛、真っ黒に見える。
黒い髪の毛の人なんて、見たことがないわ。
『行こう。今や僕達が警戒すべきは、魔女狩りの連中だけじゃない。国境周辺で兵士に見つかれば、問答無用で殺されかねない』
『必ず三人で参りましょう。そして、セントレイピアで幸せになるのです』
『もちろんだ』
『約束ですよ、あなた』
……寒い。
私を抱く女の人も、その隣にいる男の人も、白い息を吐いている。
それに、周りには白い粉が散っているわ。
これは雪ね。
ということは、ここは雪国?
そうか。
私は赤ん坊の頃の夢を見ているのね。
なら、この二人は誰?
もしかして、私の――
◇
――気づけば、私は女の人に抱かれて暗い山道を走っていた。
すぐ傍には男の人の息づかいも感じる。
背後からは耳をつんざくような音。
これは……銃声?
『ぐあっ!』
『あなたっ!』
誰かが雪の上に倒れる音が聞こえた。
倒れたのは……男の人?
『だ、大丈夫だ。かすっただけだ』
『もう無理です。やはり戻りましょう! 追ってきているのがブレスタムの兵士さんなら、話せばきっとわかってくれます』
『ダメだ! 許可なく国境付近にいる僕らを兵隊が生かすわけない』
『でも……っ』
『それに今さら町へは戻れない。家も家族も焼かれて、その上、きみまで失ってたまるか!』
『……』
「きみも理解したはずだ。僕らには、この国に帰る場所なんてないんだ!』
『そう……でしたわね』
『だからこそセントレイピアに亡命して、新しい人生を歩むんだ!!』
あらためて銃声が響き渡った。
その音は、さっきより近づいてきている気がする。
『やつらが来る。僕が時間を稼ぐから、きみはこのまま山を下りるんだ。川岸に出たら、川に沿って南へ向かえば町がある!』
『そんな……無理です、嫌ですっ』
『立て、この子のためにも! 今が正念場なんだ!!』
『……あなたも一緒に来てくれるのですよね?』
『必ず後から追いかける。約束する』
話を終えると、二人は顔を近づけて……しばらくして離した。
その後すぐ、男の人は銃声の聞こえる方へと走っていってしまった。
『約束ですよ、あなた』
そう独り言ちると、女の人はふらふらと歩き始める。
杖を片手に、私を抱きしめながら。
◇
あれからどれだけ歩いただろう。
暗かった空が、白んできたのが見える。
……体が冷たい。
それ以上に、私を抱えている女の人の疲労が酷い。
『はぁっ、はぁっ……』
さっきから私の耳に聞こえてくるのは、川のせせらぎかしら。
ずっと女の人に抱かれていたから、私には彼女の顔と空しか見えない。
『もう少しだからね。もう少しだけ我慢してね』
女の人は、数歩歩くごとに私を気遣う言葉を口にしてくれる。
『ああ、見て。町だわっ』
ぼんやりとしか見えないけど、女の人は笑っているように見えた。
でも、酷く憔悴しているようにも見えた。
『あなた。この子と私は、一足先にセントレイピアの町へ到着しましたわ。早く、あなたも、こちらに……』
空が急に明るくなった。
この明かり……町の中に入ったのね。
『お、おい。あんた、傷だらけじゃないか!』
『……』
『もしかして盲目か? しかも抱いてるのは……赤ん坊じゃないか!?』
『……』
『大変だっ……! 誰か! すぐに修道女を呼んでくれっ』
近づいてきた男性の声が、慌てた様子で離れていく。
その一方で、ゆっくりと歩き続けていた女の人の足がピタリと止まり――
『この町にト―――イ――爵様がお越しに……この子と私とあなたとで……幸せに……暮ら……』
――か細い声で誰かの名前を呼んだ後、私の視界は天地逆さまになった。
大変。女の人が転んだんだわ!
……息苦しい。
どうやら今の私はうつ伏せになっているみたい。
体が動かないし、誰か仰向けに戻して!
「安心なさい。直に助けがきます」
……え?
今の、誰?
『こっちです、修道女!』
さっきの男性の声が聞こえてきた。
修道女?
修道院の人を連れてきてくれたの?
『ああっ! 倒れちまってるっ』
『……まぁ。この女性? 赤ん坊までいるじゃないの』
『へい。どこからやってきたんだか……』
『黒い髪なんて珍しいですわね』
私は修道女と呼ばれた女性に抱き上げられた。
……視界はぼやけているけど、この顔には見覚えがある気がする。
『この子は大丈夫だわ。そちらのご婦人は?』
『……もうダメなようです』
『そう』
もうダメ?
もうダメってどういうこと?
『神父様を呼んできます』
『その前に指輪など金品を外しておきなさい』
『えっ。しかし、それは死者への冒涜では……』
『修道院の経営にはお金がかかるの。それに親がそうなってしまっては、この子もウチで引き取ることになるのよ』
『わ、わかりました……』
そうだ。
この声、思い出したわ。
私がよく知る、あの町の憎たらしい修道女!
『あら? この子に巻いてある布に何か書かれているわね』
『その赤ん坊の名前ですかね』
『ダイ……ア……ナ……ダイアナ』
『女の子っぽい名前ですね』
『たしか、よその国の神話に伝わる女神の名だわ。なんて贅沢な名前でしょう!』
ダイアナって、女神様の名前だったのね。
初めて知ったわ。
と言うか、思い出し――
「そろそろよろしいかしら」
――って、またさっきの声!
誰なの?
他にも修道女がこの場に?
「いいえ。わらわは修道女ではありません」
……ん?
ちょっと待って。
この人、誰に話しているのかしら。
「ようやく会えましたね」
あなたも私の夢の中の人?
でも、赤ん坊の私に話しかけてくるなんて変な人ね。
「違います。わらわは、あなたに話しかけているのです。ダイアナ・ジェンドゥ」
えっ。どういうこと?
ここは私の夢の中のはずなのに……。
「今のわらわの力では、夢の中でしかあなたと話すことができないのです」
そうなのですか。
えぇと、私、さっきから空ばっかり見ていて、あなたと顔を合わせてお話できないのですが……。
どちら様でしょうか?
「時間がありません。自己紹介は別の機会にしましょう」
そんなぁ……。
「お聞きなさい、ダイアナ・ジェンドゥ。いよいよ〈聖声の儀〉が執り行われます。しかし、儀式を邪魔しようと企んでいる者がいます」
だ、誰がそんな大それたことを!?
「今回の儀式は、過去のそれとは違います。どんなことがあっても、必ずや執り行わねばなりません。ザターナを助け、彼女に〈聖声〉を果たさせなさい」
誰だか存じませんが、ご心配ありがとうございます。
でも大丈夫ですよ。
当日、ザターナ様には親衛隊のみんながついてくれますもの。
「いいえ。それだけでは足りません。真の意味でザターナの助けになるのは、あなたなのですから」
はぁ……。
そう言われましても、旦那様と親衛隊のみんなが話し合ってお決めになったことでして。
それに、私の使命も終わったわけですし……。
「使命が終わったなどと……。それは誤りですよ、ダイアナ・ジェンドゥ」
どういうことですか?
「むしろ、あなたは今日の〈聖声の儀〉のために――」
あら、声が……。
もしもし?
もしも~し?
「……時が来ました。わらわの声も直に途絶えましょう」
ちょ、ちょっと待ってください!
あなたは一体どちら様だったのですか?
「ダイアナ・ジェンドゥ。あなたの家族は、すでに夢の中にはいない。あなたの手で守るのです。新しい家族を……愛する者達を」
待って!
あなたは誰!?
「わらわは――」
……。
……もう声は聞こえない。
代わりに、赤い輝きが私の視界に広がっていって――
◇
「――ナ!」
「……」
「――アナ!」
「……ぅ」
「ダイアナ!!」
「はっ」
ハッとした時、私の目の前には――
「もう夜が明けたぞ。起きなさい」
――旦那様の姿があった。
「お、おはようございます……」
「……」
「あの……何か?」
「思えばおまえの寝顔は初めて見たな。……ザターナにそっくりだ」
「そ、そうでしょう。だって替え玉を務めたくらいですもの」
「だが、椅子で寝るのはよくないな。今後気をつけなさい」
「へ!?」
旦那様は私の頭を撫でた後、お部屋から出て行ってしまった。
……私が今いるのは、聖都の東端にある医療院。
国境から戻ってきて早々、ザターナ様を担ぎこんだのがここだった。
あれから三日三晩、高熱にうなされるザターナ様の看病を続けて、昨晩になってようやく熱も下がって落ち着いたところ。
私、いつの間にか椅子に寄り掛かったまま寝てしまったのね。
「ザターナ様……」
ベッドに顔を向けると、穏やかな寝息を立てながらザターナ様が横たわっている。
大事なくて本当によかったわ。
「それにしても、変な夢だったなぁ」
私は夢の内容をおぼろげだけど覚えている。
赤ん坊の頃の私。
私を守っていた、懐かしく感じられる二人の男女。
そして、私の知らない誰かの声。
……あの声はなんだったのかしら?
「……重いっ」
目が覚めてから、ずっと肩が重い。
何かと思えば――
「やっぱりカーバンクルちゃん!」
――白いまん丸のもふもふが、私の肩にどっしりと乗っかっていた。
この子、私が寝ている間ずっと肩に乗っていたのね。
その時。
カーバンクルちゃんの額の石が、窓から注ぐ太陽光に反射してキラリと光った。
この赤い輝き……夢の中でも見たような。
「クルルゥ」
突然、丸いもふもふが寝返りを打った。
肩から落ちそうになった彼を、私はすんでのところで抱きかかえる。
……この子ったら、危うく床に落ちそうだったのに、気持ちよさそうに寝入っているわ。
「困ったちゃんね、まったく。手のかかる弟ってこんな感じなのかしら」
……弟。
私は不意に口走った言葉に、なんだか気恥ずかしくなってしまった。
「家族、か……。私にも家族ができたのかな?」
旦那様が私を娘と呼んでくれた。
と言うことは、私はザターナ様の妹になるのかな。
それとも、お姉さんはヴァナディスさんかな。
……どちらもいいな。
「家族で一緒に、平和に暮らしていけたら、それ以上の幸せはないよね」
私の替え玉聖女生活100日目。
本日正午より〈聖声の儀〉が始まる。