75. 私は、ダイアナ
国境砦は驚くほど静かになった。
ヘイムダル将軍もスキルニルさんも、後ろ手に縛られて拘束。
砦の外では、ピクリとも動かなくなったラグナレク。
そして、トールくんは……。
「よもやこんな結果になろうとは……。わしの負けじゃ、殺せ。勝者にこそ、敗者の命を握る権利がある」
私はチラリとルーク様のお顔を覗いた。
彼は私に笑いかけると、炎の消えた剣を鞘へと納める。
「私が殺生を望むとお思いですか?」
「……いいや。ならば、他に何を望むんじゃ」
こんな時、なんて言うべきか。
私は聖女様ならどうするかを考え、そして自然と口から言葉が出ていた。
「次の百年。戦うのは止めて、平穏の中に生きてはいかがでしょう」
「わしから戦いを奪うと言うのか?」
「奪うのではありません。百年だけ剣を手離してみるのです」
「そんな退屈な人生に、わしは耐えられるかのう」
「死んで生まれ変わったと思えば、できなくもないのでは?」
「戦うことしか知らぬ男じゃぞ」
「畑を耕す。羊を飼う。パンを焼く。他にも、世の中にはたくさんのお仕事があります。きっとトールくんにぴったりのお仕事が見つかりますよ」
「それもいいかもしれんな……」
トールくんは仰向けに青い空を見上げている。
彼の顔は晴れ晴れとしていた。
「戦うばかりの脳筋め。少しは子供らしい生き方をしろってんだっ」
「コ、コニー婆!?」
フラメール様が割り込んできて、トールくんの体に何か液体を振りかけた。
直後、彼が悲鳴を上げて体を強張らせる。
「あががっ! あ、熱いっ」
「特性ポーションをぶっかけてやったのさ。おまえの生命力なら、刃傷も火傷もすぐに治癒するじゃろう」
「ぐぐぐっ。決闘で負けた傷心の息子に、もう少し優しくできんもんかのう!?」
「息子ぉ? 勝手に出てってそれっきりだった恩知らずが、よく言うよ!」
フラメール様がトールくんにまたポーションを垂らした。
……よっぽど傷に染みるのかしら。
不死身の体を持つはずの彼が、痛そうにもがいているわ。
「こっちも終わったみたいだな」
アトレイユ様が、国境砦の壁を登ってきた。
お顔には痣、全身すり傷だらけで、服もボロボロだわ。
「アトレイユ様、よくぞご無事で」
「カーバンクルのお守りくらい無事にやり遂げないとね」
「ラグナレクは……」
「死んだよ。もうあれは動かない」
私があらためて砦の外を眺めようとすると、カーバンクルちゃんが空をはばたいて戻ってきた。
その巨体が床に降り立った時、風圧で周囲の瓦礫が押しやられる。
「か、カーバンクルちゃん! 元に戻ってっ」
「グルルゥ」
私がお願いした直後、白いドラゴンの体が光り始めた。
ポンッと通常形態に戻ると、彼は私の胸に飛び込んできた。
「クルルッ」
「やっぱりこっちの方が私はいいな」
私は胸の中のカーバンクルちゃんをギュッと抱きしめた。
「しかし、立ってる連中も倒れてる連中も怪我だらけだね。持ってきたポーションだけじゃとても足りないよ。すぐに近くの町へ――」
「その必要はないわ」
フラメール様の言葉を遮ったのはザターナ様だった。
彼女は右手を上げるや、目をつむり――
「我は願う。苦痛は去り、安息が訪れんことを」
――その言葉の後に、優しい光がその場を包んだ。
親衛隊やトールくん、そして倒れて気を失っている人達の傷が、見る見るうちに癒えていく。
聖女の奇跡のひとつ――〈聖養〉だわ。
「……ふうっ」
「こりゃすごいね。ポーションいらずだよ」
「気絶している人達も直に目を覚ますわ」
「あんたが本物の聖女ザターナ……なんだね」
フラメール様が驚きの眼でザターナ様を見据えている。
それは、親衛隊の殿方達も同じだった。
「実は、わしらは国境砦に来る前にルークから聞いていたんじゃ。おまえさんは本物の聖女ではない、とな」
「フラメール様……」
「おまえさんの口から真実を話してもらえんかのう?」
私はふと、ザターナ様が震えていることに気がついた。
疑惑の目にさらされることへの緊張?
聖女の責任を追及されることへの恐怖?
それとも……。
沈痛な面持ちでうつむいているザターナ様を見て、私は思った。
……すべてを話す時がきたんだわ。
私は覚悟を決めて、旦那様へと向き直る。
「旦那様。もう……よろしいですね?」
「……そうだ、な」
旦那様からご了承を得たわ。
これで、私もザターナ様も……心が楽になる。
「聞いてください、皆さん――」
言いながら、私はザターナ様の手を握った。
「――私は聖女ではありません」
……ここから先を言葉にするのは、かなり勇気がいる。
けど、私は替え玉として最後のケジメをつけなければならないの。
だから……がんばる。
「この三ヵ月間、ザターナ様の替え玉として皆さんをずっと……騙していました。ごめんなさい」
とうとう言ってしまった。
私を信頼して、ずっとついてきてくれた親衛隊の前で。
「いつから替え玉になっていたんだい?」
「三ヵ月前からですわ、アトレイユ様。ザターナ様がその頃に行方知れずになられて、私は顔や背丈が似ていることから聖女として振る舞ってきたのです」
「そちらの女性が本物のザターナ嬢ですね。一体どのような経緯でここに?」
「ハリー様、すべてはバトラックスと聖女の因縁を断つためだったのです。ザターナ様はバトラックスへ潜入して、この国を改革なされようとしていました」
「その結果、内部で敵を作ってこの様ってわけか。聖女も万能じゃないんだな」
「アスラン様のおっしゃる通り。将軍の反乱を招いたのはそれが原因ですが、それも今、解決しましたわ」
アルウェン様が、親衛隊の輪から出て口を開いた。
「ひとつ口を挟ませてください。替え玉だったとは言え、彼女には一片の悪意もなく、その言動はすべてが善意。共に過ごしてきた皆さんなら、おわかりでしょう」
「成り代わりのことを知っていたのか、アルウェン」
「黙っていて申し訳ありません、ルーク様。聖女が失踪したとなればセントレイピアは混乱し、国際情勢も危うくなる。それを危惧しての決断だったのです」
「……そうか。そうだろうな」
次いで、私とザターナ様をかばうようにして旦那様が割り込んでくる。
「すべての責は私にある。ダイアナは私の命令で聖女に成り代わっただけだし、娘に至っては、抱え続けた悩みを私が理解してやれなかったせいで家を出ざる得なかったのだ」
「トバルカイン子爵。あなたの決断は正しかったと思います」
「だが、ルーク。そして、アトレイユ、ハリー、アスラン。きみ達にはこのことを訴え、糾弾する資格がある。あるいは義務とも言えるだろう」
「たしかに、聖女が偽物だったという事実はあまりに重い。しかし――」
ルーク様が、アトレイユ様達に向き直って続ける。
「――俺達が守ってきた女性は偽物だったか?」
「偽物も本物ないさ。命を賭して守る意義のある女性だった……それだけのこと」
「ですね。僕は……僕らは、あなたの心に本物の聖女を見たのです。だから、みんな揃ってここまでついてきた」
「はん。ドジだから放っておけないんだよ、おまえは!」
アトレイユ様、ハリー様、アスラン様。
お三方の言葉に、私は目頭が熱くなった。
「だからこそ知りたい。素顔のきみの本当の名を」
「ルーク様……」
私がザターナ様ではないことを知られたら。
……親衛隊はどう思うのだろうとずっと悩んでいた。
失望?
非難?
軽蔑?
……怖かった。
親衛隊からそんな感情を向けられるなんて、怖くて仕方がなかった。
でも、私は間違っていた。
だって、彼らは聖女ではなく、この私を見ていてくれたのだから。
「私の名前は、ダイアナ。ダイアナ・ジェンドゥと申します」
「ダイアナ。それがきみの名か」
「はい。以後、お見知りおきを!」
「ダイアナ――」
ルーク様が私の名を呼びながら、唐突に両肩を掴んできた。
「――きみを愛している。結婚してくれ」
「はひ?」
一瞬、その場の空気が固まった。
「ダイアナ。答えを聞かせてくれないか」
「え、ちょ、えぇっ!?」
まさかの告白を受けて、私は頭が混乱した。
いきなり話が飛躍しすぎて、思考が追いつかない。
愛!?
結婚!?
どういうこと……!?
「おいおいおいおい!」
「ちょっとちょっとちょっと!」
アトレイユ様とハリー様が、私からルーク様を引き剥がした。
「おまえこらどういうつもりだ!?」
「抜け駆けはダメだって言ったでしょう!?」
「ルーク様、ちょっと今のは紳士としてどうなのですか!」
「おい、ルール先輩! よくも親衛隊の協定を破ったな!!」
アルウェン様とアスラン様まで、ルーク様に突っかかっていく。
五人揃って、口論を始めてしまったわ。
「ぷぷっ」
その時――
「あははははははっ」
――ずっと黙り込んでいたザターナ様が笑った。
「ダイアナ、あんたの親衛隊は面白い人達ね!」
「ザターナ様……」
「こんな殿方達に愛されるなんて、あたしなんかよりずっと立派な聖女だよ」
「そ、そんなことありませんっ」
私が否定するや、ザターナ様はギュッと私の体を抱きしめた。
「ありがとう、ダイアナ。聖女の誇りを守ってくれて」
「ザターナ様――」
私もまた彼女を抱きしめて、ずっと言いたかったことを口にした。
「――お願いします。どうかセントレイピアへお戻りください」
「……悪いけど、それはできないわ」
「旦那様も、ヴァナディスさんも、みんなあなたの帰りを待っています!」
「ごめんね。あたしは聖女の誇りを裏切ってしまったから」
「誇りを裏切った……?」
「あたしは奇跡を復讐の道具に使った。バトラックスの人間を操り、あまつさえ国の政治にまで介入した。前総統の病状を悪化させたのだって、あたしなの――」
ザターナ様は私を突き放して、ふらりと後ずさった。
「――正しき道を踏み外したあたしが、セントレイピアで再び聖女を名乗るわけにはいかない」
彼女の言葉は重い。
それは、彼女が聖女の誇りを心から大切に思っているからだわ。
私も同じ立場なら、きっと同じことを言う。
でも、彼女が戻ってくれなければ、三日後に迫った〈聖声の儀〉は……?
「お父様。今のあたしには〈聖声の儀〉を務めることはできません。女神の声を聞く資格があるのは、ダイアナのような真っすぐな心の持ち主だけだから」
「……おまえの覚悟は重いのだな」
「恨んでいただいて構いません。育ててくれた恩を仇で返すこと、お許しください」
「おまえが今歩いている道が、未来の聖女のためになるのだな」
「はい。そして、それに近しい境遇を持つ者達の安寧に繋がると信じています」
「……わかった。ただし、たまには手紙をくれよ」
「またお会いできます。外交官様」
旦那様とザターナ様が抱き合うのを見て、私は自然と口元が緩んでしまった。
すれ違っていても、離れていても、分かり合える。
それが家族。
「ダイアナ。あんたみたいに真っすぐな子になら、女神様もうっかり話しかけてしまうかもしれないわね」
「女神様が……!?」
「〈聖声の儀〉を乗り切るコツを教えてあげる。あんたなら、きっと――」
その時、瓦礫がひっくり返る音が聞こえた。
私やザターナ様を始め、全員がそちらへと振り向くと――
「ううっ。ぐふっ」
――額から血を流しているライラが、瓦礫の下から這い出てきた。
「ライラッ!」
「あの騎士、知り合いなの?」
「はい。私を守ってきてくれた人です!」
「そう」
ザターナ様は、私と、私の腕に抱かれるカーバンクルちゃんの頭を順に撫でた後、倒れているライラへと向かって行った。
「あ……あぅ……」
「酷い傷ね。瓦礫の下にまでは、あたしの奇跡が届いていなかったのかしら」
「あ、あなたは……?」
「さぁ。今のあたしは何なのかな」
ザターナ様がライラの額へと指先を当てた。
すると、さっき見たような優しい光が輝き始める。
「……ありがとうございます。聖女ザターナ様」
「あら。あなた、話が聞こえていたの?」
額から流れているライラの傷が止まった。
その時――
「十年、あなたにお会いしとうございました」
――ライラの手がザターナ様のお腹に当たった。
「え?」
「任務……完了」
私がおかしいと思った時には。
「ザターナ様?」
彼女は、お腹から血を流して倒れていた。