39. 座して奇跡を待つよりも
アスラン様が、床を引きずられていく伯爵へと駆け寄る。
「この化け物がっ」
彼はポケットから新たに試験管を抜き取って、中に入っている無色透明の液体を糸へと浴びせかけた。
すると、煙を上げた糸がブツリと千切れた。
「それは……酸か!」
「黙ってろっ」
うつ伏せのままの伯爵を、アスラン様が部屋の中央まで引きずってくる。
「なぜ私を助けた!?」
「うるせぇ、知るかっ!!」
アスラン様と伯爵が言い合っている間、アラクネが部屋の割れ目から八つの単眼を覗かせてきた。
足を差し込んで、壁の穴を拡げようとしている。
中へ入ってくるつもりだわ!
「聖女、先生! すぐに部屋から逃げろ!」
アスラン様が叫ぶのと同時に、私は扉へと駆け寄っていた。
でも――
「あ、開かないっ!?」
――さっきの振動でお屋敷が傾いたのか、部屋が歪んだのか。
建付けが悪くなったんだわ!
「アスラン様、開きません!」
「だったら蹴り破れ!」
淑女にそんなはしたないことをさせる気!?
……なんて言ってる余裕はないわね!
私はスカートをたくし上げて、思いきり扉を蹴りつけた。
……足が痛いだけで、ビクともしないわ。
「アスラン様、開きません!」
「くそっ。閉じ込められたってことかよ!」
「アラクネが中に入ってこようとしています!」
「見りゃわかるよ!」
「何か手はありませんか!?」
「あーっ! キャンキャンわめくなっ!!」
頭を部屋の中に押し込んできたアラクネが、その口を開けた。
また糸を吐き出すつもりね!
「先に頭を吹っ飛ばしてやる!」
アスラン様が、紫色の液体が入った試験管をアラクネの口の中へと投げ入れた。
続いて、白い液体の入ったガラス容器を手に取る。
それを見て、私は察することができた。
ポーションは調合をミスれば爆発物に早変わりする。
それをアラクネの口の中でお見舞いする気ね。
でも、その時――
「うわっ」
――お屋敷をひと際強い振動が襲った。
そのせいで、アスラン様はガラス容器を取り落としてしまう。
容器を拾おうと屈んだところで、アラクネの吐き出した糸が彼の足へと絡みついた。
「ちょちょ、ちょっと待った!!」
アスラン様が危ない!
私が駆けだそうとした時、足元にガラス容器が転がってきた。
……イチかバチか、私がやるしかない。
「アスラン様、お覚悟を!」
「な、何のっ!?」
私はガラス容器を拾い上げるや、大きく振りかぶって――
「おおっ!? 馬鹿、や、やめろぉー!!」
――アラクネの口へ向かって投げ飛ばした。
会心の投擲!
私の投げたガラス容器は――
「ぐはっ」
――アスラン様の頭にぶつかって、アラクネの口の中へと入った。
直後、アラクネの頭が爆発。
その爆風は、アスラン様と伯爵を私の方に吹き飛ばした。
「……あらまぁ」
煙が消え去った後、私の目に映ったのは頭部が綺麗に吹き飛んだアラクネ。
それはグラリと傾くと、壁から離れて庭へと落ちて行った。
後に残ったのは、焦げ臭いにおいと、聖都の街並みが一望できる大きな穴。
「聖女っ! 僕を殺す気か!?」
「そ、そんなまさか! と言うか、アスラン様の頭がなければ危機を脱せなかったに違いありませんわ、ありがとうっ」
「危うく黒焦げになるところだ!」
「化け物に食い殺されるよりマシなのでしょう!?」
言い争う私達を、フラメール様が止めに入る。
「即席ポーション爆弾、か。思いがけない武器となったのう」
そこへ、また別のアラクネが壁をよじ登ってきた。
……いけない!
さっきよりずっと大きな穴が開いているから、部屋に入ってこられてしまうわ!
「くそっ。……詰みだな」
「何を言っているのです、アスラン様!? もう一発、今のを!」
「無駄だ。一匹二匹吹っ飛ばしたところで助かりゃしない。兵隊なんて、地の底からゾロゾロ湧いてくるんだぞ」
「だからって、もう諦めてしまうのですか!?」
「諦めたくなくても、どうにもならないことだってあるんだよっ!!」
アスラン様の今の言葉。
まるでご自分のことを言っているように聞こえる。
……そう思うと、なおさら彼の発言を聞いて黙ってはいられない。
「諦めなければなんとかなりますっ」
「なるかよっ! 奇跡でも起きない限り、もうこの国はお終いだ。あんな化け物に食い殺されるくらいなら、いっそのこと……!」
言いながら、アスラン様がもう一組の試験管とガラス容器を手に取る。
「ダメです!」
私はすぐさま、彼からふたつの容器をひったくった。
ギョッとしている彼に向かって――
「誰かが諦めるたび、一歩、破滅に近づきます! 座して奇跡を待つと言うなら、私が起こして差し上げますわっ!!」
――心の丈を叫んだ後、私はアラクネに向かって走った。
「受け取りなさいっ! 私からのポーション爆だだだぁっ!!」
……言い終える前に、つまづいちゃった。
このまま迫りくるアラクネに、私は頭をかじられて――
「馬鹿か、聖女っ!」
――しまうことはなかった。
倒れる寸前、私の体はアスラン様の腕に抱きかかえられていた。
「あんな啖呵切っといて、なんて様だよ。だっせぇなぁ」
「め、面目ありません……」
この期に及んで、恥ずかしがる私……。
その一方で、アラクネは部屋に踏み込んできて、床に転がる試験管を踏み砕いてしまった。
……血の気が引いた。
希望が割れたああぁぁっ!
ごめんなさい、私のせいでお終いだわあぁぁぁっ!!
「でも、もっとダサかったのは僕だよな」
「え?」
私がアスラン様を見上げようとした時。
彼は、拾い上げたガラス容器の口を指先で塞ぎながら、アラクネに振りかける素振りを見せた。
……いいえ。
わずかに一滴分の白い液体を、アラクネへと飛ばしたんだわ。
ポチャン、という小さな音が聞こえた直後。
アラクネの足元から、凄まじい勢いで炎と噴煙が起こった。
それはちょうど穴の開いた壁を覆うようにして噴き上がっていて、さながら炎の壁のように見える。
アラクネはお腹を炎に焼かれて、ひっくり返りながら庭へと落ちて行った。
「アラクネの割った試験管からこぼれたポーション液が、偶然にも部屋の縁伝いに穴の前を流れてくれたんだ」
「奇跡……起きましたね」
私が両足を床につけるや、アスラン様が背中を向けてしまった。
急にどうしたのかしら?
「少しはやるじゃないか、聖女。そこそこ見直したよ」
「そういうことは、お顔を向けて言ってくださいます?」
「おまえ、なんでそんなに前向きなの?」
「えぇ……? そんなの、性分としか言いようがありませんけど」
「おまえの傍にいるの……退屈しなさそうだな」
「はぁ。そうでしょうか」
「フハハ」
ハリー様が肩を揺らし始めた。
……この方の考えてることは、やっぱりよくわからないわね。
「顔が赤いぞ、倅殿」
「う、うるせぇ、ババアッ!」
不意をつくようなフラメール様の突っ込み。
アスラン様が彼女に食ってかかろうとした時――
「ぐう……うううぅぅ~~~っ」
――伯爵が声を上げて泣きだしてしまった。
あまりに突然のことで、私だけでなくアスラン様も唖然としている。
「……今のおぬしらのやり取り、ペベンシィとその奥方の若い頃にそっくりじゃ。ちなみに、最後のわしの突っ込みも当時と同じ――」
フラメール様が、泣き崩れる伯爵の肩を叩く。
「――いかに見まいとしても、目を背けられぬものもある」
「……」
「血は争えぬということじゃ」
「フラメール……先生……私はっ」
「過ぎたことはよい。大事なのはこれからじゃ。のう、聖女様?」
フラメール様が私に向き直って、ウインクした。
そのお顔は、どことなく嬉しそう。
「もちろんです!」
その時、廊下から扉を叩く音がし始めた。
扉を破って廊下から入ってきたのは、大きな金づちを抱えたスーザンさん。
「無事でよかった! 騎士団が救助に来てくれています、すぐに避難をっ」
私達が廊下に出る中、伯爵は部屋から出てこない。
彼は何を思ったか、クローゼットを押し退けようとしている。
「伯爵、一体何をなさって!?」
「再生液を欲しがっていただろう。この裏の倉庫に……隠してあるのだっ」
なんてこと……!
アルウェン様の予想通り、本当に再生液を残していたなんて。
「なるほど。道理で部屋が綺麗な……わけだぜっ!」
伯爵の後ろから、アスラン様も一緒になってクローゼットを押し始めた。
火が回り始める中、あえて私は二人を手伝うことなく見守った。
この親子の共同作業を、邪魔したくなかったから。
◇
街路を走る馬車の中、私は大きな瓶を抱きかかえていた。
瓶には、カーバンクルちゃんが薄緑色の再生液にどっぷりと浸かっている。
「これ、本当に大丈夫ですか? 苦しくない?」
「心配ない。再生液に浸しておいた方が痛みも和らぐ」
……う~ん。やっぱり心配。
だけど、穏やかな顔で寝ているから良しとしましょう。
「伯爵と一緒に行かなくて良かったのですか、アスラン様」
「はん。俺はとっくに自立してるんだ。今さら親父と元の鞘に収まったところで、別になんとも思わないね!」
「お父様もお一人では寂しいでしょうに」
「……まぁ、たまには帰ってやるさ」
お顔を見る限り、アスラン様はまんざらでもないみたい。
「ザターナ嬢、フラメール様、アスラン様! もうすぐ遺構に到着します」
御者台から、アルウェン様の声が聞こえてきた。
窓から外を覗くと、セントレイピアのお城と広い庭園が見えている。
旧時代の遺構は、庭園の奥に建っていると聞いたけど……。
「庭園では、宮廷兵とアラクネの戦闘が続いておるようじゃな」
「ルーク様達は無事かしら」
いよいよ私達の馬車が中庭へと乗り上げた。
アルウェン様はの巧みな操作で、馬車は宮廷兵やアラクネを躱していく。
そして、真正面に古びた聖堂のような建物を捉えた時。
「ルーク様達だわ!」
三剣の貴公子が、中庭でアラクネと戦っている。
彼らは三人とも、私達の存在に気づいているみたい。
「アルウェン様、馬車を止めることは?」
「無理です! アラクネに囲まれてしまうっ」
「なら――」
私は窓を開けて、大声で叫んだ。
「――ルーク様、アトレイユ様、ハリー様! 遺構まで突っ切るから、馬車に飛び乗ってぇーーーっ!!」
私の声が届いたのか、お三方の顔色が変わるのが見えた。
みんなギョッとしているわね。
「ザターナ嬢。い、いくらなんでもそれは……」
「フハハ! 本当に退屈しないなぁ聖女は!」
「まったく無茶させよる!」
私は祈る代わりに、瓶詰めのカーバンクルちゃんをギュッと抱きしめた。
彼らなら、きっとやってくれるわ。
……そして、馬車が彼らの間を通り過ぎた時。
ドドン、と客車が揺れ動いた。
左右の窓には――
「無茶は無茶でも、これは無茶苦茶だぞザターナッ」
「ですね。下手したら死にますよ!?」
「そこがザターナ嬢の魅力なんだって!」
――無事、車体に張りつく三剣の貴公子の姿があった。
「はん! まだまだ無茶は続くようだぜ」
アスラン様が言うので、馬車の前方に目を向けてみるとびっくり。
遺構の入り口を守るようにして、アラクネが集まっていた。
「突破は無理です! いったん回避して――」
「いいや! このまま進めアルウェン!」
「無茶過ぎますよ、アスラン様っ」
「残りのポーション爆弾を放るから、風の魔法であいつらにぶち込んでやれ!」
「ええっ!?」
「座して奇跡を待つよりも、進んで起こせだ! だろう、聖女!?」
アスラン様のノリもずいぶん変わったわね。
彼の中で、何かが吹っ切れたということなのかも。
「その通りです! 突撃ぃーーーっ!!」
私の指揮に覚悟を決めたのか、アルウェン様が前のめりに手綱を握った。
間もなく、彼の口から魔法の詠唱が聞こえ始める。
「今ですっ!」
「フハハ! 食らえ蟲どもぉーーーっ!!」
アスラン様の手から何組ものガラス容器が宙へとばら撒かれた。
直後、後ろから吹く突風に運ばれて、正面に固まるアラクネ達へと飛んでいく。
「通してもらうわっ!!」
刹那の閃光。
遺構の入り口に集まるアラクネ達を、大爆発が飲み込んだ。
地面を転がるもの、宙へ舞い上がるもの、バラバラにはじけ飛んだもの。
私達の馬車は、それらを砂煙と共に躱していく。
全員揃ってからこっち、私たちは誰一人欠けずに遺構へと突入した。