幕間Ⅲ~リンデルバルド伯爵家のハリー~
リンデルバルド家の書斎にて――
「コリアンダの屋敷が火事に遭ったって?」
――机上の地図を眺めながら、ハリーが執事の回答を待つ。
「放火のようです」
「どうなったんだ?」
「半焼で済んだとのことです。大怪我を負った者もいないそうで」
「それは良かった。……いや、良かったのか?」
「その際、アトレイユ様とバスチアン坊ちゃまが行方知れずになったとか」
「えぇ!? ぜんぜん良くないじゃないかっ」
ハリーは声を荒げるも、すぐに平静を装う。
「……で、どうなったんだ?」
「情報が錯綜しておりますが、聖女様がソーン伯爵とダミアン様の悪行を暴き、お二人に拉致されていたコリアンダのご兄弟を救い出したとか」
「アトレイユさんらしからぬ失態だね。それにしても、ダミアンさんはやっぱり裏でろくでもないことしてたんだ。父親が父親だから、そんな気はしてたけど」
「しかし、聖女様はお変わりになられましたな」
「何が?」
「以前は、積極的に人様のために働くような方ではなかったと記憶しております。王女殿下の件といい、ソーン伯爵の件といい、何か心境の変化でもあったのでしょうかな」
「さてね。女性の心変わりは珍しいことじゃないよ」
「おっしゃる通りですな」
ハリーは机に頬杖を突きながら、今聞いた話に想いを巡らす。
「……いけないな」
「はい?」
「少し前にはルークさんが。そして今回はアトレイユさんが。どうも僕は、あの二人に後れを取っているみたいだ。しかも、王国騎士団の若きエースまでライバルに加わってしまった」
「若者の青春は難儀なものですなぁ」
「酸いも甘いも知り尽くしてる爺が言うと、説得力が違うね」
執事を一瞥した後、ハリーは机上の地図へと向き直った。
彼が視線を落としているのは、セントレイピア南の国境線付近。
「でもまぁ、焦るにはまだ早いか。ちょうどこれからが楽しい時期だしね」
「もしやオアシスへお招きするのですか? 聖女様にはいささか刺激が強い場所だと思いますが……」
「刺激は大切だよ。ましてや彼女のようなお堅い立場の人間には、ね」
ハリーに対して、執事は悩ましい眼差しを向ける。
それはリンデルバルドの跡取りを心配してのことだったが、長年そばに仕えてきた彼には何を言っても無駄だとわかっていた。
「ルビウス、僕は本気だよ。最初こそ、聖女という権威に惹かれただけだったけど、今は違う。ダンスを共に踊ったあの日から、僕は彼女に夢中なんだ」
「左様で」
ハリーは執事に振り返るや、満面の笑みで続ける。
「僕は、僕が真に守るべき女性を見つけた。今までは、それが誰なのかずっとわからなかった。でも、今は確信がある」
「そこまでの想いとは……。爺は坊ちゃまのお心を読み違えておりました。ご容赦ください」
「聖女親衛隊への打診も忘れるな。さぁ、これから忙しくなるぞ」
ルビウスが書斎から去った後、ハリーは壁際のクローゼットを動かした。
その裏から出てきたのは、隠し祭壇だった。
祭壇には銀の皿が並べられており、その上には――
ひび割れた香油壺。
乾いた血痕が残る折れた槍の穂先。
人の顔が焼きついたような痕がある古い布。
さらに、古めかしい写本が数冊。
――といった物が置かれていた。
祭壇にかしずいたハリーは、それらをうっとりした瞳で見つめている。
「やっぱりザターナ嬢は真の聖女だった。使命に目覚められた今、僕が誰よりもお傍で彼女をお守りしなければならない。誰よりも……お傍で……!」
その時、書斎には百合の香りが漂っていた。