84. 光に抱かれて
「諦めてお縄につきなさい、グリーンドラゴン。いいえ、フレイヤ!」
ざわつき始めた屋上に、ザターナ様の声が響く。
今のザターナ様のお言葉には、〈聖圧〉の奇跡はこもっていなかった。
でも、ヴァナディスさんは立ち尽くしたまま動こうとしない。
もう戦意を失ってくれたのかしら。
「聖女様! これは一体何事なのです!?」
エノク主教様が、慌てた様子でザターナ様に問いただしてきた。
この祭事の責任者ですし、焦る気持ちもわかります……。
「〈聖声の儀〉はずっと中断している状態です! すぐに女神様のお言葉を――」
「黙ってて! 今、重要なところなのっ」
エノク主教様の言葉を遮って、ザターナ様が声を荒げた。
みんなの生死がかかっている状況ですし、怒る気持ちもわかります……。
「ふふっ……ふふふふっ」
「何がおかしいの、フレイヤ」
「たしかに、こんな状況では私の計画を成就させるのは不可能ですね」
「そうよ。だから、あんたには自分の意思で投降してほしいの」
「なぜ? 都合のいい〈聖圧〉で私を従わせればいい。それとも、バトラックスの軍部連中のように洗脳して支配下に置きますか?」
「……」
ザターナ様が押し黙ってしまった。
まるで苦虫を噛み潰したような顔で、ヴァナディスさんを見つめたまま。
奇跡で行動を強制できないお気持ち、私にはわかる。
ザターナ様にとっても、ヴァナディスさんは子供の頃から傍にいるお姉さんのような存在だもの。
無理やり聖女の力で操りたくはないわよね……。
「諦めます――」
言ったそばから、ヴァナディスさんは小刀を投げ捨てる。
でも、その顔に諦めの色なんて表れていなかった。
「――当初の計画は」
彼女は唐突にスカートをたくし上げた。
何事かと思えば、なんとスカートの下に長剣を隠しているじゃない。
「プランB! 聖女を含めたこの場の全員、皆殺しだ!!」
大声で宣言した後、彼女は剣を水平に構えて床を蹴る。
目にも止まらぬ速さでザターナ様へと斬りかかろうとして――
「させるかっ」
――間に入ったアルウェン様と、火花が散るほどの鍔迫り合いを始めた。
「アルウェン。あなたから死にたいのね?」
「申し訳ない。死ぬなら、愛する人を看取った後と決めているので!」
ヴァナディスさんとアルウェン様が剣戟を始めた。
私の目には、両者の間にキラキラと光が走っているようにしか見えない。
でも、終始アルウェン様が押されているのは素人目にも明らか。
その時、ザターナ様が動いた。
「……ここまでね。残念だけど」
「待ってください、ザターナ様っ」
「何よダイアナ!? どきなさい、このままじゃアルウェンが」
「私がヴァナディスさんを説得してみせますっ」
「無茶よ。あいつはグリーンドラゴン――フレイヤなの。あたし達が知っているヴァナディスじゃないの」
「いいえ。あそこにいるのは、間違いなくヴァナディスさんです!」
「ダイアナ、あんた……」
私は視界を滲ませながら、ザターナ様に精一杯訴えた。
ヴァナディスさんは冷酷非情な殺し屋なんかじゃない。
ザターナ様や私を、困惑しながらもずっと見守り続けてくれたお姉さんなの。
あなたなら、それをわかってくれますよね……?
「……わかったわ。好きにしなさい」
「ありがとうございます」
ザターナ様がわかってくれた。
この私に任せてくれた。
もう後には退かない。
私の言葉で、必ずヴァナディスさんを説得してみせる!
「もういい加減になさいっ! 聖堂騎士の皆さん、すぐに彼女を制圧して!!」
……せっかく覚悟を決めたところなのに、エステル様がしゃしゃり出てきた。
もうしばらく気絶していればよかったのに。
一方、上司にお尻を叩かれた聖堂騎士の皆さんは――
「うわっ」
「ぎゃっ」
「ひぃっ」
「ぐはっ」
――ヴァナディスさんに斬りかかった瞬間、即返り討ちにあってしまった。
やっぱりヴァナディスさんが強すぎるんだわ。
アルウェン様も肩で息を切らせながら、かろうじて立っている様子だし。
「邪魔が入ったわね。続けるの?」
「もちろん。あなたを止めなければ、悲しむ人達がいますから」
アルウェン様は再び剣を構えた。
でも、やっぱり空気を読まないエステル様がしゃしゃり出てくる。
「聖堂騎士ともあろう者が何て様!? さっさとその不敬者をやっつけなさい!!」
「や、やめなさいエステル! ここは親衛隊の方々に――」
「うるさいっ! どいてろジジイッ」
エノク主教様を、エステル様がビンタで一撃昏倒させてしまった。
序列が上の人を張り倒すなんて……。
彼女、暴走しているわ。
「女神様の信仰を妨げる不遜な輩は死罪よ! 聖女様を危険にさらす罰当たりな愚か者は極刑よ!! わたくしに逆らうやつは――」
「黙ってろ」
危険な本音がチラリとしたところで、彼女は床に倒れた。
アスラン様が、ポーションガンの銃身で後頭部を叩いたのだわ。
その行動、英断です。アスラン様!
「聖堂騎士は下がれ」
「俺達以外に、あの女は手に負えないぜ!」
「ですね。かと言って、女性一人に大の男が数人がかりというのも気が引けます」
ルーク様、アトレイユ様、ハリー様が、アルウェン様の横に並び立った。
みんな剣を抜いているけど、斬りかかるそぶりはない。
「男はどうも野蛮な手段に訴えてしまう。だが、ダイアナ……きみなら」
ルーク様が振り向いて、私を見つめる。
「ヴァナディスを止められるのは、ダイアナの言葉だけだ!」
アトレイユ様も同じく。
「僕達は信じますよ。ダイアナなら、きっとそれができるって」
ハリー様も。
「……はい! 私がヴァナディスさんを止めてみせます。もう誰一人、怪我ひとつさせたくないから」
私は、ヴァナディスさんに向かって足を踏み出した。
「ヴァナディスさん。私の話を聞いてください」
「この期に及んで説得?」
「争いは禍根を残すばかりです。対話で解決しましょう」
「笑わせるな。場が煮詰まった時、ポイポイ物を投げるような真似をするくせに」
「もう投げません。聖女様の武器は、言葉ひとつであるべきですから」
「私がその気になれば、おまえの首は胴から離れるよ」
「離れません。ヴァナディスさんが、そんなことするはずありませんから」
「……っ。捕まれば極刑は免れぬ中、説得に応じて何の得がある!?」
「私達のヴァナディスさんが戻ってきます」
「話にならないっ」
そんな吐き捨てるように言うなんて、酷い。
でも、へこたれないわ。
「私、ヴァナディスさんのことを本当のお姉さんのように思っています」
「近づくなっ」
「旦那様はお父さん。ザターナ様は……お姉さんかな? そこにヴァナディスさんが揃って、トバルカイン子爵家の家族です」
「馬鹿馬鹿しい! 血の繋がりもない家族に意味などあるものかっ!!」
「意味はあります――」
その言葉を発した時。
「――血の繋がりがなくとも、信頼が絆を。絆が愛を。愛が繋がりを作るから」
ヴァナディスさんの顔は、手を伸ばせば届くところにあった。
「斬り殺すわよっ!?」
「台所で指を切ってばかりの私に、包丁の使い方を丁寧に教えてくれましたよね」
「焼き殺すわよっ!?」
「私が調理に失敗して火傷した時、いつも手当てしてくれましたよね」
ヴァナディスさんが、私から逃げるように後ずさっていく。
でも、逃がさない。
「何なの……何なのよっ!!」
「今の私があるのは、どんなドジを踏んでも、叱りながら支え続けてくれたヴァナディスさんのおかげです」
「違う。そんなの全部演技よ!」
「それこそ違います。メイド長だったヴァナディスさんこそ、本当のあなた。グリーンドラゴンでもフレイヤでもありません」
ヴァナディスさんが動揺している。
彼女は剣を取り落とし、転びそうになりながら、私から離れようとする。
もう殺気なんて一欠けらもない。
……気づけば、ヴァナディスさんはバルコニーの柵に背中をつけていた。
もう、逃げられない。
「来るなっ!」
「行きます。あなたを取り戻すのが、この私の使命だから」
バルコニーに乗り出すと、聖塔を見上げる何千人という人達の姿が見えた。
それこそ街路の先まで埋め尽くしている。
私は、彼らの期待する聖女様ではないけれど――
「ヴァナディスさん」
――それでも今この瞬間、私は聖女のように言葉を紡ぐ。
「大好きです」
私の腕がギュッと彼女を抱きしめた時。
「あ……」
ヴァナディスさんは。
「あああああぁぁぁ~~~っ!!」
大声で泣きだした。
「ほんっ、本当はっ、本当はずっとっ、ずっと苦しかったっ!」
「うん」
「もう嫌なことは忘れてっ、今の生活を続けたいってっ、ずっと思ってたっ!!」
「うん」
「でもっ、父様と母様がっ、いなくなったのを見たっ、小さな私がっ、どうしてもそんな生き方っ、許してくれなかったのぉぉぉ!!」
「もう大丈夫だよ――」
私は、子供をあやすように穏やかに。
涙でぐしゃぐしゃになったヴァナディスさんの顔を覗き込み。
彼女に嘘偽りのない言葉を贈った。
「――私達があなたの家族になれるよう、がんばるから」
私の言葉に、ヴァナディスさんは目を丸くしている。
「こんな頼りない妹だけど、がんばるから許してくれる?」
「許すも何も……許してほしいのは私の方――」
私は彼女に痛いほど力強く抱きしめられ。
「――ごめんねっ! 怖い思いをさせてっ、ごめんねぇぇぇ!!」
鼓膜が破れるかと思うくらいの声で謝られた。
「許すよ。だって、家族だもん」
「ごめんねぇぇぇ、ダイアナッ、ごめんねぇぇぇ!!」
私の胸の中で泣きじゃくるヴァナディスさん。
まるで、妹ができたみたい。
「……おかえりなさい」
どんなに辛いことだって。
どんなに難しいことだって。
人は、独りじゃなければ乗り越えられる。
過去は変わらない。
辛い出来事はいつまでもきっと覚えたまま。
罪は無くならない。
犯した過ちはその身に背負って生きなければならない。
でも。
未来に光があると信じられれば。
闇を照らす光が傍らにあることに気づければ。
人は迷わず、正しき道を歩むことができるに違いない。