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2、イングリッシュ・ローズ−3

 エルは、自分の生い立ちを知らない。赤ん坊の頃からフェリに育てられている。たぶんエルを育て始めたころの彼は、町で人々を震撼させた吸血鬼ではなく、引退して隠居を決め込んだ、今の彼なのだろう。

 エルは自分の出身地はおろか、誕生日も知らない。十七というのは、フェリに育てられてから数えた年齢だ。

 フェリは決して、エルの素性について語らなかった。彼も知らないのだろう。道端に子供が捨てられることも、そうそう珍しいことではない世の中なのだから。

 

     ○○○


「――花を取りに来たのですが」

 あのー、もしもし。何度も呼びかけられて、エルはようやくその声が自分に向けられたものだということに気づいた。

 いつの間にか雨が降り出していたようで、店の屋根を雨粒が叩いている。降り出したのにも気づかないぐらい、エルは店の奥で深く眠ってしまっていたらしい。

「ニコラです。注文していたお花、できてますか?」

 店番している最中の居眠りなんて、ジャスティンに見つかったら大変だ。とびおきたエルは口元をぬぐいながら、店の外に立つニコラ氏へとすっとんでいった。

「すいません、これ……!」

 ニコラ氏用につくった花束は、L.D.ブレスウェイドという名前のついた、真紅の薔薇が入っている。彼はいつも、自分がとりに来る花束にだけは、赤い花を入れてほしいと言っているらしい。ただ真っ赤な花束を作るのが嫌いなジャスティンは、ピンクやパープルの花も添え色として加えていた。

 花束を渡しながら、エルはちらりと店の外を見る。雨音は静かだけれど量は多いようで、水たまりに広がる波紋の数が多い。空気も冷たくなってきていて、自然と腕に鳥肌がたった。

「ご注文どおり、赤い花を使いました」

 ジャスティンも背が高いが、ニコラ氏はそれよりも大きいようだ。さすが名家の人らしく、上から下まで黒で統一した服の生地はとても上質なもの。年齢がうまく特定できない雰囲気をかもし出しているけど、話を聞いたらまだ五十路には届いていない。背筋がぴんと伸びていて、深くかぶった帽子とコートのフードで、顔はよく見えなかった。

「じゃあ、お金はいつもどおり」

 渡された皮の袋の中身は、確認しない約束だった。手に持ってわかる。これは金貨で、普段店で売る花束の値段より何倍も多かった。

「今日は、店主さんは?」

「……今、配達中なので」

 ニコラ氏のさしていた傘の先から、雨粒が滴り、足元におちる。ジャスティンは傘も持たずに配達に出かけたから、今頃ずぶぬれになっているはずだ。配達を頼んだはずのニコラ氏のおかしな質問に、エルはすこしばかりむっとしてしまった。

 その態度が伝わってしまったのだろう。ニコラ氏はじっと、エルをみつめた。

「何か?」

 影が濃すぎて、瞳がよく見えない。帽子を深くかぶりすぎて、髪の毛ですらよく見えない。エルが見るニコラ氏はいつもこうして帽子をかぶっているので、まともに首から上を見ることはなかった。

「……いや、なんでもない」

 年頃の女の子をそんなにじろじろ見つめるなんて。やはり、噂もあながち嘘ではなさそうだ。声をかけられる前に、エルは一歩、後ろへ下がった。

 ニコラ氏の視線が、顔からつま先、つま先から顔へと、まるでなめるように動く。そして、視線が胸の上でとまり、動き、顔に。エルはさらに一歩下がった。

「君、名前は?」

「エルです」

 強く名乗ることで、エルは拒絶をあらわした。きっと眦をあげると、彼も肩をすくめ、視線を花束へと戻す。

「ありがとう、お嬢さん。店主さんによろしくね」

「はい、ありがとうございました」

 こんな態度をとっては、もうジャスティンは仕事をもらえないかもしれない。けれどエルは、拒否し続けた。

 あの視線が、怖いのだ。なぜかはわからない。けれど見つめられると、どうにも落ち着かなかった。

 ジャスティンに見つめられると、落ち着かなくなる。その理由をエルは知っている。けれどニコラ氏の視線は、理由もわからず、鼓動が早くなった。

 背筋をぴんと伸ばしたまま、店を去る後ろ姿を、エルはじっと見つめる。道の交わる噴水を抜け、さらにまっすぐ行けば、そこには教会が待っている。雨のカーテンで、教会の十字架はかすんでいた。

 教会は西にあり、夕陽が沈むときに光を受ける十字架の輝きは、いつ見ても美しい。エルの帰る東の道は、この町で一番先に闇がおとずれるところだった。

 東の道をすすんだ町の外れにあるのが、フェリの館だ。館に住む、かつて人々に恐れられたはずの吸血鬼も、ニコラ氏のような恐ろしい瞳をすることはなかった。

 ジャスティン、早く、帰ってきて。エルはエプロンの胸元を強く握り締める。雨はやむどころか勢いを増して、しぶきに町の景色を朦朧とさせていた。

 まるで店の中に一人閉じ込められたようで、肌寒さがいっそう強くなる。震える腕を抱き、エルはジャスティンの上着を勝手に羽織った。

 上着に染み付いた彼の香りと、店に満ちた薔薇の香り。それに身をうずめて、エルはじっと、ジャスティンの帰りを待ち続けていた。


     ●●●

 

 エルは最近、町で何をしているのだろう。

 フェリは窓から暗くなった庭を見下ろし、首をかしげた。

 いつもなら、エルはもう帰ってきているはずだ。日中降ったらしい雨ももうやんでいるし、雨宿りを終えてももうついている時刻。なにか事件に巻き込まれたのだろうかと耳をそばだててみても、町からはいつもどおりの、穏やかな団欒の声しか聞こえなかった。

 エルももう一人でなんだってできるのだから、心配する自分は過保護なのかもしれない。わかっていながらも、フェリは久しぶりに庭へと降りた。

 庭の荒れ果てた一角は、通り道からちゃんと「廃屋」に見えるようにカモフラージュさせたものだった。人目につかない奥へとすすめば、エルが毎日手入れをする薔薇園がある。普段食卓に並ぶ薔薇はここでとれたもので、いわば家庭菜園のようなもの。町で仕入れた薔薇は本当に稀だったのだけど、最近はここの薔薇を見る機会のほうが減ってしまっていた。

 もともと、エルは食料の買出しに町に行っていたけれど、変化が訪れたのは去年、花屋ができるようになってからだ。その年の薔薇園は病気が多くて花も少なく、できたばかりの花屋で薔薇を買いながら、病気の対処法を教えてもらっていた。

 薔薇園の調子が戻った今も、エルはほとんど日をおかずに通っている。そして帰りには薔薇のほかにもたくさんの買い物をして帰ってくるけど、エルが持ち歩くお金はそんなに多くない。

 彼女はどうやら、町で働いているらしい。

「別に、貧しいわけではないんだけどな……」

 呟き、フェリは空を見上げた。雨があがったとはいえ空にはまだ雨雲が残っていて、月どころか星ひとつ見えない。フェリの目はこの暗闇に慣れているけれど、エルには見えづらいに違いない。

 夜の町は、誰も出歩かない。みんなそれぞれ家にこもっている。外に出たら吸血鬼に襲われるから……つまりフェリを警戒しているから。そう考えると夜の道は案外安全かもしれないけど、やはり娘の一人歩きが不安になり、フェリは館の門を開けた。

 外に出るのはそう珍しいことではない。太陽さえなければフェリも思う存分行動できるのだ。館にこもることに飽きたときには、いつもエルが寝静まったのを見計らって、散歩に出たりもしていた。

 舗装の整っていない道はあちこちに深い水たまりができていて、足元に気をつけないとズボンまで汚してしまう。けれど長年住んだこの道はもう覚えこんでしまっているので、フェリは軽快にステップを踏みながらすすんだ。

 月明かりがないせいで、道はとても暗い。夜目のきくフェリにも、世界がただ黒ずんでうつり、地面を這う虫の気配ですらまったく感じなかった。風がささやかにふいているけれど、心地よい音色にはならない。鼓膜をやたらに震わす、ただの雑音だ。

 その世界に、さして恐怖は覚えない。フェリは何年も何十年も何百年も、この暗闇を生きてきたのだから。

 昔はこの道を、夜泣きのひどいエルを抱いて歩いたものだった。フェリの目を盗んで勝手に出歩いて迷子になって、探し出すためにこの道を通った。初めて一人で町に行くといって、帰りが心配になってこうして待っていたこともある。

 誰もいない道を、エルと一緒に歩く。誰かと一緒にいる。フェリには相手が娘しかいないけれど、彼女は町で、たくさんの人と触れ合っているようだ。


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