2、イングリッシュ・ローズ−2
今の姿ではとても想像はつかないけれど、フェリは昔、とても悪かったそうだ。
彼がこの町に住むようになったのは、何百年も前からのことらしい。
“仔犬の町”は田舎町だから、物資を調達するためにはそれなりに大きな町へと買い物に出かけなければならない。エルが住んでいるという東の町とは真逆の、西の町にみんな出歩いてゆく。
その街にもないものを仕入れるとすれば、もっと遠い都市に行って買い物をする必要がある。頼めば荷物を運ぶ専門の人がいるけれど、実際に目で確かめるのは店主の仕事。だからジャスティンは花を仕入れるのに遠くの町まで行き、丸一日帰ってこないこともよくあった。
そんな田舎の“仔犬の町”でも、暮らす上での不都合はとくにない。深い山のおかげで土地が豊かであり、たくさんの畑や牧場がある。着るものも、贅沢さえ望まなければ手に入る。都市から都市への通り道であるため、たまに旅人や行商人が訪れては市を開くこともある。町の中心の商店街は、いつも活気にあふれていた。
人々が豊かに暮らすからこそ、吸血鬼が気に入ったのかもしれない。
フェリ伯爵は最初、どこに住んでいるのかわからなかったそうだ。けれどある日町でも二分に分かれる大きな一族の館を襲い、以来その洋館に住み着くようになった。昔はあの館のまわりにもたくさんの家がありにぎやかだったそうだけど、彼が住むようになってからは誰も近寄らなくなり、そのため近くにあるのは草木ばかりといった暗い廃屋になってしまったのだった。
フェリが一体どんなことをしていたのか。それは聞いているこちらも具合が悪くなるようなことばかりだった。
彼は主に、健康で若い者を好むようだったらしい。見目の美しい娘がとても好きだった。そして一度目をつけたら決して逃がさないしつこさがあり、フェリに狙われたものは逃れることができず、十字架を握り締めておびえることしかできなかったらしい。
吸血鬼にとって、血は生きるうえで必要不可欠なものだ。一口二口ぺろりとなめられるぐらいならまだ良かったかもしれないけれど、彼は必ず、すべての血を吸い尽くしていた。そのため、吸われた者は必ず死ぬ。長い間、彼の犠牲者は減らなかったという。
その彼がぱったりとあらわれなくなってから、町の平穏は戻ったかのように思われる。けれど吸血鬼の残した爪あとは深く、今も町の人々は吸血鬼の姿におびえていた。
ジャスティンが営むこの店もまたそうだった。
この町には花屋がひとつしかなかった。今、ジャスティンが開いているここがまさしくそうで、彼が店を開くまで、決して誰も買い取ろうとせず、かたく閉ざされたままだったらしい。同じく、他の場所で花屋を開こうとする者もいなかった。
この花屋の店主が、フェリの最後の犠牲者だったからだ。
エルが知っている情報はこれぐらいだった。話の核心に触れることはあまりない。人々にその質問をすると、みんな深くまでは話そうとしないので、結局は同じような話になってしまうのだ。
そして唯一すべてを話してくれるのが、ジャスティンだった。彼はその人懐こさのおかげで、町の人々にいろいろな話を聞くことができるのだ。おまけに、彼ももとはこの町の子ではない。だからなお、人々が念入りに吸血鬼の注意を呼びかける。だからこそ、細かい話まで知っているというわけだ。
「ジャスティンはどうして、この町に花屋を開こうと思ったの?」
「ひとつも花屋がない町っていうことは、そこで花屋をすれば町の人みんなが買いにきてくれると思ったから。みんな、自分が吸血鬼に襲われるのが嫌で、花屋を開かなかっただけなんだ」
吸血鬼の犠牲になった人の家のほとんどは焼き払われてしまったらしい。けれどこの花屋は商店街の中にあることから下手に火をつけることもできず、みんな立ち入るのを恐れていたので、家の中のもののほとんどは前の持ち主のものだった。
「でも、ひとりでこんな町にくるって決めて、家族とかなにも言わなかったの? ジャスティン、ここらへんの人じゃないじゃない」
この地方の人々は、金髪碧眼がほとんどだった。多少なり他の地域の血がはいっている人もいるけれど、彼のような茶色の髪も珍しい部類にあった。
「まぁおれは、身寄りがなかったからな」
「あ……ごめん」
悪いことを訊いてしまった。謝るエルに、彼はいいってとなれたように笑った。
「おれ、親に捨てられたかなんだか知らないけど、物心ついたときから行商の荷車の中にいたんだ。年くうにつれていろいろ仕事もらってさ、あちこち転々としてた。でも別に、それが嫌だったわけじゃないしさ」
だから気にすんな。な? と、ジャスティンが顔をのぞきこんでくる。
「自分で言うのもなんだけど、小さいころのおれはけっこうかわいい顔してたわけよ。だからいつも花とかの売り子やっててさ。いずれ大きくなったら、ひとりで花屋やるぞーって決めてたわけ」
そしてちょうど、行商で立ち寄ったこの町に、花屋がひとつもないことを知った。そして花屋の店舗と家がまるまる残っていることを知り、すぐさまこの町に住むことを決めたのだそうだ。
「まぁなんていうか、住めば都だし。おれはこの町好きだし。みんな優しいし」
都市にくらべて、やはり田舎は医者が少ない。だからささいな病で命を落としてしまう人も多く、身寄りをなくした子供たちを助けたのは、それこそこの団結した商店街の人々だった。生活の一方では吸血鬼の影におびえていたというのに、よくこんな明るい町になったなと、エルはしみじみ思ってしまう。
自分がその吸血鬼に育てられたというのは、誰にも知られてはいけない。口止めをしたのは他でもない、吸血鬼本人だ。
「……話がそれたな。んで、まぁ吸血鬼の話だけど」
話に夢中になりすぎて、ジャスティンが薔薇を短く切ってしまった。彼はしまったと呟いてそれを眺め、おもむろにエルの耳にひっかけた。黒い髪に薄桃色の薔薇がよく映えたようで、彼は一人、満足そうにうなずく。
「この店の前の店主が、最後の犠牲者なのは知ってるだろ? その人の死に方、ひどかったらしい」
「ひどかった?」
「床一面、血の海だったらしいんだ」
ちょうどエルは、花束に赤いリボンを巻こうとしていたときだった。思わず手を止め、とっさに、黄色のリボンに持ち替えた。
「店主が死んだのは自室だったらしくて。窓があいてて、血の跡が窓の外にも階段にも、あちこちにあったらしいよ。それだけ血を流して、さらに血を全部吸われて真っ青だったらしい。その人も、襲われる前からけっこうおかしな行動してたらしいから、そうとうおびえてたんだろうな……」
話を聞いていたエルが、ふと、声をあげた。
「ジャスティン。自室って、もしかして……」
「そう。今使ってるおれの部屋」
あっけらかんとした口調に、エルは軽いめまいを覚えた。
商店街の店は、どれもみな似たようなつくりだ。二階は大人数の家族でも十分満足できるような、広いつくりの部屋がいくつもあった。その店主もまた独り身だったというけれど、他の部屋もあったはず。なぜわざわざ、ジャスティンは惨劇の起きた部屋で寝泊りしているのか。
「だってさ、せっかく店引き継いでるのに、その店主さんの部屋を閉めきっちゃうのってちょっと失礼じゃないかと思ったんだ。別に血の跡が今でも残ってるわけじゃないし、広いし、日当たりいいし。家具も残ってたからいちいち他の部屋を作るのが面倒くさいのもあった」
その自室に、エルは何度もお邪魔していた。寝室はドアを開け放ち、リビングと一緒になっていた。たしかに、エルが気づかないほど、普通の部屋とまったく変わらなかった。多少女らしさは残っていたものの。
「そう……」
しぶしぶ納得しながら、エルは作業を続ける。
はさみをもつ手が、小刻みに震えていた。
話を聞けば聞くほど、今のフェリとはまったく違う。
フェリはその人々の噂を否定しなかった。血を吸っていたことも認めていた。けれど決して、自分の口から過去のことを話そうとはしなかった。
エルが見ていたのは、今のフェリだった。やさしくて、強くて、エルを大事に育ててくれたやさしい父親だった。吸血鬼が姿を消したあとの、誰も知らない姿だった。
「……エル?」
すっかり手を止めてしまったエルに、ジャスティンが心配そうに声をかける。それで我に返って、エルはあわてて笑顔をつくった。
「ごめん、ちょっと考え事」
「考え事?」
なに? と彼は訊くけれど、エルは答えない。彼に話したからといって、決して答えが見つかることはないのだから。