1、アバランチェ−3
そして血のかわりに、薔薇を使っていた。
たまにワインも飲むけど、好みはやはり薔薇のようだった。薔薇も色や形でそれぞれ味が違うようで、血のような真っ赤な薔薇のほうがいいかと思ったら、フェリは味が淡白だからと白い薔薇を好んでいた。
茎を花瓶に戻して、彼は桜色の舌で唇をぺろりとなめた。
「ごちそうさま」
「もういいの?」
「まだそんなにお腹すいてないんだ。エルが寝てからいただくよ」
にっこりと微笑み、フェリは立ち上がる。そして窓際にかけてあるローブをはおった。日が暮れてから、空気が少しずつ冷えてきたのだ。
エルもまた、寒さにカーディガンの上から体をこする。ランプの明かりを強くし、ちらと花瓶の薔薇を見た。
ジャスティンからもらった、ピーチ・アバランチェ。珍しい薔薇だから、さぞかしおいしいのだろう。フェリから感想を聞きたかったけど、残念だ。
できればついでに一輪だけでももらいたかったけど、しかたない、あきらめよう。
「今日は星が綺麗だね……」
窓を開け、フェリはそう呟く。新月をすぎて、月が徐々に満ち始めている夜空。月光の力がまだ弱いので、星の瞬きがいつもより輝いて見える。
今月は二度、満月になるだろう。長く積み重なった頭の中の暦を数えて、彼はそう教えてくれた。
数え切れないほどの年月をすごす間、フェリは一体何をしていたのだろう。そう疑問に思って訊けば、いつも星を見て過ごすのだという。あるいは書物を読み、たまに人間たちの様子を探ってみたりと、自由気ままに生きてきたらしい。
「ねぇ、フェリ」
エルは彼を名前で呼ぶ。小さいころからそうだった。フェリは決して、エルに「お父さん」と呼ばせなかった。
「あたし、まだ眠くないの。なにか話、きかせて?」
椅子に腰掛け、エルは首をかしげてみる。幼いろから、いつもこうして彼に話をねだっていた。
今日も話を聞こう。そしてこの薔薇を、忘れないよう目に焼き付けておこう。
●●●
「――エル?」
フェリが呼びかけると、返ってきたのは静かな寝息だった。
「寝ちゃったか……」
呟き、フェリは小さく笑う。エルはいつもこう。話を最後まで聞く前に、睡魔に負けて眠ってしまうのだ。
彼女を起こさないよう気をつけながら、フェリはテーブルに突っ伏すエルを抱き上げる。いつのまにこんなに重くなったのだろう。そんなこと本人の前で口にしたら怒られるのだけど。
この大きな洋館は、その昔、フェリが奪い取ったものだった。元の館の主も、その子孫たちも、血筋が途絶えてしまってもういない。だからこの館に所有者はいなく、長い間住み続けていたフェリが事実上の主となり、町外れの洋館には吸血鬼が住むと恐れ誰も近寄らないようになっていた。
食堂もダンスホールも書斎も地下室もある館だけど、あまりの広さと老朽化に、ほとんどは閉ざしてしまっている。使っているのは館の屋根裏部屋。それと、その付近の部屋。フェリの寝室やエルの部屋もあるし、台所などもフェリ自らかなづちを握ってとりつけた。多少いびつではあるものの、生活するのに不便はない。
エルの部屋は、朝陽がさしこむ大きな窓の部屋にした。かわいらしいカバーのかけられたベッドにエルを寝かせ、布団をかける。さすがにもう、服を勝手に着替えさせては怒られるだろう。
顔にかかった髪をはらい、フェリはしばし、その寝顔を眺めた。
エルはフェリの娘ではない。吸血鬼と人間というのもあるけど、なにより顔が似ていない。自分の髪も昔は黒ではなかったし、大樹の葉を思わせるような大きな目もしていなかった。自分の境遇を気にしないはつらつとした性格も、太陽のように笑い、歌うその姿も、自分と同じものはほとんど感じられない。
しいていえば、その白い肌。フェリと生活していると、どうしても太陽にあたる機会が減り、色が白くなる。それが共通点だった。
エルは唇の中で何事か呟き、ふふと微笑む。夢を見ているのだろう、まぶたの裏で瞳が動いているようだ。
久しぶりに入った娘の部屋に、フェリは好奇心を押さえきれず、きょろきょろと見回してしまう。いつの間にか部屋の人形の配置も変わり、色調も大人っぽくなったようだ。エルももう十七歳。いつまでも子供なわけではない。
家具はどれも古いものだけど、彼女は決して文句を言わず、壊れたらフェリと一緒に釘を打って直していた。この机もそうだ、引き出しがひとつ、腐ってしまって、ない。おもむろに手に取った本を開くと、ページの間から何かが落ちた。
拾い上げると、それは花びらだった。
かすかな香りだけど、五感の優れている吸血鬼にはそれが何の花だったかすぐにわかる。薔薇の花びらだ。たしか一月ほど前に、エルが町の花屋でもらってきた、変わった薔薇だった。珍しい品種でフェリはエルに一輪あげたのだけど、どうやらこうして保存しておいたようだ。
花びらと本を、ノートの散乱した机の上に戻し、フェリはもう一度、エルの寝顔を見る。そしてふっと微笑み、その額に口づけする。彼女が起きてしまわないように、物音を立てないよう、静かに部屋を出て扉を閉めた。
居間に戻って、フェリはテーブルの上の花瓶を見る。先ほどよりも長く、まじまじと眺めた。いつもはただの薔薇だけの花瓶だけど、月に一度ぐらい、豪華な花束になっていることがある。今日もそうだ。
フェリはエルが町に出ることをとめなかった。ただ、自分の素性を決して明かさないことだけは約束させた。昼間、町に買い物に出かけて、長い間帰ってこないのも知っている。けれどどうせ自分は眠っているのだからと、とくに気にしていなかった。
どうやらエルは、自分が思っていた以上に、自分の世界を広げ大人になりつつあるらしい。
月のものが始まったのはずっと前のことだ。けど、そういう意味ではない。体つき、表情。それも違う。いや、関係していないとは言い切れないのだけど。
彼女は町で、たくさんの人に会っているはずだ。そしてきっと、この花束をもらった人物に対する感情が芽生え始めているに違いない。
この薔薇を見たときのあの表情。それはフェリが出会ってきた女性の中で、多くの人々が見せる表情だった。
「そうか……エルももう年頃なんだもんな」
おどけるように、呟いてみる。つい昨日まで子供だと思っていたのに。成長が嬉しくもあり、すこし寂しくもあった。
ピーチ・アバランチェ。とてもなつかしい。幾重にも重なる花びらがとても美しくて、口に広がる味は名前の通り、桃のように繊細で鮮やかだった。
けれどフェリは、その薔薇には手をつけなかった。
いつもの、真っ白なアバランチェ。それは数ある薔薇の中でも一番食しやすく、飽きることのない、フェリにとってのパンのようなものだった。
それを唇にあて、みずみずしい生気を吸い取ってゆく。唇から甘い香りのようなものが全身に広がり、酒を飲んだときにも似た、奇妙な高揚感を覚えた。
吸血鬼にとって、薔薇は血のかわり。ワインも同様だけど、フェリは薔薇のほうが好きだった。
血は、まさしく吸血鬼の命の糧だ。普通の食事とは違い、食せば食すほど、自分の寿命が延びてゆく。血を食さなければ、いずれ命尽き果て、死んでしまうのだ。
吸血鬼は完全なる不老不死ではない。血を飲まなければ死んでしまう。血にはその人間の心臓が刻んだ命の源が宿っている。そして吸血鬼は、吸った血に含まれた命を、自分のものにすることができるのだ。
血を吸わなければ、いずれは貯めていた命がつき、死んでしまう。薔薇や赤ワインでは、寿命を延ばすことはできない。
薔薇が血のかわりになるのは、普通の食事では得られない生気を補うことだけだ。身体自体はとうに自らの寿命を過ぎている。吸血鬼はその身体を動かすために、血から生気と寿命を補給する。ワインや薔薇だけを食しても、身体を動かすことはできるけど、寿命が尽きれば死んでしまう。
フェリはこれから先、ずっと薔薇とワインのみで暮らそうとも、長らく生きることができるほどの寿命があった。それは若い頃にした所業の数々が物語る。命尽き果ててもなお続くその年月が、気が遠くなるほど長すぎて、嫌になってしまうほどだった。
かといって、吸血鬼が、寿命が尽きるまで死なないわけでもない。身体のつくりはエルたちと同じ人間。少しばかり治癒力が強く、少しばかり身体能力が優れているだけで、骨の数や機能はまったくもって同じだった。