エピローグ
エピローグ
フェリが消えた日から、一月がすぎようとしていた。
抱えていた花束を、エルはそっと、地面に寝かせた。
教会に来たのは初めてだった。
そしてそのすぐそばに、ルーシー・ヘルネスのお墓があるのを知ったのも、つい最近のことだった。
自分の母である人。その人が好きだといった花を、エルはジャスティンに頼んで仕入れてもらった。
月に一度の大量注文で、とても忙しいはずなのに。彼は真っ先にエルの花束を作り、店のことはいいからと送り出してくれた。
ジャスティンもまだ、身のまわりで起きた出来事に対して、頭の整理がつききれていないようだった。けれど、エルに対する態度は変わらなかった。
むしろ仲が深まっている気がするのは、うぬぼれではない。一緒に暮らすようになってから、お互いに必要とし合っていた。前よりもお互いを理解しあい、エルが悲しみに打ちひしがれているときは、ともに抱き合い泣いてくれた。
ルーシーの墓は大きな木の根元にあり、風にざわめく梢の音がとてもよく響いた。はらはらと落ちる葉が墓前に降りそそぎ、春は木に、綺麗な花が咲くのだろうと思った。
エルは膝を折って、墓前にしゃがみこむ。そして墓石に彫られた母の名前を、何度も何度も目で追った。
フェリの墓は、どこにもない。彼はあの光の中、消えてしまったのだから。
けれどエルは、フェリもまた、ここで眠っているのではと思っている。
最期を迎えた彼は、教会を見ていた。ここに、ルーシーが眠っているのを知っていたのだ。
きっと彼は、生前、何度もここを訪れたに違いない。エルを育てることの不安で押しつぶされそうになったとき。エルがはじめて立ったとき、しゃべったとき。すがることもあれば、喜びの報告をしたこともあったに違いない。
だからエルは、花束を二つ用意した。
中身は同じ。包装も同じ。ひとつの大きな花束を作ればいいものを、ジャスティンもだまってエルのお願いどおりにしてくれた。
花束の花弁を撫で、エルは自分の髪飾りに触れる。はじめて見るその薔薇は、たしかに、髪飾りとよく似ていた。
ロイヤル・ハイネス。
重なりあう花びらが、中心に近づけば近づくほど、濃いピンクへと変わってゆく、大輪の薔薇。はじめて見たとき、エルはその美しさに瞳を奪われていた。
フェリとルーシー。二人が、好きだといった薔薇。それをエルもまた、好きになった。
そしてその薔薇は、どこかフェリを髣髴とさせるものがあった。真っ白な髪や肌。それに、うっすらと色づいた頬や唇。ルーシーが、フェリに似ているといっていた意味がよくわかる。
花束と墓石とを見比べながらも、エルは声をかけるということができなかった。今日、こんなことがあったよ。誰々は元気だよ。そんな言葉ですら、出てくることがなかった。
フェリは、町の人に姿を見られたと言っていた。その中にはジャスティンが含まれるけど、彼はもちろんそれを口外することは無かった。
では、フェリが懸念していた町の人とは誰だろう。エルは考え、意外な人物を知った。
サマンサだった。
彼女の愛しの君は、フェリだった。彼女はフェリが消えてしばらくしたあと、そう、エルに教えてくれた。
恋をした人が、最愛の友を殺した人だという事実に、しばらく心を弱らせていたことがあった。でも彼女の持ち前の笑顔は、自分をも強くし、最近では新しい恋人もできたようだった。
町の外れの館は、そのまま形を残している。まだ荷物のすべてを運びきれていないので、エルはまめに通っていた。
町の人々を安心させるためには、館を消してしまったほうがいいのかもしれない。けれどエルに、火をつけるつもりはなかった。あの館は自分の育った家なのだから。
吸血鬼を恐れる心は、まだまだ消えないかもしれない。けれどサマンサや町の人々は、すこしずつながらも、過去から歩みだし始めている。
フェリのことは人々の記憶に残るだろう。けれど時が経てば、あの有名な吸血鬼のようになってしまうはずだ。
それを報告するべきだろうか。けれど、言葉が出ない。エルはただただ、口を閉ざしていた。
しばらくだまって墓石に触れ、エルは店に戻ろうと腰を上げた。風が吹いて、頭に葉がいくつもふりそそでいた。
「…………?」
土を踏む、たしかな足音が聞こえて、エルは振り向いた。
一人の男性が、ほんの少し前にエルがそうしていたように、花束を抱えて歩いてくる。その人はエルに気づくと、どうもと頭を下げた。それは、墓場のあちこちで見られる光景だった。
道をあけようと、エルは墓から離れる。するとその人は、ルーシーの墓石の前で、足を止めた。
「こんにちは、ニコラさん」
「君は、花屋の……」
置かれた花束を見て、彼――ニコラ氏はエルを見る。そして花束と顔とを見比べ、エルが墓参りしていたことを知ったようで、目深にかぶっていた帽子をはずした。
「この薔薇は、君が……?」
「はい」
彼も、エルが隣町から来た子だと人づてに聞いて知っているに違いない。しげしげと顔を見つめられ、エルは以前のように視線から逃げることなく、堂々と見つめ返した。
「ニコラさんも、ルーシーさんの?」
「……あぁ」
赤い薔薇の花束を、彼も墓前におく。エルはその場を去ろうと、そっと背を向けた。
「――待ってくれ」
呼び止められ、振り向く。
「君の名前は?」
「エルです」
「君の親は……?」
「隣町にいます」
風にふかれ、ニコラ氏の短い髪がなびいている。帽子をはずしたおかげで、エルははじめてまっすぐに、彼の顔を見ることができた。
ニコラ家は、この町で唯一、黒い髪と瞳をもつ一族だった。
「君の母親は、この墓に……?」
「いいえ」
エルは嘘をついた。
私の母は、ルーシー・ヘルネス。
そして父は、フェリ伯爵。
言おうと思えば、簡単に口にできる。けれどエルは、自分と同じ黒曜石の瞳を見上げ、フェリのように柔和に微笑んでみせた。
「両親とも、健在ですよ。今日は、花束を届けにきただけです」
それでは。頭を下げて、エルは今度こそ、ニコラ氏に背を向けた。
背中にまとわりつく視線には、気づかないふりをした。
自分の父はあなたではない。
自分をここまで、愛し、育ててくれた父親は、フェリ以外にはいないのだから。
エルは決して、ニコラ氏を振り向こうとはしなかった。
教会を去り、町の中央まで歩いたところで、エルは見慣れた茶色い頭を見つけた。
「――ジャスティン!」
「エル。もういいのか?」
うん、とエルはうなずく。そして、手ぶらになっている腕に、自分のをからめる。いつしかこの流れも、自然とできるようになっていた。
「配達、終わった?」
「ああ。今月は少なかったから」
一緒に店に戻りながら、エルはジャスティンを見上げる。その視線に彼は首をかしげたけれど、とくに何も言わなかった。
「花束、どうもありがとう」
「どういたしまして。あれぐらいならお安いご用さ」
エルは背伸びをして、その頬にキスをした。
彼はそれに驚き、目を見開いたけれど、すぐに微笑を浮かべて、エルの額にキスを返した。
視線をからめるジャスティンの向こうに、噴水のきらびやかなしぶきが見える。
髪飾りに触れる指がくすぐったくて、エルは首をすくめる。口からは自然と、笑みがこぼれていた。
父がいつも微笑んでいた理由が、エルにもすこし、わかった気がした。
END